表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【コミカライズ1巻 1/29発売決定!】比翼は連理を望まない  作者: 安崎依代@「比翼」漫画①1/29発売決定!
拾八

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

57/63

※※

 一瞬、時の流れさえもが死に絶えたのかと思った。


 慈雲(じうん)に一言、噛み締めるように言葉を投げた()(よう)は、距離を詰めることもなく沈黙している。対する慈雲は息を詰めたまま、口を開くことも、動き出すこともできない。


 静かで、張り詰めているのに、妙に空虚で、それでいて硬質な。


 そんな静寂が、二人の間に横たわる。 


「……お前」


 その静寂は、慈雲の口から無意識のうちにこぼれた言葉で破られた。


 自分で聞いてもゾッとするほど平坦な声は、続けて『(こう)貴陽』に問いを投げる。


「こんな所で、何をしている?」

永膳(えいぜん)さんの所を抜け出すのに、ちょっと手間取っちゃってさ」


 慈雲の問いを受けた貴陽は、少しだけ肩の力を抜いたようだった。安堵に笑みを崩した貴陽は、後ろで手を組んだ体勢のまま、ゆっくりと慈雲に向かって歩を進め始めてくる。


「でも、永膳さんの根城の座標はしっかり掴めたから。だから、それを使って、反撃の策を練ろうと思って」


 その姿にスッと目をすがめた慈雲は、貴陽の仕草を真似るように後ろへ右手を回す。


 そんな慈雲の一挙手一投足を観察するかのように、『煌貴陽』の瞳が笑みを浮かべたままスッと狭められた。


「だからこうして、慈雲に会いにきたんだ」

「へぇ、そうかよ」


 カツ、コツ、と、一歩ずつ着実に間合いが詰まっていく。


 その間があと五歩程度まで縮まった瞬間、慈雲は己の顔に冷笑が浮かんだことを自覚した。


「で、お前、どちら様?」


 同時に、後ろに回されていた右腕が前へ振り抜かれる。予備動作なく振り抜かれた腕には、(ひそ)かに召喚されていた偃月刀が握られていた。


 重量武器を握っているとは思えない早さで振り抜かれた重い一撃は、本来の貴陽ならば避けることも受けることもできない代物だ。


 だが慈雲の腕には金属同士がかち合う重い衝撃が走り、ガキンッという耳障りな音が周囲の空気を切り裂くように走る。同時に、貴陽の体は受けた衝撃を利用して軽やかに後ろへ後退していた。


「茶番に付き合ってやれるほど、今の俺は暇じゃねぇんだよ」


『煌貴陽』が両手に握っていたのは、見慣れない錫杖だった。ずっと背中に回していた手で、『煌貴陽』はこの錫杖を隠し持っていたのだろう。


 ジャリンッと、不快な金属音が夜気を揺らす。


 その音に目をすがめながら、慈雲はタンッと回廊の石床を蹴って再び開いた間合いへ躍り出た。


「俺とこの瞬間に対峙して、貴陽がさっきみたいな反応するかよ」


 踏み込みの勢いと遠心力を利用し、上から偃月刀を振り下ろす。その斬撃を『煌貴陽』は体捌きだけで軽やかに避けた。慈雲は動きを止めないまま、己を回転の軸にして舞うように偃月刀を振るい続けるが、『煌貴陽』はその全てを滑るような足捌きで避け続ける。


 うつむいた顔から表情は(うかが)えないが、身のこなしには本来の貴陽からは醸し得ない余裕が感じられた。だがその顔つきも体つきも、間違いなく誰よりも見慣れた貴陽のものだ。


 己が決して間違いようのない事実に、慈雲は内心だけで盛大に舌打ちをする。


 ──つまり肉体(ガワ)は本物で、中身がそっくり入れ替わってるってことかよっ!!


「あいつなら出会い頭に不摂生に対する説教カマして、簡易休憩室に強制連行。その一択だ」


 それが分かっても、慈雲は偃月刀を振るう腕を緩めない。


 相手もそれが分かったのだろう。ユルリと体を横へいなした『煌貴陽』は、不意打ちで錫杖を偃月刀の軌道上へ突き出す。予期せず錫杖とかち合った偃月刀は、軌道を逸らされると回廊の柱へ刃先を向けた。


 相手としては、偃月刀の刃が柱に刺さった瞬間、慈雲に隙ができることを狙っての動きだったのだろう。


「っ!!」


 だが慈雲はそれを分かりきった上で、さらに偃月刀に勢いを載せる。


 遠心力と慈雲の馬鹿力、さらに武器そのものの重量も加算された偃月刀は、柱とかち合っても動きを止めない。ドゴッという鈍い破砕音とともに、柱の方がへし折れる。


「っ!?」


『煌貴陽』にとって、それは予想外の光景だったのだろう。支えを失って天井がたわむ様を見た『煌貴陽』が、一瞬動きを止める。


 その隙を、慈雲は見逃さない。


「『砕破(さいは)』っ!!」


 慈雲の一喝で、『煌貴陽』が立つ床が割れた。だがその程度では『煌貴陽』も決定的な隙は生まない。体勢をわずかに崩しながらも、『煌貴陽』は危なげなく後ろへ下がる。


 だが慈雲の本命は、そこにはない。


「『礫弾(れきだん)』っ!!」


 破材と化した柱が、天井からこぼれ落ちる瓦礫が、割れ砕けた床材が、慈雲の号令を受けて次々と『煌貴陽』へ襲いかかる。その容赦ない殺意の雨を『煌貴陽』は己の前に結界を展開することで(しの)いだ。


 その瞬間、『煌貴陽』の足が止まる。さらに(つぶて)の雨にふさがれたことで、()()()()()()()()()()()()『煌貴陽』の視界から一瞬慈雲の姿が掻き消えた。


 ──もらった。


「『喰らえ 汝は貪食(どんしょく)の権化』」


 サッと身を伏せた慈雲は、左の手のひらを地面に押し当てながら、礫の雨が上げる轟音に溶かすように呪歌を囁いた。


「『その胃の()に全てを呑み込め 土龍(どりゅう)貪食(どんしょく) 喰蛇(しょくだ)呑砕(どんさい)』」


 グッと慈雲の手のひらが地面を押し込む。


 その瞬間、礫の雨と挟み込むかのように『煌貴陽』が立つ背後の地面から壁が立ち上がった。まるで大波が打ち寄せるかのように口を開いた地面は、驚きで振り返った『煌貴陽』を容赦なくその(あぎと)の中に飲み込んでしまう。


 それでも慈雲は動きを止めない。


「っ!」


『煌貴陽』の姿が土津波の中に呑まれたのを見届けた瞬間、慈雲は回廊の外へ体を逃がしながら偃月刀を振るった。その一撃でさらに支えを失った回廊は、『煌貴陽』が呑まれた床の上に天井を落とす。


 次々と折れていく柱と、地面に降り注ぐ瓦が、地面を揺らしながら重い音を響かせる。


 その様を間合いの外から眺めながらも、慈雲はなおも警戒の視線を『煌貴陽』が立っていた場所へ注ぎ続けた。


「……いやはや」


 そのまま、どれほど時間が経った後だったか。


 パラリ、と最後の欠片(かけら)が音を響かせたのを合図にしたかのように、『煌貴陽』の声であって貴陽のものではない声が、瓦礫の山の中から響いた。


「やはり泉仙省(せんせんしょう)の比翼を落とすには手がかかる」


 ジワリ、と瓦礫の下から(にじ)んだ闇が、(まばた)きの間に瓦礫を溶かす。その下から何事もなかったかのようにスッと立ち上がった『煌貴陽』は、片手を首に当てながら『はぁ、やれやれ』と言わんばかりの風情で首を鳴らした。


(かく)の若造が言うわけだ。『何があっても慈雲に会うな』と」


 嘆くように口にした『煌貴陽』は、首から手を離すと慈雲に視線を向ける。


 その上で、『煌貴陽』は笑った。


 貴陽ならば絶対に浮かべない表情で、真っすぐに慈雲に視線を据えて、(わら)った。


「まさか一目で『違う』と見抜かれるとはなぁ。(わし)はともすればお前の寝首をかけるやもしれんと思っておったというに!」


 その言葉に慈雲は再び偃月刀を下段に構える。


 その上で、慈雲は問いを投げた。


「何を目的に王城へ立ち入った?」


 慈雲の冷静な問いかけに、『煌貴陽』はうっそりと笑みを深める。その笑みからは嘲笑の色が薄れ、代わりに興味深いものを見るかのような好奇の色が浮かんでいた。


 その読みの正しさを(あか)すかのように、『煌貴陽』は慈雲の問いに問いを返す。


「第一声がそれか。片翼として他に問いたいことも、泉部(せんぶ)長官として(ただ)すべきことも、いくらでもあろうに」

「見ただけで分かることを、わざわざ問うのは時間の無駄だ」


 斬り捨てるような慈雲の言葉に、『煌貴陽』は無言のまま眉を跳ね上げた。


 そんなどこまでも本来の貴陽からはかけ離れた『煌貴陽』に、慈雲は淡々と言葉を向ける。


「言ったはずだ。『茶番に付き合ってやれるほど、今の俺は暇じゃねぇんだよ』ってな」

「……ほう?」


『煌貴陽』としては、『貴陽に何をした』だの『お前は何者だ』だのという問いが真っ先に飛ぶものだと思っていたのだろう。


 だがそんなことをわざわざ問わなくても、今のこの流れを冷静に見つめて思考を巡らせれば、ある程度は推論が立つ。


 ──陰の気を操っているところからして、こいつは呪詛師だ。貴陽の体を乗っ取って使っているということ、『郭の若造』という発言が出るという部分で、永膳との共謀関係は明白。


 あの永膳がわざわざ共謀役に選んだという事実。他人の体を乗っ取って使役するなどという、呪詛に類される中でも大それた禁術を平然と使いこなす技量。


 さらに事の起こりからここまでの流れを思い返せば、もはや今相対しているのが誰で、貴陽の身に何が起きたのかなど、問うまでもなく明白なことだった。


「答えろよ、()()。お前、こんなとこまで忍び込んで、何していやがった?」


 地の底から響くような慈雲の声に、紫水晶の瞳が嗤う。


 慈雲がよく知っている色が、慈雲がまったく知らない表情を浮かべて、射抜くように慈雲を見ていた。


 その視線の鋭さに、慈雲の胸の内にはフツフツと苛立ちが募る。


 ──貴陽の視力をわざわざ回復させたのは、密偵に使うためじゃなくて、最初からその器を(めい)(おう)に使わせるためだったのかよ……っ!!


「儂も言ったはずだぞ、(おん)慈雲。お前に会いに来たのだとな」

「嘘だな」


 もはや『煌貴陽』は、……冥翁は、貴陽を真似ることをやめていた。


 錫杖をジャラリ、ジャラリと片手で(もてあそ)びながら慈雲と相対する冥翁は、その身から醸す圧のせいなのか、本来の貴陽よりも妙に体躯が大きく見える。


 そんな小さな違和感を集めて内心にわだかまる怒りを散らしながら、慈雲は変わることなく淡々とした声で冥翁の言葉を否定した。


「あんたの狙いは俺じゃない。少なくとも、今は」

「ほう?」

「本当に俺の寝首をかきに来たなら、あんたの行動は不自然だ」


 慈雲が冥翁の姿を見つけたのはこの回廊だが、冥翁がこの場を通りかかる慈雲を張っていたという可能性は低い。


 夜間帯とはいえ、ここは泉仙省に繋がる回廊だ。退魔師達は夜間帯でも王城に出入りしている。


 こんな場所で貴陽の体を使って張り込みをしていては、誰に見つかるかも分からない上に、慈雲がこの場所に必ず現れるという保証もない。


 さらに言えば、泉仙省の面々に顔が割れているという事実を差っ引いても、あらゆる意味で目立つ貴陽の容姿は待ち伏せには向かない。


 そんな色んな意味で不確実な方法を、先の大乱の裏で全ての糸を引いていたこの呪詛師が取るとは思えなかった。


 そもそも、この局面で冥翁自身がわざわざ王城に乗り込んでくる意図が分からない。


 認めたくはないが、永膳側の仕込みは現状でほぼ終わっていると見て間違いないだろう。永膳と共謀関係にある冥翁が、今更わざわざ出張ってきてまで仕掛けなければならない何かが王城にあるとは思えない。


 ──考えられるとすれば。


 泉仙省側が最終決戦に備えて仕込んでいる『何か』の存在を察知し、それの確認、さらには破壊に乗り出してきたか、といったところだろう。


 その方が『恩慈雲を消すために冥翁自身が直々に泉仙省の本拠地まで乗り込んできた』と説明されるよりもずっと筋が通っている。


「……いつの時代も、凡人を自称する天才ほど、手に負えぬものはない」


 慈雲は表情を崩さないまま、内心だけで考えを転がす。


 そんな慈雲の考えがどこまで読めているのか、冥翁はニヤリと好戦的な笑みを浮かべると、手にしていた錫杖を肩に担ぎ上げた。ジャランッと一際大きく響いた音が、慈雲を牽制するかのように夜気を揺らす。


「郭の若造が一人で事に当たっておったならば、とうの昔に全てをお前に阻まれ、あっけなく片付けられておったであろうよ」

「褒め言葉よりも、質問の答えが聞きたいんだがな」

「儂がわざわざ答えんでも、お前にはほぼ全てが読めておるであろうに!」


 声音に強く笑みを滲ませながら、冥翁は大きく錫杖を一閃させた。


 その軌道に(こご)った闇が半月状の刃と化して襲い来る様を見た慈雲は、大きく一歩後ろへ下がりながら結界を展開する。


 だがとっさに展開された結界は、漆黒の刃に触れた瞬間、あっけなく砕け散った。


「っ!?」


 ──攻撃呪じゃなくて、凝縮させた瘴気を直接打ち出して来やがったのかよっ!?


 反射的に慈雲は偃月刀を構える。


 だが慈雲が刃を振るうよりも、慈雲の眼前にフワリと淡紫色の燐光が舞う方が早い。


「っ……!」


 今この場で舞うはずがない燐光は、(まばた)きひとつの間に慈雲の身を囲うように半球状の結界を展開した。即座に組み上げられた結界は、襲い来る漆黒の刃を片っ端から浄化すると、ついでとばかりに冥翁に向かって浄祓呪を展開する。


 その浄化の風を、冥翁は舌打ちとともに宙へ跳ねることで回避した。貴陽の体のどこにそんな運動神経が眠っていたのかと訊ねたくなるほどの跳躍力を見せつけた冥翁は、かろうじて残っていた柱の上に着地すると忌々しげに慈雲を見下ろす。


「なるほど。これが八年前に散々儂の邪魔をしくさった『猛華(もうか)』の真髄か」


 淡紫色の結界の中に囚われた慈雲は、無言のまま冥翁を見上げる。そんな慈雲の顔にどんな表情を見たのか、冥翁はさらに顔を歪めると苦々しく言い放った。


「まさか自分自身にまで敵認識が及ぶように設定しておるとは。……実に忌々しい」


 ──本当にな。


 舌打ちをしたいのは、慈雲も同じだ。


 同時に、かつて相方が言い放った言葉が、耳の奥に(よみがえ)ったような気がした。


『僕、前々から言ってるよね?』

『君を傷付けるモノは、たとえ君自身であっても許さないって』


 ──お前は、お前自身が俺を傷付けることも、許すつもりはなかったんだな。


 この結界の術式は恐らく、今慈雲が隠して吊るしている『猛華前翼』を示す佩玉に刻まれている。


 貴陽を失った後の慈雲はきっと、この佩玉に密かに(すが)らずにはいられないと、貴陽は読み切っていたのだろう。


 それだけの執着が慈雲の中にあることを、貴陽は承知していた。貴陽を失っても慈雲は決してこの佩玉を手放せないと読んでいたからこそ、最後の最後、本当に土壇場で慈雲の命を守ってくれる防御をここに残した。


 他の誰が予想できなくても、貴陽にだけはそれが分かっていたから。


 ──大正解だよ、馬鹿野郎。


「だが、此度(こたび)は儂が勝つ」


 そんな慈雲の対たることを示す佩玉が今、『煌貴陽』の腰にもある。


 そこに込められた『猛華比翼』の執着を、冥翁は理解できない。そんな人間の腰元で無防備に紫水晶と赤輝石が揺れる様を、慈雲は内の激情を噛み締めたまま見上げた。


「これはすでに()い。これの遺志はお前自身を守るやもしれん。しかし儂の悲願を阻む力は、もはや()()にはない」


 慈雲を冷たく見据えたまま、冥翁は嘲笑と侮蔑を隠すことなく言い放つ。


「これはもはや『猛華』にあらず」


 冥翁の言葉に、慈雲の表情は変わらなかったはずだ。


 ただ、無意識に手に力がこもったせいで、手の中にある偃月刀からミシリと嫌な音が上がる。


「覚えておくことだ、恩慈雲。儂の陣を阻むことは、煌貴陽亡き後の泉仙省にはできぬということをな」


 その音が聞こえていたのか、否か。


 冥翁は最後に嘲笑とも冷笑とも取れる笑みを残し、フワリと闇の中に姿を消した。


 慈雲に害をなす者の気配が消えたからなのか、慈雲を囲っていた結界がフルリとひとつ震えてから(ひと)りでに解けていく。闇の中に淡紫色の燐光が舞う様を見届けながら、慈雲はゆっくりと体の緊張を解いた。


 何もかもが消えた後には、慈雲によって破壊された回廊と、交戦する前と変わらない闇だけが残される。


 そのことを改めて視線を巡らせて確かめた慈雲は、小さく溜め息をついた。偃月刀の(つか)を地面に突き立てれば、ヘタリと勝手に膝から力が抜けていく。


「生き、てた」


『生存していたとしても、永膳と合流した以上、次に会う時のあいつは敵だ』


 無意識のうちに口から言葉が漏れ出た瞬間、不意にまた涼麗(りょうれい)の声が耳の奥に蘇った。


 ──お前の言う通りだったな、涼麗。


「……それでも」


 両手で支えた偃月刀の峰に額を預けて、ギュッと目をつむる。


 その眼裏(まなうら)にまだ、淡紫色の燐光が舞っているような心地がした。


「生きてた」


 その色をなぞるように追っていたら、またポツリと勝手に言葉がこぼれていた。


「それでもあいつは、勝手に死なずに、生きていてくれたんだ」


 貴陽は、慈雲のためならば、簡単に己の命を天秤に乗せてしまう。己が慈雲の足を引っ張ると分かれば、簡単に己の命を切り捨ててしまう。


 そんな貴陽が、この局面でも、己の命を捨てずに生きていた。


 その事実があっただけでも、あの言葉を貴陽に伝えていた意味があったと思えた。


『今度、俺が死地に立たされたら。逆にお前が死地に立たされた時も』


 あの時、慈雲が口にした言葉の重みを、貴陽は理解していた。この世界で唯一、貴陽だけが、あの言葉の真の重みを理解できた。


『今度は俺と一緒に、死んでくれ』


 だがそこに含まれていた真の意味は、恐らく貴陽にも理解できていない。


「……っし」


 眼裏からしっかり燐光の残像が消えきるまで目を閉じてから、慈雲は鋭く息を吐き出した。短く気合の声をこぼした時には、意識はしっかり切り替わっている。


「逆にやる気出たわ」


 ゆっくりと膝を上げてから、冥翁が姿を消した闇を見据える。


 そこにもはや人影は見えない。淡紫色の燐光も舞わない。


 だがそこに先程まで見ていた姿を描きながら、慈雲はスッと瞳をすがめた。


「凡人の意地をナメんなよ、天才どもが」


 低く宣戦布告を呟きながら、慈雲は身を翻した。泉仙省へ迷いなく足を進めながら、慈雲はさらに低く、周囲を凍てつかせるような怒りを存分に込めて言葉を紡ぐ。


「俺の相方に手ェ出しやがったオトシマエ、キッチリ付けさせてもらうからな」


 主犯どもにも、()()()()にも。


「何もかも読み切ってんのがテメェだけだと思ってんじゃねぇぞ、このクソガキ」


 深く深く怒りを載せた声は、闇の中に溶けて誰にも届かない。


 それをいいことに言いたい放題に殺意を振りまきながら、慈雲は泉仙省の中へ足を踏み入れた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ