えいぷりるふーるねた2016
時は天正七年、水無月の二日。
鬱蒼と茂る草木の匂いが大気に満ち、
その葉の先に水気を孕んで頭を垂れる頃。
安土城下の浄巌院慈恩寺には常ならぬ人だかりが出来ていた。
人だかりの中央には数本の樹が生えていた。
これらはすべて作り物であり、地に垂直に立つと
いう以外の全ての面において、本来の樹とは似ても似つかぬ
醜悪なまがいものであった。そしてそれぞれの樹には、
随分と傷んだ人間が磔にされていた。
じっと見据えていれば時折小刻みに震え、何事かを呟くようにも見える。
まだ生きているのだと遠巻きの民草にも理解できたが、樹まがいの
根元に積まれた雑多な薪が、これらの命が風前の灯以上に
望み薄なものであることを物語っていた。
樹の正面、遠からぬ本堂の脇には豪奢な物見の席が設けられ、
明らかに周囲とは異質な男が床几にどかりと腰をおろし、
膝に肘を付き、手首に顎を乗せるようにして磔の徒を睥睨していた。
その瞳は人の瞳をしていなかった。
琥珀色の瞳には赤黒い亀裂が縦に走り、眼球には二重の縁取りがあった。
蛇か蜥蜴かと思わせるその瞳に対し、不気味を指摘する者は
少なくともこの場にはいなかった。誰もが平伏し顔を背け、
その瞳をけして覗かぬようにしていたからだ。
「その者ら、人面獣心なり。
焼け。天に向かって炊き上げよ。
さぞ香ばしい匂いが満ちようぞ」
男の声は極めて甲高く、常にその全てを聴きとるのは困難であったが、
焼け、という一言だけは聞く者の耳にではなく魂そのものに
焼き付くように響いた。そして男の命に逆らう者など
誰一人としておらず、火は速やかにくべられた。
浄巌院慈恩寺の遥か北方。
草深き美濃の山中の僅かに開けた山道から、
一人の男が眼下南方に煙る三筋の白煙を見つめていた。
「御館様。弟君よ。おいたわしや……」
初老を迎えたその男は黒鉄の具足をしなりと鳴らし、
暫し南の三炊へと黙祷をささげた。
「『魔』め、今に見ておれ……
若は無事八上城より落ち延びた。
『鬼』の血が途絶えた訳ではない。
……御館様らの死、けして無駄にはせぬ」
そのとき男の背後に数名の人影が現れ、ひざまずいた。
「氏綱様……」
氏綱と呼ばれた初老の男は、背後の人影へと振り返った。
振り返りざま銀光を一閃させ、ついでずわりと剣風が起こった。
平伏する人影の背後で茂みが鳴り、武者の屍が三つ転がり出た。
いずれも腐敗甚だしく、見るまにじゅうと溶けて消えた。
「!! 何と、もう討手が!」
「ここは古戦場に程近い。
眷属共も憑代には困るまい」
初老の男はそう言うと、山道の東から迫る十数の武者を見やった。
いずれも外装のいずこかに欠損があり、その眼窩はどす黒く渦巻いていた。
「斬り抜けるぞ。付いて参れ」
年齢を微塵も感じさせぬ疾風の如き動きで氏綱は走った。
平伏する人影らは逆手に握った刀を振りかざしてその後を追った。
時は天正、世は戦国。
この世ならぬ何方かより現れ、
人に巣食いて悪逆の限りをほしいままにする
「魔」と呼ばれる存在があった。
「魔」は実体こそ持たぬものの、人よりしぶとく、賢く強く、
「眷属」と呼ばれる僕を使役し、密かに人の世を弄んでいた。
「魔」は人の心に忍び寄り、心を侵して魂を喰らう。
喰らわれた者は魔を受肉させ、魔そのものと成り果てた。
時に天正、戦国の世。
魔は織田弾正忠信長に巣食っていた。
第六天魔王が降臨し、この世に地獄が現出した。
一方、魔や眷属の存在を知り、これに抗う人々がいた。
波多野家当主、左衛門尉秀治を棟梁とし、丹波に隠れ住む彼らは
比類なき戦技と神通力を以て百戦を戦い抜き、陰ながら人の世を
守護していた。「赤鬼」「青鬼」に「丹波鬼」そして、
「荒木鬼」山城守氏綱。「魔」なる悪しき魂を屠る者たち。
彼ら人外を屠る者を、人は「鬼」と、そう呼んだ。
幾千の時空の壁を越え戦国の世に現出した魔や眷属と、
これらと戦う鬼と呼ばれる者たちの、歴史の裏で繰り広げられる
人の世の存亡をかけた戦いの物語。「退魔戦記」いざ始まり、始まり。