閃剣のグラドゥス その10
5戦目に登場した最後の闘士は、
これまでの3名及び3頭とは明確に格が違っていた。
試合開始の銅鑼の後、最後の闘士は取り立てて気負うこともせず、
左構えを保ったままにやや膝の力を抜き、身体は固めず姿勢は維持して
グラドゥスの挙動に備えていた。左手は肩の高さに自然に突き出し、
手にした網は取り立てて振り回すことなく、ただその存在を
見せ付けるように差し出されていた。
そして右手は脇に流した銛を1旋、2旋と空を切って回しつつ、
徐々に持上げついには顔の脇に手を掲げて、
剣術でいう矢の構えを取り、先端でグラドゥスの中心線を捉えていた。
網と銛を用いて漁をするように戦う剣闘士を網闘士と
呼んだ。豊漁祈願の儀式に端を発する闘士であり、網を打ち、
相手を絡めとって仕留めるのがその流儀だとされていた。
もっとも猟師の行う投網は生半な腕で真似のできる所作ではない。
投網はそもそも前方の水面へと放つものであり、
放物線を描いた網が広範に拡がるには十分な距離と高低差が必要であり、
眼前で動き回る自身と同程度の高さの相手を絡めて獲るのは至難であった。
そのため大抵の網闘士は投網を敵に対し単に鞭の様に叩きつけ、
あわよくば敵の武器に絡ませて使えなくすることを狙いとしていた。
グラドゥスはそうした網闘士の戦法を熟知していた。
ゆえに槍を長めに持って前方へと構え、投網の一投げを誘う構えでいた。
突き出された武器を狙った投網を槍を後方へと旋回させて外し、
勢いそのままに打ち下ろして無防備な左手を切り落として、
網ごと無効化するという一手だった。
だが眼前の網闘士は左手に持った網は自然に前へと突き出したまま、
取り立てて投げ掛けることをしなかった。逆に網の存在感で
グラドゥスの先の先を封じつつ、グラドゥスの突き出したまま
下げることのできない槍へと銛を繰り出し、隙あらば弾いて
さらに奥の胴体へと突き込もうとしていた。
構えの奥、つまり後ろ足の側での攻撃は射程が短く、
相手に届かせるには牽制の後に後半身を前へと送って
体を入れ替える等、様々な工夫が必要となる。
だがそれは相手の胴や頭部を狙った場合の話であり、
突き出された相手の武器や腕のみを狙うならば
間合い上の問題は無く、危険を冒さず手早く攻めを打てる。
最後の闘士は隆々とした彫像のような体躯を見せ付けるように
悠然と構えつつも、手元は細かく動かして銛を繰り出し、
投網に備え、槍を出して距離を取るグラドゥスのまさにその槍へと
痛烈な一撃を放ち続けた。グラドゥスはこれをしなやかな
ステップで左右に散らしつつ、それでも避けきれず、そのまま
突き込めば胴に喰らいそうなもののみ槍で払って凌いでいた。
銛の一撃を槍で払うたび、アクタイオンの「紫煙」で
切り込まれた槍の柄は悲鳴を上げていた。遠からず
限界を超え折れてしまうのは確実であり、グラドゥスは
舌打ちしつつ飛び退いて一旦十分な距離を取った。
「網闘士ってのは、もっとせっかちなもんだと思ってたがな。
そんな悠長じゃお魚が逃げちまうんじゃないのかい」
「狙う獲物によるだろう。もとより雑魚は眼中にない。
大魚一尾で大漁と見なすさ」
「そりゃ商売としては微妙なとこだな。
もっとも戦士はかくあるべきって感じだ」
「判っているようだな。ならば観念して最期のあがき
でも見せたらどうだ。あんた程の戦士であれば、
どの様な手でも客を酔わせる妙手となるだろう」
「なかなか買ってくれるじゃないか。
そいじゃ一つ、やらせてもらおうか」
グラドゥスはそういうと両足の力を抜いて二、三度跳ね、
槍を自然に体側へと流し、ぴたりとその動きをとめた。
否、動きを止めたように見えただけであった。自然に立った
その姿勢のまま、恐ろしい勢いで前後左右へと動き出し、
徐々に槍を出して元の構えとなって闘士の下へと殺到し、
距離を取り、側面へと回りこんだ。
グラドゥスは網闘士を中心として円を描くように飛びまわり、
突き出される槍を足捌きのみでかわし、かわしざまに槍を突き出した。
網闘士はグラドゥスの挙動を追って銛を突き出し、銛は直線を描いて
しかし空を切り、銛の直線の周囲にはグラドゥスの運足の軌跡が
無数の円や螺旋となって残った。その様は闘技場を擂鉢の底として
ぐるりと周囲を囲む2万を超す観衆の目には、無数の直線と曲線でできた
幾何学的な紋様として映っていた。観衆は歓声を殴りつけるように
飛ばしつつ、眼前の激戦とそこに描かれる
紋様状の挙動の軌跡に酔いしれた。
「神秘の円、か…… 使い手が実在するとはな。
だが所詮は剣術の極致。夢想の最果てだ。
槍で使いこなせるものではない」
敵を中心に据え、敵の攻撃とその範囲を放射線状に伸びる直線や
そこから伸びる角度を伴った弧で可視化しつつ、
それにあわせた足捌きや攻撃線を追加して紋様とも図形とも見なし、
客観的な第三の目を構築して戦いを制する、
そういった剣術の流派があった。概念としては理解できても
動きとして十全にこれを成しえるものは稀であり、
机上の空論の一つとしてやがて廃れ、
時代の流れに飲まれて消えていった、形骸にして至高の剣術と戦術。
これを「神秘の円」と、その存在を識る者は呼んでいた。
網闘士はグラドゥスの動きを捕捉することを諦め、大振りな銛の一撃で
敢えて隙を作って攻め手を誘い、そこから反撃に出る手を取った。
果たしてグラドゥスはその隙を見逃さず、空いた体側へと
突きを繰り出した。闘士は自らその槍へと踏み込み、
巧みな体捌きで自らの小脇に挟みこんで止めた。
わずかに鮮血が飛び腕と脇腹を傷めたものの、
一歩間違えば串刺しとなる危うい一手を、闘士は美事に成し遂げたのだ。
そして間髪入れず右手で下から、左手で上から槍を殴りつけ、
限界まで酷使された槍の柄はその役目を終えてベキリとへし折れた。
闘士は下から殴りつけた右手の銛をそのままグラドゥスへと走らせ、
その手元に僅かに残った槍の柄を巻き上げて飛ばし、
飛ばしざまに背後へと飛び退き、そして飛び退きざまに、
これまで一度も使うことのなかった左手の投網を上空へと放った。
投網は鮮やかに華やかに宙へと広がってやがて舞い降り、
突きの一撃のために足を止め、槍を折られて攻め手を失くした
グラドゥスに叩き付けられ、たたき付ける直前の絶妙な引き手によって
グラドゥスを身動きできぬまでに絡め獲った。
僅か数拍の間に繰り広げられた死闘の極みに
2万を越える観衆は呼吸すら忘れ、
全身を目として食い入るように見とれていたが、
水中を縦横無尽に泳いでまわる魚の如きグラドゥスを
決死の一手で捕らえてのけた網闘士の比類なき武勇に大いに感じ入り、
血を吐かんばかりに絶叫して讃えた。