※
相方が隣からいなくなって初めて、把握できていた以上に自分が過保護に護られていたことを知った。
『類稀なる』だの『歴代類を見ない』だのと冠されていた結界呪の腕前を、お前は一体どこに注ぎ込んでいやがんだと文句を言ってやりたい。だがその声を届ける術が、今の慈雲には存在していなかった。
──俺に隠れてどれだけ仕込んでったんだ、バカ。
主がいない医局簡易休憩室の寝台に寝転がっていた慈雲は、片腕を目元に載せたまま呪力の流れに意識を添わせた。
涼麗のように詳細な分析ができるわけではない。だがそれでも、幾重にも展開された自立式の結界がどんな形で展開されているのか、漠然と感覚的に知ることくらいは慈雲にもできる。
これは、慈雲のためだけに敷かれた陣だ。
結界内にいる慈雲に対し、害意を持った者の侵入を弾く。害意を上手く隠して侵入されてしまった場合は、感知ができ次第敵を排除する。そういった類の術式が組まれているのだろうということまでは、何となく慈雲にも分かった。
緻密で複雑、それでいて堅牢。起点どころか解析の糸口さえ見せない、正面突破も絡め手も拒絶する隙のない術式は、明らかに貴陽が作り上げたものだ。恐らくこの結界を展開するためだけに、一から理論が編まれた独自式だろう。
これを破るのはかなり骨が折れる。貴陽の手癖を誰よりも知っている慈雲でさえそう思うのだ。これほど『難攻不落』という四文字が相応しい結界もそうそうない。慈雲が敵だったら、この結界を破ることは潔く諦め、別の場所から突破口を探る。
そんな結界が、この簡易休憩室と泉部長官室に、いつの間にか仕込まれていた。
──こんなヤバい結界を完全自立で複数個、俺に隠したまま仕込むなんて、一朝一夕でできることじゃねぇだろうに。
この展開を読んでいたから、ではなく。
きっと貴陽は、呪術医官として宮廷に返り咲いた時には、すでに覚悟ができていたのだろう。
あの戦いで命を対価に載せてしまった自分は、恐らく慈雲を残して先に逝くことになるだろうと。自分がいなくなっても自分が慈雲を守れるように、……己がこの世を去った後も『慈雲の隣』という場所を独占して誰にも譲らないために、この術式を編み出し、残していったに違いない。
「……っとに、お前は」
同時に、これらがただの執着から残されたものではないということも、慈雲は理解していた。
『ボサッとするなっ! お前は心中を許される身分じゃないだろうっ!!』
不意に耳に蘇ったのは、手のかかる年下の同期が発した鋭い叱咤の声だった。
──そうだ。俺が落とされるわけにはいかない。
盤上遊戯と同じだ。将を落とされた瞬間、軍は負けが決まる。
戦力面で言えば、涼麗が落とされない限り泉仙省は戦い続けることができるだろう。黄季が隣にいてくれれば、今の涼麗は精神面も強い。間違いなく切り札はあの一対だ。
だがどの札をどの瞬間に切るかを選択できる人間がいなければ、その強さを発揮することはできない。
きっと貴陽は、そのことを誰よりも分かっていた。
誰が泉仙省の対極に回り、誰が盤上に駒として上がろうとも、泉仙省側の指し手の席に座すのは変わることなく慈雲だから。その指し手を落とされるわけにはいかないから、慈雲の安全を確保できるだけの物を残していった。
『甘ったれんな』
次いで耳の奥に響いたのは、いつになく苛烈な相方の声だった。
『あんた、この国を守るために全部擲ってここまでやってきたんだろうが』
──そうだな。
望んで座った席ではない。自分よりもこの席に座すに相応しい人間などごまんといたはずだ。
それでもこの席に座ることを決めたのは。狙われ続けるこの席を、それなりに大変な思いをしながら守り続けてきたのは。
自分と周囲からことごとく大切なモノを奪っていったあの悪夢を、もう二度と呼び起こさないためだ。
『生存していたとしても、永膳と合流した以上、次に会う時のあいつは敵だ』
その思いを改めて噛み締めた瞬間、再び同期の声が耳の奥に響いた。
『生きていようとも、こちらを生かすための寝返りだったとしても。……敵対する位置に立たれてしまえば、こちらは敵として遇するしかない』
「……」
将の席に座してしまった自分が、己の不用心な行動から敵に落とされるわけにはいかない。今の自分は前線には出られない。ましてや己は後翼を失っている。貴陽が敷いた防御陣の中に大人しく引きこもり、全体を俯瞰する位置から眺めて、指揮と策謀に集中するのが最善だ。
分かっている。分かっているからそのように行動している。
「あー……」
それでも。
「俺って、つくづく向いてねぇなぁ、この場所」
全てを皆に負わせて、自分だけが安全地帯に引きこもっていなければならない現状が、歯がゆくて仕方がない。自分に駒として盤上に立てるだけの戦力があるという自負があるからこそ、余計に。
それでも、現状から飛び出すことは許されない。
誘いに乗ってしまえば、そこで全てが終わってしまう。唯一無二の相方が残していった想いを、己の浅慮で無に帰すわけにはいかない。
その歯がゆさを噛み締めながら深く息を吐いた慈雲は、一度きつく目を閉じた。深呼吸とも溜め息ともつかない呼吸とともに意識を切り替え、瞼を上げると同時に顔の上から腕をどかす。
寝台から体を起こした時には、先程まで胸中を埋め尽くしていた弱音に蓋をすることができていた。多少弱気になることを己に許したせいか、ここに来た当初よりも体が軽くなったような気がする。
──鳳凰は夜番だったか。
最近泉仙省の中でちょくちょく聞くようになった二人の異名を胸中で呟きながら、慈雲は寝台から腰を上げた。髪と衣の乱れを適当に直し、緩やかな足取りで簡易休憩室を後にする。
──双玉と乱寂の成果は上々。こっちの進捗は予定通り。後は俺が牙城を守れれば……
仕事の段取りを頭の中で転がしながら、慈雲は泉仙省に帰還すべく足を進めた。
夜間ということもあり、周囲に人気はない。慈雲の足音だけが、微かに闇を震わせた後にフルリと解けるように消えていく。泉仙省が置かれた状況にそぐわないくらい、酷く穏やかな夜だった。
そんな中に、ふと。
チリリッ、という耳慣れない金属音を聞いたような気がした慈雲は、反射的に足を止めていた。
「……」
建物の中から、泉仙省へ繋がる回廊へ出る間際でのことだった。
星明かりがあるせいか、建物の外は存外明るい。夜目が効く慈雲には、その星明かりと回廊の所々に掲げられた松明だけで十分に視界が開けている。
音の発生源を探して注意深く視線を巡らせた慈雲は、闇に沈んだ回廊の先に一人分の人影を見止めた。
──こんな夜更けに、こんな場所で、一体誰、が……
同時に、それが誰よりも見慣れた人物の背中であることに気付いた慈雲は、無意識のうちに息を呑んでいた。ヒュッという微かな音を耳ざとく聞きつけたのか、回廊に立ち尽くしていた人物がフワリと慈雲を振り返る。
星明かりを弾きながら、紫の艶を帯びる独特な色合いの髪がフワリと揺れた。萌黄の袿がそれに遅れて翻り、そんな袿を嗜めるかのように紫水晶と赤輝石を組み合わせた佩玉が揺れる。
『生存していたとしても、永膳と合流した以上、次に会う時のあいつは敵だ』
ふとまた、涼麗の声が耳の奥にこだまする。
あるいはそれは、本能がもたらす警告だったのかもしれない。
「慈雲」
誰よりも見慣れた顔が、自分を真っ直ぐに見つめてニコリと笑う。
そんな一連の変化が、この闇の中、これだけの距離があっても分かってしまった。
「ただいま」
──ああ、涼麗のやつは。
凍り付いた体は動かない。
ただ胸中に、独白だけが落ちていく。
──八年ぶりに永膳と再会した時、こんな気分だったのか。
そんな慈雲の胸中の声が聞こえているのか、否か。
回廊の先では『煌貴陽』が、慈雲だけを見据えて甘く笑っていた。




