雨の日に
雨音に誘われて外を見た。
私の部屋の窓の外には川がある。
その川の土手に1人分の人影があった。
お祭りでもないのに黒い浴衣を着て歩く子供。
土手の上を行ったり来たり。増水しているだろう川を見ているのだろうか?
暴風雨の台風ではなく、しとしと雨の梅雨だ。普段よりも増水しているといっても少しだ。
不審に思えたが窓の外だ。
わざわざ外に出て声をかける程のものでもない。
私はカーテンを閉めて実家近くのにゃんこのアルバムを開いた。
次の日も雨だった。
雨に濡れてもいい靴を履き、仕事に向かうと不意に土手の上から視線を感じた。
見上げると黒いモノが目についた。
黒い浴衣……いや、着流しか。
まるで江戸時代の子供の様な格好をして、その子供は私を見ていた。
土手の上でその子供はじっと私を見ていた。
透明な、感情の見えない瞳が印象に残った。
私はその視線を振り切り職場へと急いだ。
仕事の合間もその子供の事が頭の裏にこびりついていた。
仕事帰り、また雨が降っていた。梅雨時なので仕方がない。
帰り道、土手を見るとその子供はいなかった。
何もない、気のせいだ、そう思ったが嫌な予感がしていた。
心持ち重くなった足で家に向かう。
玄関前には……いない。杞憂だったかな。
玄関で傘を振るい軽く雨粒を払い傘立てに立て、靴を脱ぎ揃え、靴の中にぐしゃぐしゃにしたチラシを入れた。
廊下のハンガーに上着をかけ、シャツと下着を洗濯ネットに入れた。
髪をゴムで縛り全部後ろへと流した。
私は洗面台のガラスをふと見ると私の腰の辺りにさっきの子供がいた。
……気のせいだろう。化粧を落としてストレスを減らしていけばきっといなくなる。
きっと仕事のストレスで見えてしまっただけだ。
皮膚ストレスは老化を進める。早く化粧を落とさなければ。
顔を洗い化粧水の白いパックをつけると、視界の隅で子供が口に手を当てて声をかみ殺していた。
肩についた水滴をタオルで拭き取り、下も脱いで代わりに灰色のスウェットを着込んだ。
洗濯機にさっきまで着ていた下着と体を拭いたタオルを突っ込みまわした。
窓ガラスの反射で見てみると、黒い和服を着た子供は洗濯機の中を覗き込んでいた。
この子供はいったい何がしたいのかわからない。
もしかしなくても私のストレスが原因で見えている幻覚じゃないだろうか。
こんな子供の幻覚が見える程に私は疲れているのかもしれない。
そういえば同僚が子供が欲しい、子供が欲しいと騒いでいた。
彼女の子供がいたらという話に付き合っていたから見えているのだろうか?
なぜ黒い和服を着ているのかわからない。喪服? 誰かが死んだ?
身近で子供が死んだという噂を聞かない。死んだ子なら着ている服は白か。
……死んだといえば実家のにゃんこだ。
雨の日に迷い込んできた小さな黒猫で可愛かった。
どこかで飼われているにゃんこなのかは定かではないが首輪をしていた。
人慣れしていてご飯をねだりによく来ていた。
ただある時期から見なくなり、近所に住んでいた人から死んだという噂を聞いた。
黒い和服の子供と同じで好奇心旺盛で、音がするものによく近づいていた。
もしかしたらあの黒猫の幽霊があの子供なのかもしれない?
いや、ないか。そんな奇縁があれば面白いが、現実的ではないだろう。
この子供が見えているだけでも大分非現実的だが。
って近っ! いつの間にこんなに近くにいるの!
……慌てない。慌てない。これはきっと幻覚だ。
何も慌てる必要はない。取り合う必要すらないのだ。
私は内心の動揺を隠しアルバムを広げた。
……か、隠せているよね? 大丈夫。大丈夫。
落ち着け。モチつけ。ぺったんぺったん。
おもちもち。甘いおもちに辛いおもち。みんな違ってみんないい。でも太る。悲しい。
肩に手が載せられている気がする。
重さはない。ただ冷たさが肩から染み込む。
モチが、モチが足りないっ! 無心にモチをつけっ!
黄な粉餅。あんころ餅。ずんだ餅。菱餅。草餅。安倍川もち。柏餅。桜餅。あ……お腹に肉が。
写真の反射で見える子供の顔は神妙そうだった。
興味深そうに、けれどもどこかまじめに見ていた。
それは知らないものを見る目ではなかった。
やはりこの子供はあの子、あの猫の幽霊なのかもしれない。
だとしたらなぜここに来たのか。私はあの子に恨まれていただろうか?
そんな理由ないよね。わからない。わからない。
寂しかったのだろうか? ここ最近猫と戯れられていない私が寂しいんだな。
あの子はどこで死んだのだろうか? 車に轢かれて埋められてしまったのだろうか?
私は詳しくは聞かなかった。しょうがないと思ってしまったから。
もしこの子供があの子だとしたらどうしたらいいだろう?
あの子は遊びに来ていただけだ。夜はどこかに行っていた。
あの子にしてみても実家はご飯をくれる都合のいい家だったはず。
……。そうだ。なぜ実家ではなく、私が一人暮らしをしているこの家にあの子が来るのだろう?
犬は人に付き、猫は家に付くという。猫にとって場所が一番重要であるのだ。
猫は人に懐いているのではない、モノをもらえると思って媚を売るのだ。
外の木陰でアルバムを広げていると目の前でゴロゴロと転がって媚態をさらす。
それにしても私がシャッターをきる度にご褒美を上げていたからだろうか?
モデル料は煮干し。食べている姿すらよしっ!
写真を撮る度にあげていたら写真の音の度にねだりにくるようになった。
どういう姿勢でいたら撮られるのか、学習してすっかりモデル業が型についた子もいた。
ただ目の前で鳴くだけでは私はあげませんっ! あげませんからっ!
はーい、おもちついて。ぺったんぺったんぺったんこ。
猫はいいのです。ぐっどなのです。興奮している人には猫は寄ってこないのです。
猫は基本つんでれなので、こちらから積極的にかまうと逃げてしまうのです。
でもそれは知り合ってからの話です。初めはまず目を合わせてあげるのです。
その上でねこじゃらしを揺らしたりして興味を惹き、餌付けして警戒心を解いていかないとダメなのです。
安心できる人だと認識してもらえれば後は勝手に猫の方から寄ってくるのです。
人間でも見知らぬ人に不意に近づかれたら怖いでしょう。猫だってそうなのです。
まして人間と違って猫は小さい。背の高い人に見下ろされるのは怖いが、猫の場合はなおのことだ。
人が転げて倒れこんできたらそれだけで死んでしまうかもしれないのだから。
あぁ、猫可愛い。
さていつのまにかアルバムの向こう側から私を見ているこの子どうしたらいいのだろう?
そろそろかまってあげないといけないのか? 乗られている足が冷たいんです。
だがしかし、この子が本当にあの猫だとは限らない。
体温が冷たいという段階で既に人間ではないのは確実だろう。
ここまで冷たいと対応に困る。あ、パックそろそろ外さないとだ。
ソファーから足を降ろすと足に乗っていた子がコロコロとソファーの上を転がっていった。
やはり猫? 猫かな? いや、だが人の子供の姿だ。
洗面台の側のゴミ箱にパックを捨てると背中が冷えた。
鏡を見てみると肩の辺りに子供が。
気にしないでおこう。今日のご飯は何にしようかな?
寒いし温かいモノを食べようかな。いや、少し辛いモノがいいかもしれない。
ガパオライスって気になっていたんだよね。
ピリ辛みたいだから作ろうかな?
ナンプラーやトウガラシとか野菜もあるし作れるだろうから。
ガパオライスに重要なのは何だろうか?
東南アジアの独特の風味じゃないだろうか?
辛いと言えば辛いが美味い、肉肉しい、という感じはあるだろう。
ひき肉のストックは大丈夫。タマネギなども冷蔵庫にある。
梅雨から夏にかけてって、雨が降ったと思えば一気に蒸し暑くて、外にはあまり出たくない。
腐りやすい季節だけど、この時期は外を長く歩きたくないに軍配が上がる。
野菜のカットを手早く済ませて、下準備を整えていると幽霊っ子が腰の辺りで手元を覗き込んでいた。
タマネギの匂いを嗅いで泣きそうな顔をしている。
……気にしてはいけない。気にしてはいけない。モチつけ。
トウガラシをサラダ油で炒めて辛そうな香ばしい匂いを漂わせていくとくしゃみをし始めた。
くしゃみをする子供の頭から黒い猫耳が飛び出てきた。
猫だな。猫だな。猫だなっ!
フライパンにひき肉を加えて炒めていくとお肉のいい匂いが辺りに漂いだす。
お肉がいい感じに火が通ったところで、ナンブラーなどで東南アジア風に味を整えていく。
タマネギやナスといった水分が多いモノを加え、タマネギがあめ色になるまで炒め、最後にズッキーニやバジルなどを加えてひと混ぜ。
お皿によそった後、フライパンに着いた油を使ってそのまま半熟目玉焼きを作り、乗せたら完成っ!
私は辛いモノが苦手なので、粉チーズを振りかけてちょっとマイルドに仕立てた。
白米は……少な目で。美味しいし食べたいけど、食べ過ぎて太るの恐いし。
食卓にお皿を持って席につくとイスの横に猫っ子が立った。
猫耳が出たままなのに、それを気づかないのか、隠そうともしない。
口の端からよだれがこぼれそうだ。
タマネギが入っている時点で大半の動物にとって有毒だ。
タマネギの成分で赤血球が壊れる溶結性貧血を起こしてしまうから。
だからこれは絶対に上げられない。
私は外出用のポーチを手元に引き寄せると中からカメラを取り出し写真をパシャリと撮った。
猫っ子がポカンとした顔でこちらを見たのでその口に煮干しを入れた。
私は何事もなかったかのようにガパオライスを食べた。
猫っ子が不思議な顔をしているのを横目に食べるご飯は何だか美味しいなっ!
猫っ子みたいな可愛い子の戸惑う姿なんてなんでこんなに可愛いんだろう?
ご飯が美味しいですっ!
猫っ子が横で肩を突き始めた。不思議とヒヤッとした感触しかない。
カメラに残っている画像を確認してみるとこちらを見てポカンとしている顔がきれいに映っていた。
透けているとかそういう事はなさそうだ。
カメラを確認していると横目にぶぅぅとした顔の猫っ子が見えた。
可愛いのでパシャリとしてみるとニャーッ! と言わんばかりの表情をしたので煮干しを突っ込んだ。
むっとした顔でこちらをにらんでいたが、私は気にしない。
食器を洗い、フライパンや包丁を片付け、生ごみをゴミ箱に捨てるとまた腰の辺りに猫っ子が居ついていた。
もうなんだ? この可愛い生命体はっ!
生きているのかどうかは怪しいが。
ご飯を食べたのでちょっと眠くなってしまった。
しかしここで眠るとお腹にお肉ががが……。
室内でもできる軽い運動をしよう。
四つん這いの姿勢から、右手と左足を上げ姿勢の維持を30秒、左手と右足を上げ姿勢の維持を30秒。
これで1セット。3セット繰り返して腹筋は終了。
初めてやった時1セットをこなすのも大分大変だった。
体幹が曲がっていたのか、倒れそうになるのをこらえるのが最初の試練だった。
……重くないよ? 重くないけど……なんで君は背中に乗るかな?
背中の辺りが冷えるのってちょっとこそばゆいんだけどっ!
何? 君はそんなに私に反応してほしいのかな?
最終的に背中の上でゴロゴロ転がり始めた。
くっ。この筋トレをしているとカメラが使えないっ!
猫っ子めっ! 狙っているなっ!
……筋トレ終了。腰の辺りにへばりついて剥がれない、この猫っ子は何がしたいんだ。
ポーチから煮干しを取り食べた。カルシウム補給。猫っ子が愕然とした顔でこちらを見ていた。
私も食べるのだ。煮干し美味しいし。
ある程度身体を動かしたのでソファーに転がると、猫っ子が転がった私の体の上で転がった。
猫っ子め。どんどん図々しくなりおる。その顔を撮ってやろうじゃないかっ!
何? 撮られると思っていないだと? ほれ、煮干しをやろう。
あれ? 1ショット、1個の約束だよ? これ以上は今はあげないよ?
詰め寄っても無意味だよ? 何? え? 顔近い、顔近い……。