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「お前、最近調子いいよな」
唐突に飛んできた声に、黄季は『ん?』と顔を上げた。視線の先にいた明顕は好奇心が隠しきれていない顔で黄季のことを見ている。その隣に並んだ民銘も、上手に隠しているが視線に似たような色が乗っていた。
本日の修祓任務の現場は、都の外れにある空き地だった。昔はこの辺りも家がひしめいていたらしいが、八年前に焼き払われてからは人々が寄り付かず、結果更地のままになっている。そういう土地が都の中には結構あって、ここもそんな風に放置された土地のひとつであるらしい。
「なんっつーか、技のキレが上がった?」
「女か? 女でもできたのか?」
「いや、そこで何で『女』って発想になるわけ?」
そういう空き地には、色々なモノが溜まりやすい。そしてヒトが寄り付かなくて良くも悪くも動きがない場所は、その溜まったモノが澱みやすい。
というわけで、空地は適度に修祓を掛けないと自動妖怪発生装置となりかねない。今日の現場は最近放置され気味で少々厄介な場所に化けていた。
──まぁ、そのお陰で久々に人数出してもらえたわけだから、良いとも悪いとも言えないんだけども。
任務が片付いたのをいいことに、気心知れた同期達とお喋りに花を咲かせながら、黄季は久し振りにじんわりとした心地良さを噛みしめていた。
現場に出るにしても、仲の良い同期や先輩が一緒だと普段と心持ちが変わる。気が抜けるというわけではないが、一人じゃないという安心感はやはりありがたい。任務が終わってこうして撤退作業をしている時は、そんな安堵が一際心に染みる。
「女ができて術が冴えたのは、壬奠先輩の話だろ~?」
そんな緩み切った心境のまま、黄季は何気なく口を開く。
その瞬間、話を振ってきた明顕達の方が噴き出した。
「ブッ!?」
「えっ!? そうなのかっ!?」
「え、知ってて振ったんじゃねぇの?」
「知らねぇよっ!! あんなカタブツのクソ真面目な先輩に女がいたとかっ!!」
「てかどうやって知ったんだよそんな話っ!!」
「ん? 壬奠先輩に直接話振ったら教えてくれたけど」
「うっわ、出たよ切り込み隊長!!」
「毎度よくそんなズバッと切り込めるよな、お前……。話題の距離感おかしいだろ……」
「そうか?」
あまりの言われように黄季は首を傾げる。そんな黄季に詰め寄る同期達は驚きと呆れと何かよく分からない感情を織り交ぜた顔をしていた。
「前に藍上官に『香の種類替えたんですかー?』とか無邪気に言っちまったの、お前だったろ?」
「お。確かに言った」
「あの発言から藍上官の妓楼通いと浮気が明るみになって大変だったよな」
「あー……」
「他にも薀老子に『今日冠の位置ずってません?』とか言っちまったせいで薀老子がヅラだったってことが周知されちまったり」
「おー……」
「明先輩に『そんなに大量の呪具抱えてどうしたんですかっ!? そんなヤバい現場が今あるんですかっ!?』とか驚愕の叫びを浴びせかけたり」
「明先輩の件は呪具窃盗未遂だったわけだから、黄季の行動は逆に吉になったわけだけど」
「うー……」
言われてみれば、どれもこれも身に覚えがあることばかりだった。
──距離感、おかしいのか?
同期達の指摘に黄季は思わず視線を逸らして頬を掻く。まだ同期達はやいのやいのと言っているが、これ以上聞いているとかつての自分の浅慮に心を傷つけられそうな気がしたから、そっと聞き流すことにした。
──その無意識の距離感無視を、いっそあの人にやれたらいいのになぁ……
黄季は小さく溜め息をついた。
脳裏に浮かんだのは、知り合ってひと月経ったにもかかわらずほとんど素性の知れない佳人……氷柳と名乗る青年のことである。
──ここ最近はほぼ連日通ってるっていうのに、呼び名と、住処と、多分凄腕の退魔師なんだろうなってことしか分からないんだもんなぁ……
すごく踏み込んで仲良くなりたいとか、そういう感情があるわけではない。だけど、相手のことはもっと知りたい。
でもそれ以上に、不用意に氷柳の心の内に踏み込み過ぎて拒絶されたり、逆に氷柳を傷付けてしまったりしたらと思うと、怖い。
──初めてだ。誰かと関わる時に、こんなこと思ったの。
「でさ、黄季はどうよ?」
「……へぁ?」
……なんてことを思っていたから、うっかり目の前にいる明顕達の存在を忘れていた。
「『へぁ?』って何だよ、『へぁ?』って」
「翼編試験、黄季はどーすんのって話」
「……あー。もうそんな時期なのか……」
どうやら黄季が考え事に没頭していた間に話題は移り変わっていたらしい。
明顕のツッコミと民銘の柔らかな言葉に何とか思考回路を今に引き戻した黄季だったが、顔に浮かんだ苦笑いは晴れなかった。
翼編試験。
それは泉仙省泉部所属の新米宮廷退魔師にとって、今後の仕事人生を決定付ける重要な試験だ。
「やっぱ退魔師たるもの、やるなら前翼だろ」
「そうかー? 俺、後翼の方が興味あるけどなー」
「はぁ!? 後翼なんて結界術と援護が主な裏方じゃね!?」
「まぁ、前翼の方が花方ってのは確かだけどさー」
妖怪討伐のために現場に出張って退魔術を振るう泉部の退魔師達は、二人一組の対となって妖怪と戦う。前衛に立って妖怪と戦う前翼、前翼が安全に戦えるように後方から結界や遠距離攻撃で支援をする後翼の基本一対一の相方関係で、誰がどちらを担うか、また誰と誰が組むかは、得意な退魔術や本人の気性、人との相性を鑑みて泉部長官が決める。この決定試験のことを『翼編試験』と呼び、入省した新人退魔師達はまずこの試験でふるいにかけられることになる。
というのも、一人前の退魔師として現場の前線に立つためには、まずは前翼・後翼、どちらかの位階を得なければならないからだ。退魔師が捕物現場で己の命を守るための最低限の保証が『危機に陥っても絶対に自分を優先して守ってくれる相方を得る』ということらしい。そして前翼・後翼の位階を得る試験である翼編試験を受験するためには泉部長官の認可がいる。つまりそもそも泉部長官がある程度実力を認めてくれなければ、試験も受けられずに門前払いということだ。
一人前と認められない退魔師は捕物現場で先輩諸氏が展開する結界の維持補助をチマチマ手伝いつつ先輩諸氏の活躍を見学させてもらうか、簡単な修祓のみで済む現場をひたすら盥回しにされるか、省内で雑用を積まれることになる。つまり窓際業務。この窓際族状態が数年続いて後輩達の方が現場に立つようになると、儀式的側面が強くて退魔の実力はあまり必要とされない仙部に回されるか、最悪の場合はさりげなくクビ勧告が来るらしい。
つまり、翼編試験を受けることができるかどうかは、今後泉部の退魔師としてやっていけるかどうかを問われる第一関門ということだ。そして前翼となるか後翼となるかで道が決まり、さらに相方によって職場環境と仕事人生の明暗が分かれる。さらに恐ろしいことに、この相方関係はよほどのことがない限り解消や入れ替えは行われない。相方を得ることを焦るあまり『相方は誰でもいい。組めれば文句はない』と泣きながら長官に縋りついた結果、人間的に苦手な相手と組まされて地獄を見た、という噂も聞かないわけではない。
「んじゃもうお前らで組みゃあいいじゃん。基本長官の決定で決まるもんだけど、一応『できれば誰と組みたいです』とか言えないわけじゃねぇんだろ? 本人達の希望で組んだ人間もいるって話だし」
「はぁっ!? 適当なこと言ってんじゃねぇぞ黄季っ!! 今後一生を左右する大事なんだぞっ!?」
「そーそ。相方関係は一生モンなんだから。宮廷から退く時か、死ぬまで続くもんなんだから」
「『救国の比翼』なんて言われてる氷煉比翼なんて、国と一緒に揃って死んだっつー話なんだぜっ!? 一緒に死にに行く相手はやっぱ重要だろっ!?」
「おぉっと。そこまで言うのはさすがに言い過ぎじゃね?」
泉部の退魔師は、良くも悪くも比翼連理。互いに命を預けあって戦う様は、片方ずつしか翼がない体を寄せ合って力を合わせて空を飛ぶ比翼の鳥に似ている。
「翼編試験に臨むからには、目指せ未来の氷煉比翼!」
「その心意気は買うがな、李明顕」
明顕の高らかな宣言が響いたその瞬間、ぬっと横から影が入り込んできた。
『え?』と黄季と民銘が顔を上げるよりも早く伸びた手は、迷いなく明顕の耳をねじり上げる。
「比翼を目指す前に、まずは迅速な完全撤収を目指してほしいんだが?」
「お、恩長官!?」
あまりの痛みに悲鳴さえ上げられずにのたうち回る明顕の向こうにいたのは、泉部長官である恩慈雲だった。泉部の高位退魔師を示す薄青色の衣に身を包んだ慈雲は、爽やかな笑顔と快活な立ち回りからは想像もつかないえげつない角度と力で明顕の耳をねじり上げたまま、黄季と民銘を見下ろしている。
「もっ、申し訳ありませんっ!!」
黄季と民銘は慌てて礼を取りながら膝を折る。そんな黄季達の声で周囲もようやく恩長官の存在に気付いたのか、サワリと空気の揺れが波紋のように広がっていくのが分かった。
──なんで長官がこんな現場に出張ってんだ!? そこまでヤバい現場じゃないだろここって!!
泉仙省の退魔師が纏う衣は、位階が高くなるほど色が薄くなる。黄季達下っ端退魔師が纏う黒から始まり、紺、濃緑や赤と位が上がるごとに色合いが明るくなり、最高位の退魔師は白を基調とした衣を纏うという。ちなみに黄季は入省して以来、恩長官以上に色が薄い衣を纏った退魔師を見たことがない。
それはすなわち、今の黄季で相見えることができる人物の中で、恩慈雲泉部長官が一番高位にいることを示している。
「それに、翼編試験に意欲を燃やすのは結構だが、氷煉比翼は目指してほしくないもんだな」
「な、なぜですか……?」
『そろそろ明顕の耳、取れるんじゃね?』とハラハラしながらも、黄季は会話の調子に合わせて疑問を口にしていた。そんな黄季に民銘が肘打ちを入れてくる。何だ、これが『会話の距離感が狂っている』ってやつだと言いたいのか。
「そりゃあお前、国と一緒に燃え落ちた同期を目指すって言われたら、止めたくもなるだろ」
肘打ちの意味を今更理解した黄季は冷や汗を浮かべたが、慈雲はそんな二人に気付かないまま実に軽く答えてくれた。明顕の耳をねじり上げる手こそそのままだが、雑談に応じてくれる口調は存外親しみやすい。
その口調に引かれて、思わず黄季は続く問いを口にしていた。
「長官、氷煉比翼と同期だったのですか?」
「おーよ、二人とも俺より年下だったが、入省は同じ年だったからな。間違いなく同期だな」
民銘の肘打ちが連打されるが、黄季はそれを身をよじって交わした。思わぬ反撃に民銘が体勢を崩す中、黄季は真っ直ぐに慈雲を見上げる。
「今じゃ伝説みたいに語られてる二人だけどよ、俺の中じゃただの同期だよ。一緒に飯食って、現場出て、馬鹿なこともやった仲間だった」
氷煉比翼。
八年前の大乱のさなか、最後の悪足掻きとばかりに暴走した先帝軍が都を焼き払うために放った炎を、命を賭して組んだ術で先帝の命もろとも消し止めたのが氷煉比翼……当時沙那で最高位にあった、揃いの白衣に身を包んだ一対の退魔師であったという話は、今や伝説として沙那の退魔師達に語り継がれている。
退魔師ならば誰でも知っている一対だが、その伝説じみた逸話ばかりが有名で為人を耳にすることはあまりない。慈雲の発言を聞いて、黄季はそのことに初めて思い至った。
──そうだよな。伝説になってる二人だって、ただ当時を一生懸命に生きていただけの、等身大の人間だったんだよな。
あの大乱では、あまりにもたくさんの人が死んだ。兵も、貴族も、町人も、退魔師も。黄季も、あの大乱で家族を亡くした。当時のことは、あまり思い出したくない。
当時乱のただ中を駆け抜けた人間が大乱当時のことを語りたがらないのは、そんな黄季の心情と似たものがあるのだろう。特に当時の現場に駆り出されていた退魔師の生き残りは、大乱について今でも固く口を閉ざしている。貴族を始めとした官僚や軍部は乱を起こすきっかけとなった人間が大半だったから痛手も自業自得だったのだろうが、当時の泉仙省はそんな人間達に巻き込まれた被害者で、しかも最終的には官僚や軍部よりも前線に投げ込まれて乱の終結を丸投げされたという。その結果多くの仲間を失くしたとあれば、口を閉ざすのも当然のことなのかもしれない。勝利を語れる官僚や軍部と、泉仙省では立場や思いが違いすぎる。
きっと氷煉比翼が神格化されてしまったのは、直に二人を知っている人間が頑なに口を閉ざしてしまったせいもあるのだろう。
──だけど、まだ八年、なんだ。
もう八年。まだ八年。
形ある物を復興させるには十分な時間なのかもしれないが、形なきモノの傷を癒すためには、まだまだ時間が足りないのかもしれない。
軽い口調で氷煉比翼のことを語った慈雲だったが、慈雲だって心の中にはまだ癒え切らない傷を抱えているのだろう。
「……明顕の浅慮な物言いをお許しください」
黄季は静かに頭を下げた。そんな黄季に慈雲は一瞬目を丸くする。
「……気にすんなよ」
数拍間を置いてから降ってきた声は丸みを帯びていた。ハッと顔を上げた瞬間、優しく笑んだ慈雲と視線がかち合う。その表情だけで慈雲が黄季の内心を全て覚ってくれたのだと分かった。
「詫びてほしいわけではないんだわ。ただの俺の感傷。気を揉ませて悪かった」
「あ、いえ……」
「翼編試験、お前達三人はぜひ受けてほしいと思っている」
「えっ!?」
黄季と民銘の叫びが重なった。同時に慈雲の指がパッと離され、明顕が地面に倒れ込む。翼編試験に一番熱意を燃やしていた明顕だが、今はそれどころではないらしい。
「李明顕と風民銘は今年入省組の中でも頭ひとつ抜けてたからな。来るならこの二人だろうと思っていたんだ。鷭黄季はちょっと実力が足りないかとも思っていたんだが……」
フッと一瞬言葉を止めた慈雲が黄季を流し見る。
その瞬間、ゾクリと背筋が粟立った。そんな黄季に気付いたのか否か、慈雲はフワリと今まで浮かべていた笑みとは宿る感情が異なる笑みを黄季に向ける。
「最近のお前なら、受験を認めてもいいかと思ってな」
全ての下に刃を秘めているような。
殺気。冷気。獲物を前にした狩人のような、そんな何か。
「お前、最近誰かの弟子にでもなったか? 明らかに以前と術の巡らせ方が変わったと思うんだが……」
──本当のことを答えてはいけない。
とっさにそう思ったのは、そんな冷気を察してしまったからなのだろうか。
「い、いえ……」
黄季はとっさに顔を伏せると、干上がる喉で無理やり言葉を紡いだ。
「自分に合った指南書を見つけて……自主練習には、励んでおりますが……」
「……ふぅん? 自主練習、ねぇ?」
慈雲は瞳を細めながら笑みを深くしたようだった。納得した気配はないと分かってしまう。だが黄季にこれ以上言えることは何もない。
「最近のお前の術の癖に、覚えがあってな」
顔を伏せたまま体を強張らせる黄季の耳元にスッと慈雲が口元を寄せる。黄季の耳にだけ囁かれる言葉は、きっとすぐ隣にいる民銘にさえ届いていないだろう。
「実に……実に懐かしいんだわ、その癖」
──恩長官は、氷柳さんのことを知っている。
その事実に、なぜか黄季の背筋がヒヤリと冷えた気がした。