永遠の乙女
柔らかな風の囁き、
穏やかな水のせせらぎ。
目にはさやかに見えねども
常に共に在るそうした想念の中で
サイアスは微睡み揺蕩うていた。
最近はそうした情景が色彩を帯び
脳裏に風景を描きだしていた。
それは川。豊かな水を湛える川のほとり。
両岸には時に肥沃な原野で
時に発達した街並みが拡がっていた。
川の流れは常に同じで、
左右の景観は常に違った。
あぁ、これは記憶なんだな。
微睡みの中、サイアスは思った。
深く澄んだ蒼を湛え滔滔と
悠久の時を流れゆく気高きライン。
かの川の記憶を。かの川が忘れえぬ
在りし或いは来たるらし日の思い出を
微睡みの中で垣間見ているのだ。
サイアスはそのように理解していた。
やがて微睡むサイアスは
穏やかな水のせせらぎが実の音となって
己が耳に飛び込んでくるのを感じた。
静かに、微かに、忍び泣く音だった。
サイアスは目を開け、ニティヤを探した。
「……起きたのね。お早う」
ニティヤはサイアスの傍らにいて
サイアスを見つめ、目を伏せた。
乾ききらぬ涙の筋を未だ頬に残していた。
「思い出したの?」
家族の事を。
サイアスはニティヤの手をとって
そっと胸元に引き寄せた。
ニティヤは再び少し泣いた。
平素の女王然とした挙措のうちに
微塵もそうした気配を見せぬものの。
サイアスと二人きりのこの部屋では、
ニティヤはよく、涙を見せた。
梟雄グウィディオンに町を襲われ、
理不尽に処刑され命を散らした妹や両親。
やはりグウィディオンに町を襲われ、
焼けて落ちてゆく屋敷に囮として留まって
去りゆく自身を見守る二度目の両親を
事あるごとに思い出し、そして涙に暮れていた。
ニティヤはよく自問した。
何故自分だけ助かったのか。
何故妹や両親は死なねばならなかったのか。
答えなど、出るはずもない。
そんな事は判っている。
それでもニティヤは繰り返し問うた。
復讐を誓いこれを果たしても、
問いが消え去ることはなかった。
この先もずっと、繰り返し問うだろう。
思い出の中の家族は少しずつ
ニティヤに笑顔を見せるようになった。
ニティヤが幸せでいるからだ。
そうサイアスは言ってくれる。
でもこの幸せは自分が独り占めして
良いものなのか。妹も両親たちも
もっともっと幸せになって欲しかった。
なのにどうして。どうして。
思い出の面影の笑顔に励まされるも
やはり哀しき問いを繰り返し、
ニティヤは一人涙を流した。
ニティヤは暗がりに独り在るのを好んだ。
それは最初の危難で自らを救ったのが
井戸の中という暗がりだったためでもあり、
暗殺者として闇を友としたためでもある。
しかし最大の理由とは、くよくよといつまでも
涙に暮れる自分の姿を灯りの下に晒したくない、
そうした想いゆえであった。
炎上し崩れゆく屋敷を思い出すため
強い灯りも好きではなかった。
再び失いたくないとの思いが強すぎて
人と接するのも苦手だった。
新しい家族の暖かさに包まれて
徐々にこれらの苦手意識は薄らいだが
それでも依然、闇に、暗がりに安息を求めた。
それゆえ人前では灯りの下で毅然を保ち、
その分既に不可分な半身たるサイアスの前では
涙を見せた。サイアスには、サイアスにだけは
ニティヤは自身の心の闇、心の弱さを
取り繕う事がなかった。
そうした折サイアスはニティヤに寄り添い、
時に音曲を奏で、ずっと共に過ごした。
それゆえにニティヤは人前で毅然として
常に女王然として在れたのだった。
「落ち着いたわ。
泣き虫でごめんなさい」
ニティヤはサイアスに小さく笑んだ。
「そう。
ねぼすけでごめんなさい」
サイアスはニティヤに小さく笑んだ。
ニティヤはそんなサイアスの胸に
顔をうずめ、クスクスと笑った。
「ほんとにね……
しょうがない、人……」
笑い声に再び嗚咽が混じり始めた。
どうやら涙の原因は自分にあったようだと
サイアスはようやく理解が及んだ。
荒野に棲まう闇の異形「眷属」。
黒の月に照らされ降臨する超常にして
眷属らの神、世界の支配者たる大いなる「魔」。
人智を超えたこうした存在と対峙し戦って
勝ち抜けば勝ち抜く程、人は人より遠ざかり
魔や眷属に近しいものと成る。
人智の果てなる者らを弑した証とも言える
「魔力」は様々の影響を勝者にもたらし、
常なる人の在り様に変容をもたらした。
サイアスの場合はそれが水の症例となり、
眠り病として顕れた。昼夜に合わせ日々起居し
暮らす人々の理を遠くはなれ、起居は数日数週に
そして月を超え年を超えて永遠に近付くという。
全てが時と共に移ろいゆく中
微睡み揺蕩う意識の中
唯独りいつまでも。
大河を流れゆく水に取り残され浮かぶ
小島の如くそこに留まり在り続ける。
サイアスはそうした水の症例を得て
徐々に症状を深めていた。
今は良い。まだ数日程度の間隔で
起居し暮らし過ごしていられる。
だが水の症例が深まっていけばいくほどに
共に暮らす者らとは遠ざかる事となる。
眠り目覚めるその度に見知った顔が消えてゆき、
遂には誰もいなくなる。ただ独り自分だけが
空虚の果てに取り残される。
荒野の城砦、魔軍への餌箱に自ら出向いた
サイアスは、己が死はとうに覚悟し切っていた。
だが親しく愛しい者たちを、成す術なく眠り
続ける中で見過ごし死なせ失っていくのは
自身の死よりも果てしなく辛い。
身内の、仲間の、戦友らの、全ての。
世に在る自身の温もりである全ての死を
眠りの中看取る事なく失くしていく。
誰が永久に生きる事を望むのか。
誰が独り死も死せる悠久の中、
微睡み揺蕩い続けたいものか。
サイアスとて時に張り裂けそうな想いに
駆られる事はあった。だがサイアスは誰にも、
口が裂けてもそのような事は語らない。
荒野の城砦で戦い続ける。
それが自分の選んだ道であるから。
そうしたサイアスの澄み切った覚悟が
ニティヤには途方もなく哀しかった。
「すぐに私の方が年上になって
お婆ちゃんになってしまうわね……」
ニティヤは泣き笑いながらそう言った。
サイアスは寂しげに微笑み、そっと
ニティヤの頭を撫でて語らず。
「ベリルがお婆ちゃんになっても、
その後もずっと、貴方はずっと
荒野で独り、戦い続けるのね」
「所詮人は人。神でも魔でもない。
いつかはやはり死ぬだろう。
そもそもここは戦場だしね。
死すべき旅路が極端に長い。
ただそれだけの事さ」
サイアスは遠い先を想うように語った。
「親しい者が死んでいく中、唯一人
果てない孤独に耐えていく事になるのよ?」
ニティヤは自らの過去をなぞる
かの様に心情を吐露した。
「それが私の選んだ道だから」
サイアスは儚げに、
しかし迷いなく微笑んだ。
「どうしてっ!
どうしてそんなに平気で居られるのよ。
どうして……」
決して泣かぬサイアスの分も
ニティヤは嗚咽を漏らしていた。
「それに、独りきりではないさ」
サイアスは涙に塗れ、嗚咽の已まぬ
ニティヤの顎をついと持ち上げて
止め処なく潤む紫がかった黒の瞳を見つめた。
「姿形はなくなっても
想いはずっと残るよ。忘れなければね。
私は忘れない。皆と過ごした思い出。
共に過ごした日々を。それで良いさ」
「そんなの…… 哀しすぎるわ……」
未だ涙の止まらぬニティヤ。
そんなニティヤにサイアスは
「じゃあニティヤが付き合ってくれ。
時を超えて永遠に、私と共に居てほしい。
そしたらきっと大丈夫さ。どんなに辛くても
一緒ならきっと、やっていけるよ。
世の理の一つや二つ、
想いの強さで捻じ曲げてくれ」
と大事な夢を語る子供のように、
そっと、はにかみながら口にした。
泣き疲れ、熱に浮かされたような眼差しで
ニティヤはサイアスをじっと見つめた。
そしてやがて
「……そうね。
そうよ。フフ、なぁんだ……
言われて見れば簡単な事だったわ。
私は、私はずっと貴方の事を。
ずっと一緒に居たいと願い、想い続けるわ。
そして世の理の一つや二つ、
きっと捻じ曲げて見せるから。
そうよ。
二人一緒なら永遠に戦い続けるのも
そんなに悪いものではないわ。
貴方にできた覚悟だもの。
私にだって勿論できる」
と得心し力強く頷いた。
「おやおや。これは私の覚悟を
軽く見られたものかな」
サイアスは照れを隠すように
おどけてみせた。
ニティヤはむくれた風にして
「そんな事ないわ。
もぅ、判ってるくせに。いじわるね……
そんなんじゃ千年の恋も冷めちゃうわよ?
フフ、勿論冗談だけれど」
と笑い、
「見てなさい。
私はやるといったら必ずやるわ。
貴方と共にいるためなら、神でも魔でも
皆殺しよ。何なら取って代わってやるわ。
勿論こっちは冗談じゃないわよ」
と宣言した。
そこにはもう、涙は無かった。
「本当に物騒な嫁だな」
と呆れた風に笑むサイアス。
「せいぜい機嫌を損ねないよう
気を付けなさい」
と得意げに笑むニティヤ。
暫し見つめ合った二人は
やがてどちらからともなく
「……約束だ」
「……約束よ」
ど声を揃え、笑った。
「サイアス。ずっと一緒よ……」
ニティヤは約束を守った。
後世サイアスを讃える人々は
常にニティヤを共に謳い、
二人の名を一つところに語り続けた。
サイアスが夜空に煌く星ならば
ニティヤは夜空そのものだった。
幾星霜の時が無辺に連なろうと、
ニティヤとサイアスはずっと一緒だった。
そして今も、ニティヤはサイアスと共に在る。
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