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貴姫が辞すと、長官室の中には沈黙の帳が降りた。部屋の外では出仕時間帯特有のざわつきが感じられるのに、壁を一枚隔てた内側では不自然なくらいに空気が凪いでいる。
「磐燎、ねぇ……」
その中に声をこぼしたのは、意図してのことではなかった。無意識のうちにポロリと転がり落ちていった慈雲の言葉に、涼麗が顔を上げるのが気配で分かる。
「磐燎で使われてた呪術ってなると『密』って呼ばれてたやつか。お前、そっちも詳しかったりする?」
「……詳しい、とまでは、言えない」
そんな視線に答えるように顔を向ければ、涼麗はうっすらと眉間にシワを寄せていた。軽く腕を組んで慈雲を見上げた涼麗は、普段と比べると心持ち分かりやすく苦い感情を表に出している。
「郭家でかじった程度だ」
「それでも、何も知らないよりはマシだろ」
かつて磐燎と呼ばれた地は、沙那と隣り合っていながら独自の文化を育んでいたと言われている。呪術も沙那で扱われている退魔術とはまた違った体系の技が振るわれていたという話だ。
仏を崇める国であった磐燎では、僧侶達が密と呼ばれる力を振るい、人々に降りかかる災禍を祓っていた。
だがその御業も、磐燎と呼ばれた国が絶え、民が散り散りになった今は失われて久しい。辺境の寺院がごくわずかに伝えている程度だろう。
「密だけで編まれた呪詛であったなら、大乱当時に誰かがそれに気付けたはずだ。四鳥の人間だってこっちにはいたんだ。誰も気付かなかった、なんてことはさすがにねぇだろ」
事実、四鳥の一角であった郭家は、弟子に密の概要を教えられるだけの知識があった。弟子の中で末席にあたる涼麗でも『かじった程度』と言うくらいに触れているならば、恐らく次期当主候補筆頭であった永膳はもっと深い知識を叩き込まれている。
──いくら永膳が途中から寝返ることを考えていたとしても、密の存在に気付いた上で一切を秘匿していたと考えるのは不自然だ。
つまりあの呪詛陣は、沙那の退魔術を基盤として編まれていたと考えるべきだろう。その奥に密の知識と退魔術とは異なる術の理があったからこそ手癖が読み切れず、解析に時間がかかったということだ。
「密って、月と星の運行が影響力を持ってるって話だよな? だったら今回の呪詛陣が発動する瞬間の割り出しも……」
「慈雲」
慈雲はとりあえず思いついた考えを脈絡もなくつらつらと口にする。
そんな慈雲の言葉を、涼麗の声が遮った。その声がいつになく真剣であることに気付いた慈雲は、涼麗へ顔を向ける。
「訊いておきたいことがある」
真っ直ぐに慈雲を見据える涼麗の瞳は、声音以上に真剣だった。その重みと強さを感じ取った慈雲は、体ごと涼麗に向き直ると正面から涼麗の視線を受ける。
「何だ?」
「同情など、していないだろうな?」
何に、という部分を、涼麗は口にしなかった。だがその部分が省かれていても、涼麗が何を指してそう言っているのかは察することができる。
だからこそ、思ってもいなかった問いに、慈雲は目を見開いた。
「貴姫が『お兄様と同じ』と言った時。『自分達ならば、拐われたたった一人の元に、何を犠牲にしてでも必ずたどり着く』と言った時。お前は、揺れた」
そんな慈雲の変化を見ていながらも、涼麗が眼差しを緩めることはない。ひたと慈雲に据えられた瞳は、逃げも誤魔化しも許さないと言外に物語っている。
「貴陽と冥翁を重ねて、同情したりしていないだろうな?」
「ない」
だからこそ、慈雲は真正面からキッパリと涼麗の言葉を否定した。
「確かに、似ているとは思った。だが、それとこれとは話が違う」
その上で、嘘偽りのない本心を、包み隠さず口にする。
これから先、自分も周囲も、揺れることがないように。
「冥翁には、確かに同情できる余地がある。それは感じた。だがそれはあの大乱を引き起こしたことを許容できる理由にはならない」
貴姫から話を聞いた時、確かに貴陽と同じだと思った。貴陽が冥翁と同じ立場に置かれたら、……万が一、慈雲が理不尽な理由で縊り殺され、貴陽がそれをただ見ていることしかできないなどという状況が発生すれば、確かに貴陽も世界の全てを呪って壊して許しはしないだろうとも考えた。
だがそれらは『ならば冥翁を救ってやれる道はないのか』という考えには繋がらない。
動機に同情の余地があっても、冥翁が成したことに釈明の余地はない。
ヒトには越えてはならない一線があり、冥翁はその一線をはるかに越えてしまっている。さらに言えば、自分達と冥翁は置かれた立場が真逆だ。自分達の守りたいものが冥翁にとっては憎き仇である以上、自分達の間に『落としどころ』などという平和な着地点は存在しない。
冥翁は、必ず討ち滅ぼさなければならない災禍だ。
そして今は、同じ括りの中に永膳も存在している。
「あの時、こっちがどれだけの犠牲を払ってて、今、俺達の肩にどれだけの命運が乗ってると思ってんだ。この程度で今更ブレたりするかよ」
その覚悟を込めて、慈雲は涼麗から視線を逸らすことなく言い切った。対する涼麗も、慈雲の奥の奥まで見透かそうとするかのように真っ直ぐに慈雲の瞳を見据え続けている。
──黄季と出会ってからだよな、お前がこんなに強い目を向けるようになったのは。
ふと、その瞳の強さに、黄季の瞳が重なって見えたような気がした。
永膳の傍らにいた時、涼麗が図るように慈雲を見つめることはあっても、その視線に強さを感じることはなかった。瞳の奥を見透かそうと見つめられることはあっても、その視線は風を受けた瞬間にかき消されてしまいそうなくらいに儚いものだった。
それが今では、これほどまでの強さと圧が涼麗の視線に宿っている。
その違いはきっと、涼麗の内面の変化から生じたものなのだろう。
「かく言うお前は、どうなんだよ?」
そのことを思った瞬間、慈雲の唇からも問いがこぼれていた。向けるつもりはなかった問いに、涼麗が視線だけで『何の話だ』と問い返しているのが分かる。
「永膳のこと、どう割り切ったんだ」
問うつもりはなかったが、口にしてしまうと今こそ訊ねておいた方がいい疑問だとも思った。
──お互いに、しまい込んだままにしない方がいいだろうしな。
ずっと、仮初の平和の上に立っていた。薄氷を踏むような危うい日々を、自分達は過ごしてきた。
その仮初の日々も、直に終わる。終わってしまえば、自分達だって命の保証はない。
戦いの火蓋が切って落とされれば、わずかな心の揺れが命取りになる。永膳も冥翁も人心掌握術に長けた術師だ。こちらを揺さぶることを躊躇うようなこともなけれれば、生み出した隙を見逃すこともない。
だから、いざという時に、揺れずに済むように。
万が一の時に、言わなかったことを、後悔しなくてもいいように。
機があるならば、……場合によっては機がなくとも、心の内は相手に伝えておかなければならないのだと、慈雲はすでに知っている。
「黄季と永膳が対峙した時、お前は迷わず黄季を庇って永膳に刃を向けた」
慈雲が言葉を付け足すと、涼麗は無言のままわずかに目を見開いた。引き結ばれた唇と強張った肩からは、涼麗の動揺がわずかに透けて見えている。
「正直言って俺は、そうあってほしいと願いながらも、実際は難しいとも思っていた。……お前にとって永膳っていう存在は、『願い』やら『思い』やらでどうこうできる存在じゃねぇだろ」
相方。主従。兄弟弟子。共依存。
涼麗と永膳の関係を言い表す言葉はいくつか存在している。
だが今この局面に立って振り返ってみれば、二人にもっとも相応しい関係は『支配関係』なのだろうと慈雲は思う。
永膳は涼麗に並々ならぬ執着を抱いている。それこそ、涼麗を完全に手元に囲い込むためだけに国を焼こうとしているくらいに。
涼麗の全てを支配して、涼麗が生きる世界を全て己の管理下に置く。見るものも聞くものも触れるものも、それどころか涼麗自身の思考さえも、己が選んだものしか許せない。
そんな狂気とも言える執着を、永膳は今も昔も涼麗に向けている。
八年前までの涼麗は、その執着に従順だった。それを当たり前のものとして、ただただ永膳が望む『氷柳』として存在していたように思える。
その構図は、たかだか八年の空白を経ただけで崩れるほど脆くはない。
少なくとも慈雲には、そう見えていた。
だが涼麗は慈雲の予想に反して、あの瞬間、その構図を自ら否定した。確かにあの時は黄季の命がかかった緊迫した状況ではあったが、それでも慈雲にとっては『意外な』としか言いようがない展開だったのだ。
「それでもお前は永膳に『否』を叩き付けた。……お前は、次に永膳と顔を合わせても、同じだけの『否』を永膳に突きつけることができるのか?」
慈雲の問いに、涼麗は呼吸さえ忘れたかのように凍り付いていた。そんな涼麗をひたと見据えたまま、慈雲は涼麗からの答えを待つ。
──永膳に涼麗をぶつけないまま事を終わらせることは、どう考えたって不可能だ。
永膳と正面から戦えるほどの実力を持つ者は、泉仙省に限らず沙那全土を見渡しても涼麗以外に存在していないだろう。最終局面で涼麗は必ず永膳と対峙することになる。そうなるように慈雲は事を運ぶつもりだ。
その時になって、涼麗が過去のしがらみを振り切れずに永膳に屈服させられるようなことなど、あってはならない。そんなことになれば、ここまで積み上げてきた全てが無駄になる。
たとえ涼麗が永膳に何を思っていても、二人の関係が今現在どんな形に変化していようとも、涼麗には永膳を打ち破ってもらわなければならない。
そうは思っていても、一抹の不安はいつまでも消えずに慈雲の胸中にこびりついている。
──涼麗が一度永膳に反旗を翻す現場を見ていたとしても。
それでもなお、不安が拭い去れないくらいに、傍から見ていても永膳による支配と執着は凄まじかった。
「……私、は」
慈雲の問いに、涼麗はしばらく答えを返せなかった。それでも涼麗の唇は開いては閉じ、閉じては躊躇うように開いて、必死に言葉を探している。
いつでも凍て付いたように凪いでいたはずの瞳が、ユラユラと揺れながらもどかしそうに視線を伏せた。
それでもなお、涼麗は必死に言葉を探し続ける。
「あれだけは手放せないと、思ったんだ」
その果てに紡がれた声は、この静寂に押し潰されてしまいそうなほどにか細かった。
それでも涼麗は、伝えることを諦めることなく、必死に言葉を紡ぎ続ける。
「永膳が、とか、他が、とか。……何かを思うよりも、……感じる、よりも。それよりも、ずっと早く、……あれだけは失えないと、なぜか体が、動いたんだ」
慈雲はその声を、黙ったまま聞いていた。
涼麗の声は、細く、弱々しく、今にも押し潰されて消えてしまいそうなほど震えている。
それでも、その声には、慈雲の耳を引きつけて離さないだけの力があった。
思えばずっと昔から、……泉仙省に入省して、行動をともにするようになった頃から。
慈雲はこうやって、涼麗自身の口から、涼麗の本音を聞きたかったのかもしれない。
「『戦いたくない人は戦わなくてもいい世界を創りたい』と、あれは私に言った」
不意に涼麗が視線を上げる。再び慈雲に据えられた瞳は、うねる感情に揺れながらも、強い意志を宿していた。
「あれが変わりなくそう言い続けられる世界で、私はあれの隣にいたい」
続けてそう口にした瞬間、涼麗の瞳からは揺らぎが消える。奥底まで澄んだ漆黒の瞳に挑みかかるような色を見た慈雲は、その強さに思わず目を丸くした。
同時にストンと、涼麗の願いは慈雲の胸に落ちる。
「だからきっと、私から永膳に叩き付ける答えは、……これから先も、ずっと『否』だ」
「……そうか」
思わず、口の端に笑みが浮かんでいた。そっと瞼を閉じれば、フワリと肩から力が抜けていく。
「そりゃ良かった」
瞼の裏に、今まで自分達が過ごしてきた日々が流れていくような心地がした。その最後に、弟子と隣り合って並ぶ涼麗の後ろ姿が見えたような気がして、慈雲はさらに笑みを深くする。
──本当に、良かった。
胸中に落ちた声がいつになく感慨深い響きを帯びていたのは、きっと自分の思い違いなどではないだろう。
そんな己の内心を『やだねぇ、年々感傷的になっちゃってまぁ』と茶化しながら、慈雲はわずかな間だけ、その感傷に浸っていた。
※ ※ ※
「ただ今戻りました」
「お帰り」
簡易休憩室に貴姫を送り届けてから泉仙省に戻った黄季は、ひとまず長官室へ顔を出した。卓について書類に筆を走らせていた氷柳は、黄季の帰還を受けて顔を上げる。どうやら慈雲は席を外しているらしく、室内にいるのは氷柳だけだ。
「大事なかったか」
「はい。き……えっと、『先生』も、無事に帰宅の途につかれたようで」
とっさに『貴姫さん』とこぼれそうになった言葉を言い換えながら答えると、氷柳は常の無表情のまま小さく頷いた。それだけのやり取りで書面に視線を戻した氷柳は、サラサラと続きを書き上げていく。
──珍しいな、氷柳さんが積極的に書類仕事をこなしてるなんて。
「黄季」
『いつもならこれ幸いとばかりに他事に意識が飛んでいくのに』と黄季が若干失礼なことを思うと、まるでそんな内心の声が聞こえたかのように氷柳は筆を止めた。さらに凪いだ瞳が黄季へ向けられる。
「慈雲が戻ってきたら、出かけることになっている。お前も一緒に来い」
「え、どこへですか?」
「煌家へ。貴陽が密……磐燎呪術に関する情報を残しているのではないかという話になってな」
どうやら黄季が席を外している間に、氷柳と慈雲の間で今後の方針についての話し合いがされていたらしい。恐らく『冥翁の素性に行き着いていた貴陽ならば、さらにそこから踏み込んで、呪詛陣に対抗するための情報め集めていたのではないか』という話になったのだろう。
「本来ならば、慈雲はこの部屋から下手に動かない方がいい」
「防護の陣が敷かれているんでしたっけ?」
「ああ。この部屋にいれば、慈雲の安全は保証される。だが貴陽が自邸に隠し持っているかもしれない情報を探るならば、慈雲の同行は不可欠だ」
氷柳の言葉に、黄季は素直に頷く。
確かに、貴陽の思考の癖を読んで探し物をしなければならないならば、慈雲以上の適任者はいない。貴姫にも協力してもらえれば、ほぼ確実に何かは見つけられる。逆に二人の捜査で見つからなければ、『貴陽が残した情報は何もなかった』と断言してもいいだろう。
「本日の私達の任務は、慈雲の護衛、兼、助手だな」
簡単に事情を説明した氷柳は、手にしていた筆をコトリと筆置きに戻した。
──なるほど。だから珍しく書類仕事にやる気を見せていた、と。
「……明日は、非番だな」
『時間制限があって、強制終了が目前に迫っていたからこそのやる気だったのか』と黄季が納得を胸中で呟いていると、不意に氷柳が声を上げた。先程までの話とは繋がりが見えない発言に首を傾げながらも、黄季は氷柳の言葉を肯定する。
「そうですね」
『何か食べたい料理でもあるのかな?』と、黄季は首を傾げたまま氷柳へ視線を注ぎ続ける。だが氷柳は黄季を見上げたまま、しばらく唇を躊躇わせていた。
──氷柳さん?
「……出掛けたい、場所がある」
黄季からは急かすことなく、無言のままゆったりと氷柳の言葉を待つ。
そんな風に黄季がいつもと変わらず氷柳の発言を待っていると、氷柳は躊躇いながらもはっきりと己の意志を口にした。
「その、……私、一人で」
「えっ、でも」
「私一人で、行かなければならない場所なんだ」
この局面で単独行動を取るのは、あまりにも不用心が過ぎる。いくら氷柳が永膳側に害される危険が低いと目されていても、だ。
「最終決戦の火蓋が切られる前に。……どうしても、向き合っておかなければならないことがある」
氷柳は決してそのことを理解していないわけではない。
それは、氷柳が黄季に向ける瞳に宿る光の強さで分かった。
「行かせてくれないか」
ならば黄季が口にできる言葉は、ひとつだけだ。
「分かりました」
反論の言葉は、いくらでも用意できた。説得の言葉を並べれば、恐らく軍配は黄季に上がる。
それを分かっていながらも、黄季は氷柳に了承を返した。
──適当に誤魔化して単独行動に出ることも、氷柳さんにはできたはずだ。
揉める可能性があるにも関わらず真っ正直に黄季へ『単独行動がしたい』と切り出したのは、氷柳がそれだけの誠意を黄季に向けてくれているからだ。真摯に理由を話せば、黄季ならば思いを受け取ってくれるはずだと、氷柳が黄季を信頼してくれているからだ。
ならば黄季だって、同じものを氷柳に返したい。
「美味しいご飯を用意して待っているので、十分に気を付けて、必ず無事に帰ってきてくださいね」
八年前、家族の誰にもついぞ言えなかった言葉を、黄季は小さな笑みとともに氷柳へ告げた。
そんな黄季の脳裏に誰の姿が浮かんでいるのか、氷柳は察することができたのだろう。わずかに目を瞠った氷柳は、次いで強い光が宿る瞳をしっかりと黄季に据える。
「……ああ」
その上でフワリと口の端に浮かべられた笑みは、まるで野草が花を咲きほころばせるかのように穏やかなものだった。
「必ず」
──ああ、今の氷柳さんなら、きっと大丈夫。
その笑みと、短くも力強い返答を受け取った黄季は、氷柳の笑みに応えるようにそっと笑みを深めた。




