武神ライナス その1
天地を遍く照らす春の陽に
たなびく彩雲ひさしなりけり。
南方の空よりするりと来たった
真白き鳥が、歌うが如く優雅に空を泳いでいた。
春の兆しが極まった、香るが如き空の下。
くびき一つなき空ゆく鳥は西へと流れ、
ふいに思い出したが如く東へと折り返した。
当節人と鳥獣の区別なく
西を目指すものは稀である。
西は大いなる魔の棲家。
溢れ出る悪夢の畔であった。
東へと折れた白き鳥は
眼下を見下ろし一声鳴いて
目指すべき北を思い出した。
冬の寒きを南で過ごした渡り鳥のうち
風変わりな一羽は遠く見えぬ群れを追った。
鳥の見下ろした眼下には
無数の白銀の稲穂が連なり
武装し威儀を整えた、数万規模の兵が居た。
「チッ、まだ来んのか……」
舌打ちをして不快げに首をまわす恰幅の良い男。
着衣は至極上等だが、挙措は上等とは評し難い。
「予定時刻はそろそろですな……」
隣で付き合うひょろ長い男は
額の汗を拭いそう告げた。
別に暑いわけではない。
汗は心労からくるものだ。
西の方を見据える両者は苛立ち或いは焦りつつ、
時折背後の屋根無し馬車を盗み見て様子を伺った。
幌や庇こそないものの
頗る装飾豊かなその馬車には
典雅な衣服と気配を纏った数名の姿があり
前方の二人とは対照的に泰然自若と寛いでいた。
「執政官殿。そう急かずとも宜しい。
時流に取り残された我々には最早
急ぐべきいかなる理由もありはせぬ」
初老の貴人は失笑した。
「強いて申さば娘の婿探し位じゃな」
「それこそ余計じゃ。放っておいてたもれ」
艶やかな黒髪の乙女はぷいとそっぽを向いた。
その様に執政官はしたりと揉み手し
「私には息子が3人居りますゆえ、
どれでも公女様のお気に召す者を
お見繕いくだされば……」
と猫撫で声で申し述べ、
「要らん」
とにべもない一言で返されて
「いやはや、これは手厳しい……」
と苦笑し一礼し、鬼の形相で西の方を睨んだ。
平原のほぼ中央にでんと陣取る
三大国家の一国、共和制トリクティア。
凡そ50年前に帝政が崩れ、各州の有力諸侯や
新興貴族を構成員とする元老院の主導による
共和制へと以降していた。
平原中央に左右に長く8の州を持つ
そのトリクティアの西の外れ。
そこにはイニティウムなる州都があった。
トリクティアが帝国となる以前から古都として
栄えたこの都市は、血の宴による西方文明圏の
滅亡と共和制に移行したトリクティア自体の
内乱の末、国土全体の辺境に位置する事と
なっていた。
古代語で「始まり」を意味するこの州都は
西域の文明圏が滅亡した昨今では政治的、
地政学的に最果ての終わりと化し、古来より
当地に縁のある落ちぶれ皇族がひっそりと。
或いは中央政権でうだつの上がらぬ二流貴族が
飛ばされてくる僻地となっていた。
愛想笑いを怒りの眼差しに変えて西方を睨む
この男は、そうした左遷組の小貴族の出だった。
中央より派遣された執政官として赴任し
日の浅いこの男は、捲土重来とさらなる
飛躍の足がかりとして、皇族の血を欲していた。
そこで目を付けたのが背後の、少女と呼ぶには
ややとうのたった乙女であり、先だっては
誕生祝いに州都の予算をちょろまかして得た
とびきり上物の首飾りを贈ろうと目論んだ。
だがしかしその野望は、思わぬ横槍で
すっかり丸潰れとなってしまっていた。
幸い目論見の一部として開催した剣闘大会は
民にもこの乙女や両親にも大好評であったため
野望の火は未だ費えきってはいなかった。
と、少なくとも当人はそう思っていた。
やがて。
俄かに西が騒がしくなった。
騒がしさはやがて一糸乱れぬ整列となり、
数万の軍勢はしわぶき一つあげず直立不動の
彫像となった。
当節常備軍を有する国家は稀であり、
その常備軍にあっても職業兵士は少なかった。
トリクティアの各州軍においては千人隊長を
頂点とした数万規模の軍勢のうち、正規の軍人は
百人隊長までであり、その下の十人隊長や兵卒は
平民の臨時徴用でまかなっていた。
よってこの場に集う数万規模の軍勢のうち
半数以上は武装した平民であった。
職業兵士と異なり平民が規律や統制で劣るのは
当然で、騒がしいこと自体は自然であった。
だがとかく生意気でやかましいそうした
兵の群れがこうも静まり返るとは何事か。
事態を不気味に感じた執政官は兵列の狭間を
のしのしとのし歩いて西を目指した。
すると直立不動で兵らの見守る西の方には
騎馬の一隊が迫っていた。
その数およそ10数騎。
駆る馬はいずれも大柄の軍馬であり
駆る者らはいずれも屈強なる精兵であった。
そしてそれら精兵を両翼に従え、悠然と
灼熱色の大馬にまだがる偉丈夫が在った。
軍馬には黒と銀の衣と帯を飾り、自身は
黒と金色の甲冑に群青のサーコート。
兜は被らず群青のターバンを巻き、
胸元にまで伸びる豊かな美髯を供えていた。
左手は手綱を。右手は腰に。
鞍の背後には豪壮なる薙刀が納めてあった。
見れば見る程美々しく武張ったその
偉丈夫は、遠めには眠るが如きであった
その眼差しを自らを待ち受ける
数万の兵らに注いだ。
精兵と民兵の区別なく、兵らはただの睥睨一つで
迅雷に打たれたが如く揺れ、震えた。
そして手にした槍の石突で音を揃えて地を叩き、
自らの正面で穂先を天に向け両手で構えた。
これすなわち槍を剣と見立てた剣礼であった。
群青の偉丈夫は灼熱の愛馬の歩みを留めた。
両翼となって従う屈強なる精兵は号令一つなく
その背後に横列を成し、数万の兵らと同様に
剣礼の姿勢を取った。
威に打たれ、覇気に臆して時が流れを止めた
その中で、偉丈夫は兵らの一人一人と
目を合わすようにしてこれを見渡し、
重々しく頷きを示し、すっと
手を差し伸べて声を発した。
「輩よ。出迎えに感謝する。
州都の無事は諸君らの意気次第だ。
これからも宜しく恃む」
およそ人のものとは思えぬほどに
厳かで艶やかで威厳に満ちた音声が響き渡った。
偉丈夫の声は数万の軍勢の隅々にまで届き、
兵らは再び身震いした。そして心底より感激し
感涙に咽び歓声を発した。
数万の歓声は轟きとなって大地を揺らし、
天をも揺らし鳴動させた。
かつて古都イニティウムにて、これを護る
万の兵の頂点にあった一騎当千の千人隊長。
人類の存亡を懸けた荒野の魔との戦い。
その最前線へと赴いて百戦錬磨し、遂には
世界の覇者たる大いなる魔が一柱
「冷厳公フルーレティ」を討ち取った
万夫不当の武人の中の武人。
武神ライナスの帰還であった。