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短編小説

笑顔をくれるそれだけで

作者: 伊那

 あなたはわたしの、すべてだった。


 飢えと寒さが敵だったわたしに、あなたはあったかいスープを与えてくれた。

 住む家をくれた。気を張らずにすむ時間をくれた。お行儀のよい人間らしさを教えてくれた。

 そして何より――やさしい言葉をくれた。




「ユリウスさま」

 あなたには冷たい雨も、不幸な事故も、どんなものさえ寄せ付けさせたくはなかった。

「なんだい、エイミィ」

 淡い髪と同じ色のまつげが、陽の光を浴びてそのまま光に溶けてしまいそうだった。

 あなたを守るためだったら、わたしは。

「なんでもないです」

 ユリウスさまは小さく微笑んだ。わたしの大好きな、控えめな笑み。これを守るためならわたしは、

 どんなことだってする。どんなことだってしてきた。

 たとえこの身を失っても、あなたを守るためだったら――


「いやあああ! ユリウスさま! ユリウスさまあぁ!」

 雨が降っていた。

 雨が、ユリウスさまの血を押し流す。

「やめて! そんなことしたら血が、血がぜんぶ流れちゃう」

 あれはぜんぶユリウスさまの中に入っていなきゃいけないものなのに。

 逃げろと雑音が、うるさい。

 ユリウスさまの口は少しも動いていないのに。わたしを動かせるのはユリウスさまの言葉だけ。

 だから口を開いて。

「エイミィ!」

 やめて。

 ユリウスさま以外がわたしの名前を呼ばないで。

 ユリウスさま。

 血が。

 いつまでたっても止まらない。

 やめて。

 やめてやめてやめてやめて

 やめて……




「もう見つからないと諦めていたところだぞ……。酒場に転がってるなんて、呑んだくれみたいだな」

 見たことのある顔だったが、どうだってよかった。あの日以来、わたしにとって覚えておくべき必要なことなどなくなった。注意を払うべきものも何ひとつない。

「……エイミィ、痩せたな」

 男はわたしを放っておいてはくれなかった。

「お前を初めて見た時を思い出したよ……あの方が、お前を拾った日を」

 どうやら男はわたしの反応を見ているらしい。言葉の節々にためらいがあった。だがわたしは指ひとつ動かすつもりはない。

 たとえユリウスさまの話をされても、わたしにはもうなんの意味もない。

 彼はわたしのすべてで、彼がわたしの生きる意味だった。あの人に仕えることが、あの人をお守りすることが、わたしの存在意義だった。

 でももう、彼はいない。

 そのことを受け入れるのには時間がかかったが、たとえ受け入たとしてもわたしの生きる理由がなくなったのに変わりはない。

 ほんとうは、わたしはもう生きていてはいけなかった。でも、

 ユリウスさまが。あの、お優しい人が、初めて会った時わたしに死なないでと言ったから、自ら命を絶つ選択肢は作れなかった。

「お前には酷だとは思うが、聞いてほしい頼みがある」

 まだ男は去らない。たしかユリウスさまの古くからの護衛の一人だったカイツだ。時おり秘書官じみた仕事もこなし、ユリウスさまに頼りにされているのがにくたらしかった。

「実際に目にした方が早いな……。彼をこちらへ」

 男が何か言った。そろそろこの場をはなれよう。この世界に平穏を感じられる場所なんて、もうどこにもないけど、この男はうるさすぎる。

「エイミィ」

 わたしは立ち上がった。頭がくらくらしたけどいつものこと。

 出入口のドアが開き、薄暗い室内に光がさす。逆光をさえぎって誰か立っていて、邪魔だった。

「お前の主となる人だ」

 カイツの声と、目の前の人物の姿が輪郭をともなって突きつけられる。

 戦慄した。

「ユ……ッ」

 その顔立ち、体型、身長にいたるまで――ぞっとするほど“あの人”にそっくりだ。

 灰色の瞳に、目頭から目尻まで、透き通った肌、淡い黄金の髪、同じ色のまつげ、唇の色、喉仏の位置まで、何から何までユリウスさまのお姿にしか見えない少年がいた。

 彼が死んだ時の光景がよみがえり、わたしの喉はせり上がるものを抑えられなかった。

「げえっ、姉ちゃんまたかよ!」

 店主が嘆いた。

 もう何も思い出したくなくて、わたしは口もとを覆うが意味はなかった。

 血と、雨が、暗闇が、部屋に満ちる。

「おねえちゃん、だいじょうぶ?」

 どこか間延びした、幼さの残る声。

 声は、ユリウスさまそのものなのに――

 顔を上げれば、ユリウスさまと同じ瞳の少年が困ったような顔をしている。

「カイツ、このおねえちゃんはぐあいがわるいの?」

 ユリウスさまの声で――あんな物言い。わたしのユリウスさまはもっと聡明で沈着で洗練された口を利く!

 おかしい。何かがおかしい。

 こんなのわたしのユリウスさまじゃない。ユリウスさまはもっと、もっと――ずいぶん前に死んでしまった。

 今度は口ではなく瞳が液体をこぼす。

 痛い。苦しい。あの人を失う以外に胸を痛めるなんてないはずだったのに。

 ギリギリと締め上げられる胸は、わたしに息をさせなかった。

「……こうなるだろうと思っていたよ」

 最後にはカイツが何か言っていた気がする。


 目が覚めると、存外にも頭ははっきりしていたのが不思議だった。

「起きた?」

 やわらかな日差しを浴びながら、椅子に腰かけていたユリウスさまがわたしに小さく微笑みかける。わたしの大好きな笑顔だ。控えめだけど慈愛に満ちた、彼の人柄のあたたかさを思わせる表情。

 なんだ、ぜんぶ夢だったのか。ユリウスさまのそっくりさんが現れたのも、ユリウスさまが死んだと思ったのも、ぜんぶ、夢。

 わたしは彼に微笑みを返した。

 すると、彼は小さな子供みたいに顔いっぱいで笑った。

 ユリウスさまはそんなこと、しなかった。わたしの心臓が危険を知らせはじめる。

 おかしい。何かがおかしい。

 わたしが手前にあった布団をかき抱くと、彼は立ち上がって部屋を出た。

 あっけなく一人にされた。狭い部屋、寝台と箪笥と椅子くらいしかない場所に、置いていかれた。

 途端、わたしは落ち着かなくなる。いつもそうだ。いつもそうだった。ユリウスさまのお姿が見れない時間はひどく悲しく長く感じられる。

 あの少年がなんなのか、まだ分からないが、わたしにはあの顔に置いていかれるのは怖いことだった。

「ユリウスさま」

 わたしは寝台からはい出た。足の裏が床に触れると冷たかったが、靴を探す気はなかった。

 もしかして、いまのユリウスさまは幻で、わたしが見た夢だったのか。

 わたしは一体、いつからいつまで夢を見ていたのか。

 ここはどこで、わたしは

「エイミィ」

 ユリウスさまらしき人がカイツと共に戻ってきた。いつもの大人びた表情より、好奇心の覗ける瞳。

 カイツはたしかユリウスさまの右腕だ。わたしは彼に説明を求める瞳を向けた。

「順に話す。まずはエイミィ、この薬湯を飲め。それから食事だ」

 急に世話好きになったカイツに疑問になった。そういえば彼は積極的に人の世話をすることはないが、最後には仕方なしに世話を焼く役目をしていた。『そこがカイツのいいところなんだよ』とあの人が言っていた――。

 とりあえずわたしは出されたものをすべて飲み込んだ。

「お前にはこれから、以前のように働いてもらいたいからな」

 面倒な話になりそうだ。

 カイツは少年に別室に行くよう言うと、一度静まりかえった。

「はっきり言おう、さきほどの方は本当のユリウス様ではない。ユリウス様は死んだ、それは事実だ」

 自分で思うのと、他人に言われるとでは、客観的な力が異なる。

 ユリウスさまの死の直後、わたしは誰のどんな言葉も聞かなかったし聞けなかった。だからその時もカイツが言ったかもしれない言葉を初めて耳にした。

 誰も、ユリウスさまの死を否定しない。

 誰も、ユリウスさまの死を否定できない。

 わたしも、ユリウスさまの死を否定できない。

 カイツがわたしの様子を窺っているのが分かった。情に薄い訳ではないから、カイツもわたしを気遣っているのかもしれない。あるいは、わたしが返事をしないと話を先に進められないと思っているのか。

 わたしはため息をついた。

「やはり、そうですよね」

 カイツもユリウスさまの死を思い出したみたいに遠くを眺めた。彼もあの時ユリウスさまに同行していた。カイツとわたしと何人かの護衛がいたのに、ユリウスさまを死なせてしまった。わたしたちはユリウスさまにこの上ない負い目がある。

「だが……闇の魔術師の力によって、ユリウス様の髪の毛から、ユリウス様の肉体を復元した」

「どういう、ことでしょう」

「体は、ユリウス様そのものだ。だが中身は違う。生まれたばかりの小さな子供と同じ」

「ますます意味が分かりません」

 カイツは治りきってない傷が痛むみたいな顔をした。

「魔術の事は、俺もよくは分からん。だがユリウス様の(ウツワ)はよみがえった」

 そんなこと有り得るのだろうか。おかしいではないか。

 もしユリウスさまがよみがえるのであれば、中身もユリウスさまのはずだ。

「お前に頼みたいのは、さっきのユリウス様の護衛と、教育だ。これまで通りユリウス様を守り、以前のユリウス様に近づけるように彼の癖やしゃべり方、所作やなんかを教えこんでほしい」

 さっきのユリウスさまそっくりの少年を思い出す。ユリウスさまが死んだ時と同じ年頃だったから、もう十五にはなるはずだ。それなのに、あの幼い言動。

 “あれ”が中身は子供ということなのか。ユリウスさまの生まれた頃は知らないが、わたしはユリウスさまが六歳の時に拾われた。六歳のユリウスさまだって、あんな風に何も知らない赤ん坊のような物言いはしなかった。あの人は生まれながらに王族だったから、子供らしく甘えた振る舞いを許されなかった。

 言葉を多く知らなくとも、落ち着いた、大人により近い態度を周囲から望まれたから。

 その教育にわたしは関わることはなかったが、今度はそうしろというのか。

 本来のユリウスさまそっくりの行動をとれるようにあの者をしつけよ、と。

 そうしなければ、あの少年はユリウスさまに似ているだけの赤の他人にしかならない。

「あのユリウスさまはニセモノなのですね」

「そうとも言う。だが、この国には必要な存在だ」

 いわば、ユリウスさまの影武者を死後にたてようというのだ。

「お前も分かっていただろう、ユリウス様のような王族がいかに稀有で気高い存在か。現国王も老齢で血迷った政策や決断ばかり。あの放蕩の甥を皇太子に指名するなど。他の王族も皆、自分の保身や目先の利益のみしか見えない能無ししかいない。真に民を思っていらっしゃったのは、ユリウス様ただお一人」

 カイツの言葉はもっともらしく、聞いたことのある話ではあったが、わたしの耳を素通りした。

「ユリウス様は自分がより政治に携われたらと様々な事をお考えだった。あの――ユリウス様の複製もそのうちの一つだ。現国王の強いた悪政を正すにはどうしたらいいか、細かく対策を練っていた。万策を遺して、眠られたのだ、あの人は――」

 ユリウスさま。

 ユリウスさま、今は亡きあなたを裏切る行為にはならないでしょうか。

 あなたの身代わりをたてるなどと。

 生涯忠誠を誓ったのは、あなたの顔ではなくあなたの魂。

 あなたの魂の存在しない脱け殻に、仕える必要はあるのでしょうか。

 ユリウスさま。

 ユリウスさま……

「ユリウス様の遺した理想の為には、彼と、お前と、俺たちが必要なんだ」

 それでも、ユリウスさまの顔が見えないことでわたしは心配になる。

 あれからどのくらいの時がたったのかわたしは頓着しなかった。季節がひとめぐりしたくらいか。

 その間ユリウスさまは死んだと見なされていた。だが今その影武者が現れたら、実は生き延びていたのだと思われるかもしれない。カイツがしようとしているのは、そういうことだろう。

 だとしたら、あのユリウスさまに似た人は、ユリウスさまと同じ目に遭うかもしれないのだ。

 わたしは立ち上がった。

「あの人と会わせてください。もう吐きも泣きしませんから」


 ユリウスさまの影武者はとなりの部屋で窓の外を眺めていた。

 半分は少年の安否確認のためだった。

 無事な姿を見たはずが、不安と(おそ)れで心臓が鉛のように重くなって息苦しさを感じる。

 表情を抜きにすれば、ほとんどユリウスさまだ。瞳の灰色の薄さや、淡い髪の癖や、羽織るガウンの色の好みまで一緒だ。服はカイツや側近が着せたのかもしれないが。

 何かを期待するような瞳の少年。やはりユリウスさまではない。

 表情ひとつで人の印象は変わるものなのだと知った。

 わたしはカイツに耳打ちする。

「何とお呼びすれば?」

「ユリウス様、と」

 真面目くさった顔でカイツは答えた。たとえ自身もこの少年をユリウスさまと認めきっていなくとも、顔には出さないと心がけているようだ。そういえば、ユリウスさまと意見が衝突して言い負かされても、似たような顔をしていた。

 わたしはユリウスさまによく似たこの子供を真正面から見つめることは出来なかった。

「ぼくのことはみんな、ユリウスってよぶよ。おねえちゃんはだあれ?」

 わたしがまごついている間に少年の方から切り出した。

 少し疲れていた時のユリウスさまに似ているかもしれない。徹夜続きの疲労で、大人の仮面や王族の義務が剥ぎとられた時の、年相応のユリウスさま。

 ユリウスさま。

 あなたをもう一度、追いかけてもいいでしょうか――。

 泣きもしないと言った端から、わたしの目の奥は熱くなった。

「エイミィ、と申します。ユリ……ウスさま」




 最近、とみに“殿下”はユリウスさまに似てきた。

 見た目の話ではなく、中身の話だ。

 ユリウス殿下は素直な性格で、言われたことをそのまま反映させようとする。ユリウスさまも――芯があって反論もするが、根は素直なもので、自分に非があれば認めたりしたものだ。

 わたしが『ユリウスさまはそのような物言いはなさいませんでした』と言えば殿下は『それなら、どのように言ったの』と返す。

 わたしには殿下の成長が、時におそろしく、また殿下自身も自分の置かれた状況を理解し始めたことが――いやだった。

 わたしがいくら表ではユリウスさまと殿下を同列に見なそうとも、本心では違うと、彼に見抜かれている。

 少年は時々ひどく、痛みをこらえたさびしそうな顔をする。

 あの影武者は、自分がユリウスさまより劣っていると知っている。そのことに苦しんでいる。自分は誰かの身代わりなんかではないと、思い始めている。

 そう思えるのだ。

 事実、殿下と接してきてわたしは彼がユリウスさまとは違う存在だと分かってきた。

 魔術によって同じに見せても、中身は違う。教育によってユリウスさまに近づけさせても、同じにはなれない。ユリウスさまの体を持っても、心はまったくの他人。

 そういうことだ。

 わたし以外にそんなことを考える者はいないようだ。殿下だってそれをしっかりと認識しているかどうか。無意識だとしても隠してもいるのだから、周囲の者は気づかない。彼らは政治の悩みで忙しく、“ユリウスさま”を王位に就けようと必死だ。

 だが、一番残酷なのは気づいていながら黙認するわたしだろう。

 最近、このわたしですら殿下をユリウスさまと見間違えることがある。

 表情からあどけなさは抜け、教えた通りに優雅に歩き、注意したように上品にしゃべる。もうわたしが会った時の六歳のユリウスさまを超えたはずだ。

 今は世間に姿を隠しているが、王宮に戻ったら何人かはユリウスさまが生き返ったと信じこむに違いない。いや、彼を目にした全員だろうか。

 わたしは、このユリウスさまの行く末を見てみたいと思うようになった。

 そして偽物でも、ユリウスさまの側にいられるのなら――それもいいかもしれない。

 だってあの人はユリウスさまのように穏やかな眼差しをする。ユリウスさまと同じ絹のようになめらかな声をしている。ユリウスさまの控えめな微笑みをわたしにくれる――。

 そうでなくともわたしは、このユリウスさまも死なせるわけにはいかない。二度もユリウスさまを失うなんて考えられない。この少年の側にいるしかないのだ。


 老いた王が死んだ。カイツたちはこの機を狙っていた。一年以上前の王子暗殺事件を生き抜いた、ユリウスさまが王宮に戻る。そしてユリウスさまに王位を継承させる正当な理由と証拠をもって、元老院を納得させる。そして皇太子を玉座から追い払いユリウスさまの戴冠となる。

 当然うまくいかなかった場合の案も用意してある。

 わたしはユリウス殿下の護衛だ。いくらか侍女の真似事もするが、男たちと違ってクーデターの話に介入は出来ない。するつもりもない。ただ殿下をお守りすればいいのだ。そしてそれが至上の命題。

 だからわたしには、国を揺るがす一大事にもどこか距離を置いて接することが出来た。

 カイツたちは慌ただしくあちこちを走り回り話し込んでは時おり声をあらげる。

 わたしはただ、殿下が供の者を減らして歩いていたら近くに行くだけ。

 殿下は、ユリウスさまがよくしていた、国の未来を憂いた表情をしている。

 ユリウスさまにも、こちらの殿下にも、わたしは必要以上に話しかけることはなかった。とはいえユリウスさまにはまだ、仕事に関係ない話をした。

「エイミィ」

 殿下は小さなバルコニーへと進んだ。わたしは追って返事をした。だがユリウスさまは振り返らずバルコニーからの景色を眺めた。小さな街が、夕焼けに照らされている。

「明日、私たちは王都へ向かう。予定通りだ」

 もしかしたら、明日は交戦となるかもしれない。それも、予測済みだ。ユリウス王子の名を騙る偽物と見なされ国軍に出迎えられることもあるだろう。

「でも私は……」

 ユリウスさまには味方が多かった。カイツたちは密かに兵力を集めている。クーデターを成し遂げるには武力が必要なのだから。武器も揃い、兵の数も充分とはいえなくともそれなりだ。

「怖いんだ、エイミィ」

 歴史の巨大な渦の真ん中に、この少年はいる。彼の言葉は無理もない。

「君たちが私の事をどう思っているかはよく分かっているよ。でも私は」

 息がつまったように、殿下は口を閉じた。

「私は」

 魔術で声を封じられたかのように何度か口を開いたり閉じたりする。ユリウスさまは言葉につまることはなかったように思われる。

「エイミィ、君はいつも私の側で護衛をしてくれているね」

 彼は話題を変えたように、わたしには思えた。努めて明るい声を出しているらしい。この少年は、ユリウスさまほど本心を隠すのが上手くない。まだ身についてないだけかもしれないが。

「もし、もし私が逃げ出したいと言ったら、ついてきてくれるかな、エイミィ?」

 まるで駆け落ちを誘うような言葉。

 だがそんな甘い響きはなかった。

 もし、本物のユリウスさまに言われたらわたしはどうしていただろう。

 本物のユリウスさまは、逃げたりなんかしないだろうか。

「エイミィ、分かっている。君たちが、君が、私を例の……本物と重ねている事を。当たり前だ。分かっている。だからこそ私にも優しくしてくれる。様々なものを与えてくれている。私もそれで助かっている」

 殿下はわたしの頭の中を覗きこんだように言った。それがつらいことのように、目を細める。

「ユリウスさま」

 表向き、わたしはいつも彼をユリウスさまと呼ぶ。

 きっと彼は、これ以上話してはいけない。制止のつもりで呼びかけたのに、殿下は聞こえていなかった。

「でも、私、私は……」

 うろたえたように彼は、自分の足元を見る。まるで床に自分のほしい答えが落ちてないかと探すように。

「君が愛しているのはユリウスだと分かっているよ」

 途端、彼は顔を上げる。

「でも、お願いだ……今だけは、“私を”――」

 後悔したように顔を背ける。

 少年は涙を一筋流した。

 以前は豪快に、小さな小さな子供みたいに泣いていた時もあったのに。

 大人の泣き方をするようになってしまった。

 ユリウスさまにさせたことを繰り返す。

 わたしは、わたしたちは何てことをしてしまったの――。

「どうして君が泣くんだ。私が、弱音を吐く腰抜けで、悲しくなったか」

 わたしは首を横に振った。

「……いいえ」

「それなら、なんでだ」

「いいえ、いいえユリウスさま。これは涙ではありません」

 わたしの涙は一筋などでは止まらなかった。今では殿下の方が泣きやんでいる。

 彼はとてもさびしそうな、悲しそうな、こらえた笑みを浮かべた。

「エイミィ。君だけだと思っていいのか。私の為に泣いてくれるのは、君だけだと――」

 いいえユリウスさま。これはあなたを思っての涙ではありません。罪悪感に心が悲鳴を上げているのです。

 あなたの運命(さだめ)の残酷さに、おそれ(おのの)いているのです。

 そしてこれからもあなたに強いる過酷な未来に、悲しんでいるのです。

 出来ることなら“あなた”を救ってやりたい。

 もしかしたら、ユリウスさまも王族としての運命に怯えていたのかもしれない。

 それでもわたしは運命を変えられなかったし、彼のために出来たことは何もない。それはこの少年に対して同じなのだ。

 わたしはきっと、とんでもない悪人なのだろう。幼い心に甘えを許さず、楽な道さえ教えられない。

 変えることの出来ない未来ならば、わたしはこの子供に嘘をつかなければならなかった。

 ユリウスさま。

 ユリウスさま。

 あなたを忘れたわけではない。あなたを忘れることなど出来ない。

 でもあなたは、誰よりも心の優しいひとだったから、わたしがこの子の側を離れることは許さないでしょう。支えになってやれと言うのでしょう。

 いえ、間違っていると全てを否定するでしょうか。

 でも、わたしは、

「ユリウスさま」

 涙を振り払った。

「明日は、あなたと共に王都におります」

 ユリウス殿下は、頬をひきつらせて自嘲すると、一度だけわたしに触れた。

 手首を引かれ、軽い力で抱きしめられる。

 わずかな間だけ。

 わたしが何かを言う前に、する前に、彼はわたしを解放した。

 涙などないのに、彼が泣いているのが分かった。

 ああ、彼は運命を受け入れてしまった――

 少年の立ち去る足音だけが聞こえた。




 その日、王都で次期国王に反旗を翻す一群が現れた。

 当初は平和的な交渉が行われたが決裂、歴史にはクーデターとのみ記された。

 結果、反国王派が勝利、ユリウス二世が即位する。

 平和をたっとぶユリウス二世の治世は腰抜けだとも言われたが、しかしながら他国の外交官の評価は高く安定した情勢が続いた。

 二十八の若さで死を迎えるまで――かたわらにはいつも、一人の女が控えていた。

――ユリウスさま


――あなたを、あなたに何もしてあげられなかったことを、今でも悔いています


――あなたのためなら、なんだってすると決めたのに


――天寿には勝てない


――運命にも勝てなかった、いいえ、挑めもしなかったわたしを、許せるはずがないでしょう……


――許さないでください


――あの方の恨みも、あなたの恨みも、わたしのもの


――恨んでなんか、いない


――ユリウスさま……! お目覚めに? 今、侍医を


――いいから


――あの人もきっと、君を恨んでなんかいない


――優しい人なんだろう、彼は


――ユリウスさま


――ユリウスさま、いかないで。二度も、あなたを、わたしは


――君は、私を甘やかしてくれたよ。王都に戻ってからは


――笑いかけてくれるように、なった


――僕の一番、


 だいすきな


 えがお




『エイミィ?』


『なんですか、陛下』


『日差しがあたたかいね』


『そうですね』


 きみの笑顔が






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