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「何っか最近、おかしいような気がすんだよなぁ」
長官室に慈雲の訝しげな声が響いたのは、昼と夕刻のちょうど中間辺りの、泉仙省内の空気が一番緩む刻限だった。
黄季と氷柳が出仕を再開して、しばらく日が過ぎていた。あと数日が過ぎれば貴陽から課された出撃禁止期間が明けるかという頃合いでもある。
そんな普段と代わり映えのない麗らかな午後の空気の中に、慈雲の不穏な言葉は転がり落ちた。
「おかしいって、何がですか?」
慈雲に積まれた書類仕事を渋々捌いていた氷柳は、チラリと一瞬慈雲に視線を向けただけで口を開こうとはしない。だから代わりにその傍らで書類整理を手伝っていた黄季が口を開く。
そんな黄季と氷柳に視線を投げた慈雲は、ガリガリと頭を掻きむしりながら口を開いた。
「手応えが、当初の予想と違う」
「手応え、ですか?」
「おー、修祓任務に対する、反動というか反応が、な」
その言葉に黄季は無意識のうちに肩が強張ったような気がした。
黄季に課された出撃禁止期間が明けるということは、郭永膳が宣戦布告を叩き付けきたあの日からもひと月が過ぎるということだ。
その間泉仙省では、表面上では普段と変わらない穏やかな日々が続いていた。水面下では永膳の策略を砕くべく慈雲が通常業務に混ぜて呪詛式破壊のための浄拔任務を出しているのだろうし、永膳側も呪詛式を完成させるべく暗躍しているのだろうが、その全貌はいまだに黄季には見えていない。関係者である黄季でこうなのだから、この一件を知らない人間からしてみれば、泉仙省には今までと変わらない『日常』が流れているはずだ。
──俺が最前線から外されていたから、呑気にそう思ってただけなのかもしれないけども。
「黄季、ちょっとこっち来い」
「え? はい」
黄季の表情には不安が滲んでしまっていたのだろう。
しばらく口の中で言葉を転がしていた慈雲は、黄季を呼びつけながら席を立った。そんな慈雲に応えて黄季も慌てて席を立てば、慈雲はゆったりとした足取りで窓際に寄せて置かれた卓へ進んでいく。その卓に置かれた碁盤は、いつ見ても盤面に白と黒の碁石が散りばめられたままになっていた。
──対局中なんじゃなくて、都の気の傾きを見張るための呪具なんだっけ?
「黄季、これはこの長官室ごと代々の長官に受け継がれてきた呪具でな。『地盤』っつって、都の気の傾きを観察できるようにした物だ」
『ここ見てみな』と慈雲が指差した先へ視線を落とすと、黒石が固まって置かれていた。恐らく一帯の土地が陰に傾いていることを示しているのだろう。
「四角い盤面はそのまま都の地形を、天面に引かれた線は都の大路小路を示している。多少の差異はあるが、まぁ大体地図通りの配置と思って見てくれりゃいい」
さらに慈雲の指はスイッ、スイッ、と盤上を指差し、『この辺りは王城、西院大路はこの線。元々涼麗の屋敷があったのはこの辺りで、お前ん家は大体この辺だな』と地盤の見方を解説してくれる。
「えっと……? じゃあ、最初に長官が指差してた場所は、実際には芙蓉坊の辺りになるんですか?」
「そうだな」
──ん? 芙蓉坊の、今日のこの時間帯って……
その地名を今朝、何かで聞いた気がした黄季は、最初の位置に戻った慈雲の指先を見つめながら記憶をたどる。そんな黄季の表情の変化に気付いたのか、慈雲はニッと笑みを浮かべた。
「双玉比翼にくっついて、お前の同期が向かった先だ」
「あ!」
──そうだ、今朝明顕と民銘に出くわした時に二人が言ってた案件!
永膳が魏浄祐を使って呪具保管庫に仕掛けた罠の詳細を見抜いた民銘は、一度永膳にその命を狙われた。そんな民銘を守るために、表向きには『期待の新人をしごいてもらうため』という名分をつけて、同期二人は泉仙省屈指の実力者である景威行と玉文玄の一対……双玉比翼に預けられている。
そんな事情で急遽四人一組で行動することになった一行だが、双玉比翼はその『名分』を名分で終わらせるつもりはないようだった。『泉仙省の大兄貴』と周囲に慕われている二人は、ここぞとばかりに明顕と民銘を現場に連れ回し、毎日二人がヘロヘロになるまでしごきまくっているらしい。
今朝二人とバッタリ行き合った時、明顕は『いやもう本っ当に、これ守ってもらってる以前に俺ら双玉比翼に殺されそうな気ぃすんだけどっ!?』と半ば本気で叫んでいたし、その後ろで民銘は無言のままゲッソリした顔を晒していた。その様子が氷柳に実地訓練を課されていた頃の自分に重なって見えて、黄季は思わず乾いた微笑みとともに二人を送り出したのだった。
──でも、先輩達も上官達も、みんな口を揃えて『双玉比翼の指導は確か』って言うし。
良い師に実地の面倒を見てもらえれば、腕は確実に上がる。それは黄季が身を以って実証済みだ。きっと次に手合わせする時には、二人とも格段に腕を上げていることだろう。
──理由が理由だからこんなこと言っちゃいけないんだろうけど、双玉比翼に直々に指導してもらえるのって、ちょっと羨ましいんだよなぁ。
かつて『氷煉比翼』や『猛華比翼』と並び称された『双玉比翼』は、現状の泉仙省で最古参の一対であり、屈指の一対でもある。一緒に現場に出る機会があればぜひ同行させてもらいたいと思っているのだが、残念なことに黄季はいまだにその縁には恵まれてはいない。
「時間的に、そろそろここの現場に決着がつくはずだ」
そんなことを考えていた黄季は、続けて降ってきた慈雲の言葉にハッと気を引き締める。
その瞬間、慈雲の指の先にあった黒石がフッと姿を消した。あ、と黄季が目を瞠った瞬間、空いた空間を埋めるかのように微かな音を立てながら白石が現れる。黒石が埋めていた一角に一石の白石が投じられると、まるで連鎖するかのようにカツ、カツカツカツ、と周囲の黒石も白石へ姿を変えた。
「任務完了。さすが双玉、鮮やかな手際だな」
その変化を見守っていた慈雲は指を引くと満足そうな笑みを顔中に広げる。一方の黄季は指し手がいないのに変化していく盤面に無言のまま目を丸くしていた。
「……で?」
思わず見入っていたせいだろう。
予期せず間近から聞こえてきた声に黄季はビクリと肩を撥ね上げた。反射的に声の方を振り返れば、いつの間にそこに立っていたのか、すぐ後ろにいた氷柳が腕を組んで地盤に視線を注いでいる。
「修祓は滞りなく進んでいて、地盤も問題なく反応している。お前は何が気になっているんだ?」
思わず黄季は体を捌いて氷柳に場所を譲った。黄季のギクシャクとした動きが気になったのか、氷柳は一度黄季に視線を流したが、特に何を言うこともなく関心は慈雲に引き戻される。
──気配を消して背後に立つのはやめてください、氷柳さん……じゃなくて。
一瞬、氷柳への文句を胸中で呟いた黄季は、呼吸ひとつで意識を切り替えると再び地盤へ視線を落とした。
全体的に見れば、黒石の方が多いような気がする。だがその状況……都の土地が陰に傾きつつある傾向は、慈雲が氷柳を表舞台に引っ張り出すよりも前から続いている状態であるはずだ。その部分が問題であるわけではないだろう。
──氷柳さんが言う通り、動きに問題があるようにも見えないし……
「地盤で可視化している状況と、実際の状況にズレがあるような気がする」
黄季が見つめている間にもカツン、コツン、パチンッと微かな音を立てながら地盤は局面を変えていく。
そこに黄季と同じように視線を注いでいた慈雲は、難しい表情のまま腕を組んだ。
「俺と貴陽はこの地盤の局面から、永膳が仕掛けようとしている呪詛式の全貌を読もうとしてきた。陰の凝り具合的に呪詛式の要になるだろう部分を予測して、その要所要所を優先して修祓することで、永膳が描こうとしている呪詛式の完成を阻むってことをしていたわけだ」
その対策は今まで有効に働いていたはずだ。それは今まで地盤を観察してきた結果から分かっている。
慈雲が策を巡らせるようになってから、陰の気の凝り具合は格段に抑えられていた。このまま予測と対策を続けていけば、こちらから永膳に打ち勝つことはできずとも、永膳を勝たせることもない状況に持ち込むことができるはずだった。
だがこの局面に来て、その様相が変わった。
「変わらず対策をしているはずなのに、こっちの一手の効きが妙に悪い」
「え? でもさっき、黒石がいくつも白石に変わってましたよね? あれって……」
あれは効いていたと言わないのか、という疑問を込めて慈雲を見上げると、慈雲は難しい表情を崩さないまま黄季へ視線を向けた。
「黄季、お前も結界呪は得意だったよな?」
「へ? え、得意ってほどでは」
「まぁ、後翼としての位階持ちなら、結界呪のことを感覚的に話しても通じるはずだっつー前提で話をするわけなんだが」
急な話題転換に黄季は目を瞬かせる。そんな黄季の様子に構わず、慈雲は言葉を続けた。
「結界呪には、崩れてもいい場所と、崩されたら困る場所がある。感覚的にそれは分かるな?」
「え? あ、はい。分かります」
どんな話が飛び出してくるのかと身構えていた黄季は、自分にもピンと来る話にホッとしながら小さく頷いた。
退魔術というものは、己の霊力を用いて地脈の力を引き出し、呪歌と霊力によって形を持たせることで発現される。
結界呪に限らず退魔術には、力を巡らせる時に起点となる場所が必ず存在している。『崩されたら困る場所』というのがこの起点のことだ。どれだけ強固な術であろうとも、起点を一撃されれば全体が連鎖して崩壊してしまう。術が複雑になればなるほどその起点は多くなり、それだけ扱いは難しく、術全体も繊細になる性質がある。
大術と呼ばれる術式ほど発動に大人数の術者が必要となるのは、この起点に安定して力を通すことが難しくなるからだ。特に大術に分類される結界呪を確実に展開させるならば、ひとつの起点に一人の術者は置くべきだとされている。翼編試験の会場に多くの上級退魔師達が招聘されていたのも、『海』を囲い込むために大規模な結界を展開する必要性があったからだ。
「個人が新しく結界呪を開発した場合、創り手側はいかにその起点を上手く隠せるかが強度保持の一因となり、破る側はいかにその起点を探り出して効率良く突くことができるかがミソになる」
「『結界破りの天才』が語ると重みが違うな」
不意に傍らにいた氷柳が口を挟んだ。黄季がその中に微かに揶揄の響きを感じ取って視線を向ければ、氷柳は口の端に微かな笑みを載せている。
その響きが慈雲にも分かったのか、慈雲はウンザリとした顔を氷柳に向けた。
「その称号、別に欲しくて取ったもんじゃねぇんだが」
「何かにつけて貴陽の結界に弄ばされた結果、期せず身に付いた技術だろうからな」
「るっせぇ!」
──あー……
慈雲の相方であった貴陽は、結界呪において史上類を見ない天才であったという話だ。その腕前は黄季も指導をつけてもらったあの短期間で嫌になるほど身に刻み込まれたから知っている。
その実力の矛先が相方であった慈雲に向くことも、……まぁ、貴陽のあの性格と、慈雲に向けている執着と、長い相方人生があれば、そこそこの頻度であったのではないだろうか、多分。
──日常的に煌先生の結界を破って破って破りまくらないといけない日々を送っていたから、自然に技量が上がって、最終的に氷柳さんのお屋敷の結果まですり抜けられる技量が身に付いた、と。
「で、話を戻すわけだが」
かつての慈雲の苦労を思い、黄季は思わず乾いた微笑みとともに慈雲を見上げる。そんな黄季の視線の先でひとつ咳払いをした慈雲は、再び難しい表情になると話を本題に引き戻した。
「俺と貴陽が今まで突いてきた場所は、どれも呪詛式の起点と思わしき場所ばかりだった。今日双玉に出向いてもらった場所だって、ここを落とせば連鎖的かつ勝手に他がいくつか浄化されててもいいはずの場所だったんだ」
その言葉に黄季はもう一度地盤に視線を落とす。だがどれだけ注意深く観察してみても、先程見た規模で土地が浄化された場所は他になかった。他の退魔師達が出張っているのだろうと思われる場所以外で増えるのは、どれも黒石ばかりだ。
そのことに気付いた瞬間、黄季は冷たい手でスッと背筋を撫でられるような悪寒を覚えた。
──え? 何なんだ、この嫌な感じ……
「つまり、この局面に来て、お前と貴陽の読みが外れ始めたということか?」
思わず黄季は自分で自分を抱きしめるように両腕を撫ですさる。同じ寒気を氷柳も感じているのか、氷柳の目にも微かな険が宿っていた。
「永膳がお前の策の先を読んで方針を変えたのか、あるいは」
「何らかの方法で地盤の表示を歪めているか、だ。俺らが見当違いな読みをしてるってことだけは、あってほしくはねぇなぁ」
何せこっちは都の人間の命みんな預かってるような状況なんだから、と慈雲は小さくぼやく。あくまで語調は軽かったが、その言葉からは慈雲の双肩にかかった重責の一端が垣間見えたような気がした。
その重みにも、黄季の背筋には寒気が走る。
──そう、なんだよな。
永膳は自分の目的のために国を焼き払うと宣言したらしい。つまり黄季達が永膳に出し抜かれるということは、黄季達の後ろに庇われた民の命を危険に晒すということに直結している。
「で、どうする?」
その重さを改めて突きつけられた瞬間、体が恐怖に凍りついたような気がした。
だがこんな局面に置かれても涼やかで凛とした声は、黄季にどんな感情が絡みついていてもそれを断ち切って黄季の耳目を惹きつける。
「お前のことだ。無策のままボヤいているわけではないんだろう?」
ハッと氷柳を見遣ると、氷柳は常の無表情のまま慈雲を見上げていた。そんな氷柳の視線の中に信頼を見たのか、慈雲は表情を引き締めると氷柳に向き直る。
「お前と貴陽で、地盤と実際の気の流れがどれだけズレてるのか、一度調べてもらえねぇか?」
慈雲の言葉に、氷柳は一度目を瞬かせた。
「私と、貴陽に?」
「そ。お前と貴陽だ」
訝しげな問い返しに慈雲は軽やかに答えた。まるで近所へ買い物を頼むかのような気安さで指名された氷柳が無言のままスッと瞳を眇める。
「まずこのズレが何によって起きているのか、実際どんなもんズレてんのかが知りたい。ズレ幅が分かりゃ補正もできるし、ズレてんのが俺らの予測の方だったって話になるなら、それもそれで知れりゃ御の字だろ」
「貴陽が出てくるなら、貴陽だけで事足りるんじゃないか?」
不意に氷柳の言葉が鋭さを纏ったような気がした。その鋭さが何に起因するのか分からなかった黄季は、自分の聞き間違いだったかと思わず氷柳を見上げる。
そしてそのまま黄季は内心だけで首を傾げた。
──氷柳さん?
見上げた先にある氷柳の顔には、無表情のままわずかに険が漂っていた。つまり黄季が氷柳の声から感じ取った鋭さは、決して黄季の勘違いではなかったということだ。
「都全域の地脈を探るとなると、今の貴陽じゃ呪力総量的に不安だ。かと言ってお前だけじゃ、探ること自体はできても、地盤とのズレを照合することまでは難しいだろ?」
その鋭さを慈雲も感じ取ったのだろう。答える慈雲の口元に笑みが翻る。
ただしその笑みは冷笑に分類されそうな酷薄なものだった。まだ氷柳の正体も慈雲の目的も黄季が知らなかった頃、『お前の師匠に会わせろ』と黄季に迫った慈雲が今と同じ笑みを浮かべていたような気がする。
──長官?
なぜ二人が互いにこんな表情を向け合っているのか、恐らくこの場で黄季だけが理解できていない。
「お前の力と感覚を、貴陽に貸してやってくれ」
氷柳は黙したまま是とも否とも答えなかった。
不意に場を支配した静寂に、空気がピンと張り詰める。
氷柳の沈黙はその後も数呼吸分続いた。充満する緊張感に黄季の喉がジワリと締められる。
「……分かった」
最終的に沈黙を断ち切ったのは氷柳の方だった。あるいはその言葉は納得ではなく、ただ単に氷柳が慈雲に押し切られた結果紡がれただけのものだったのかもしれない。
一度瞼を閉じ、フゥッと小さく息をついてから、氷柳は改めて慈雲に視線を置いた。対する慈雲は酷薄な笑みを消さないまま、ずっと氷柳の視線を受け続けている。
「お前がそう判断し、そう言うならば。……私はお前達を信じる」
だがその言葉には、慈雲の瞳が一瞬揺れたような気がした。
「……そうか」
一瞬前の氷柳の動きをなぞるかのように目を閉じ、息をついた慈雲は、短く答えると同時に肩から力を抜いたようだった。その何気ない仕草が室の内に最後まで残っていた緊張感を散らしていく。
思わず黄季がホッと息をつくと、氷柳はチラリと黄季に視線を向けてからスタスタと卓へ戻っていった。率先して書類仕事に戻っていく氷柳の姿が物珍しくて眺めていると、氷柳は視線だけで黄季を己の傍に招く。その視線に応えて黄季が小走りに氷柳の傍らに戻ると、氷柳は満足そうに手元の書類へ視線を落とした。
「具体的な日取りと打ち合わせは、後で貴陽も呼んでやるぞ。心構えだけよろしくな」
「あぁ」
結局その一件に関わる話はそこで打ち切りとなった。後は慈雲が不穏な言葉をこぼす前と変わらず、黙々と書類仕事が続けられる。
──結局二人は、何が言いたかったんだろう?
『これは後でひっそり氷柳さんに質問したら答えてもらえる類の話なのかな?』と内心で首を傾げながら、黄季は氷柳の手元に急ぎの書類を優先して置いていった。




