閃剣のグラドゥス その6
「さてと、お次はどちらさんかねぇ」
グラドゥスは特に息を乱した様子もなく、軽く槍を旋回させて
その状態を確かめつつ、前方奥の通路を見やった。
闘技場にひしめく観客はこの奇妙な男が只者でないことを確信し、
声援とも野次とも付かぬ大声を口々に投げかけていた。
突如、前方奥の通路から地鳴りに似た音が響いてきた。
遠雷にも似たその響きは徐々に大きくなり、固唾を飲んで見守る観衆の前に
三頭の大柄な獣が姿を現した。黄金の衣に無数の縦縞が刻まれたその獣は、
雷声を発しながらのそり、のそりと這い出して周囲を威嚇し、
絶叫する観客に前肢を振り上げ吠え掛かり、
観客はさらなる興奮の坩堝に埋没した。
「あー。まぁ、一回位はやらされると思ってたぜ」
グラドゥスは肩を竦めて苦笑した。
剣闘試合では前座や余興として、闘獣試合を催すことが多かった。
試合に使われる猛獣は、当然ながら人の様に手加減をしたり
降伏を受け入れたりしないので、大抵の場合闘士は死ぬか、
勝っても重症を負うことになる。そのため闘獣試合は専ら
罪人の公開処刑の場として利用されていた。
もっともそうした公開処刑であっても、公正性の無い虐殺は
観衆の忌み嫌うところであり、大抵は獣複数に罪人複数
といった集団戦であることが多いのだが、今回はグラドゥス一人に
猛獣三体という、極めて異例な様相だった。
観客はこの異常さにざわめき、主賓席の執政官に対し、
やれ卑怯だ不公正だと野次を飛ばし始めていた。
少なくとも観客にそうさせるだけの評価をグラドゥスは得ていた。
「執政官の野郎、どうあっても首飾りを持っていかれたくないらしい。
こりゃあ意地でも分捕ってやらんとなぁ」
執政官の背後やや上段には、豪奢な衣装に包まれた女性と
数名の貴族風の男達、そして衛士と思しき数名がいた。
2万に届く観客による一斉抗議の中、女性は執政官に何事か声を投げかけ、
執政官はしきりに頭を下げ、部下を厳しい表情で怒鳴りつけていた。
もっとも、闘技場をのし歩く猛獣三体にとって、人間の都合など
知ったことではなかった。ぐるりと壁に囲まれ、大音声の飛び交う
この広場に猛獣たちは居て、その目の前に一人の男が立っている。
襲い掛かって餌食とするには十分過ぎるほどの理由であった。だが。
「よぅ虎キチども。知ってるか?
荒野にはお前らによく似た化け物がいるんだぜ」
グラドゥスは飄然と突っ立ったまま、
徐々に迫り寄る猛獣たちに話しかけた。
「できそこないって名前なんだがな。
あるとき連れの騎士どもと戯れにな、そいつらの巣に忍び込んで、
誰が一番ぶっ殺せるか勝負したことがあるんだよ。
ちなみに一番ぶっ殺したのはこの俺だ。
40匹ほどしめてやったんだがな。
二刀流は反則だとぬかすヤツがいて、成果は20匹ってことに
されちまった。結局30匹仕留めたやつが勝ちってことに
なっちまってなぁ。ローディスの野郎ふざけやがって……
まあ勝ち負けに関係なく、城砦に戻ってすぐ、皆仲良く分け隔てなく、
団長から飛びっ切りの大目玉喰らっちまったけどな」
グラドゥスは懐かしそうにそう言うとカラカラと笑った。
「ま、あれだ。獣なら相手のヤバさとか判るんだろ?
ちょっとだけ本気になってやるから、どうするかよーく考えてみな」
そういうとグラドゥスは表情を消し、腰を沈めて大地を踏みしめ、
そしてかっと目を見開いた。迫る猛獣と立ち尽くす闘士の様を
見やりつつ大声で抗議していた観客たちは、一瞬にして黙り込んだ。
グラドゥスの身体から何かがぞわりと立ち上がり、
猛獣へ向かって襲い掛かった、そういう錯覚に襲われたからであった。
三体の猛獣は雷の様な声を発するのをやめた。
そして静かに蹲り、動かなくなった。野生の獣は軍師のような
特殊能力がなくとも、本能で敵対する者の戦力を見抜く。
自身とグラドゥスの間に圧倒的な戦力差を感じ取った猛獣たちは
敵対することをやめ、岩か倒木のようになって、この強者を
やり過ごすことに決めたのだった。
「なかなかどうして。素直な良い子たちじゃないか。
一匹位連れて帰って、甥のお守に躾けるのも悪くない」
グラドゥスは低い声でそう言うと、手にした槍の石突で
ドン、と地を叩き広間を揺るがした。猛獣たちは弾かれたように
後方へと走り出し、やってきた通路を塞ぐ格子戸を掻き毟った。
暫しの後格子戸はベキリと音を立てて砕け、
猛獣たちは通路の暗闇へと消えていった。
逃げた先にも人は居るだろうが、そちらはどうとでもするのだろう。
観客は暫し呆然とその光景を眺めた。やがて何が起こったのかを理解し、
次に大歓声でこれに応えた。グラドゥスは猛獣三体を一睨みで制し、
次なる対戦相手を待つこととなった。