戸田君の恋人
「戸田君の恋人」シリーズ、最終話です。
外では、雨がザーザー降っていた。
春雨なんて、かわいらしいものじゃない。
私の声なんか、誰も聞こえないくらい、雨音は激しかった。
ふと桜の花のことを思い出す。
あの初々しい花も散らされてしまうのだろう。
想像するだけで、恐ろしくて目を瞑った。
すると、私は世界から完全に切り離された。
そうさせたのは、戸田君だった。
そもそも、お花見に行ったことが間違いだったのかもしれない。
それとも、私が天気予報より戸田君を信じたせいかもしれない。
どちらにせよ、今朝は、晴れていた。
戸田君は、10時くらいにやってきた。
私は、ちょうど新聞を読んでいた。
正直言うと、お花見に行くのは、少し面倒だった。
せっかくの休みだったので、部屋の掃除がしたかった。
私は新聞の天気予報の欄を戸田君に見せた。
「今日、雨が降るみたい。お花見は来週にしない?」
「俺、晴れ男だから大丈夫だよ。家にいたいって言うなら、それもいいけどね」
そう言って、戸田君は、ベッドをちらりと見た。
笑顔だけど、目が笑っていないよう。
最初から選択肢を与える気はないのだ。
仕方ないので、お花見に出かけることにした。
戸田君は車を出してくれると言ったけれど、断った。
お花見といえば、ビールだ。
ひとりだけ飲むのは悪いよね。
天気が良かったので、公園まで歩いていくことになった。
少し遠いけど、遠足気分だ。
途中で美味しそうな焼鳥屋を見つけた。
店のおじさんは、煙がもくもくしている中でもくもくと鳥肉を焼いている。
私は張り切って注文した。
「ももとねぎまとかわを3本ずつ。あ、塩でね。それから、レバー2本。ねぎまとぼんぼちも1本ずつください」
「そんなに買って食べれるの」
戸田君は呆れた顔していたけれど、気にしない。
自分だって、和菓子屋に寄っていたくせに。
公園の桜は満開だった。
華やかな光景は、ビールと焼鳥によく似合う。
「春だね」
隣に座っている戸田君から返事はない。
みたらし団子を片手にいちご大福をかじっている。
どうも、ご機嫌斜めのような気がする。
「どうしたの」
「俺の春は、いつ来るの」
湿った風が私の頬を撫でる。
期待と不安が入り混じった視線に耐えきれなくて、下を向いた。
ネズミーシーの帰り道で告白めいたことを言ってしまった。
戸田君ともっと一緒にいたいと思う。
男の人に対して、そんな風に感じたことは今まで一度もなかった。
それが正直な気持ち。
でも、好きだと口に出そうとすると、喉に何かがつまったみたいに言葉が出なくなる。
私は、戸田君を失う日を想像する。
前よりもひとりぼっちになってしまうだろう。
臆病者の私は、その日が怖くて仕方ない。
その時が来ても、私がすがりついたら、きっと彼はどこにもいかない。
一度好きになったものはずっと好きだと言い切ってしまうような人だもの。
私は、そんなに簡単だと思わない。
たとえば、素敵な女性が戸田君の人生に登場した時。
たとえば、私が戸田君以外の男性に惹かれてしまった時。
もしも、病気になったら。
私達は、自分の気持ちを誤魔化すようになってしまうかもしれない。
縛りつけることはしたくない。
悲しませたくない。
だから、言えない。
でも、拒絶することもできない。
私は、戸田君から身を引くと、立ちあがった。
「曇ってきたから、帰ろう」
帰り道は急いだけれど、途中で雨が降り出してしまった。
戸田君のマンションの方が近かったので、雨宿りをさせてもらうことにした。
ずぶ濡れになった体は、冷え切っていた。
戸田君は、有無を言わさず、私を浴室に押し込んだ。
浴室から出ると、戸田君は、ソファーに横たわっていた。
規則正しい寝息が聞こえる。
窓の外を見ると、雨はまだ止みそうにない。
マンションの管理人さんに傘を借りて帰ろう。
戸田君に毛布をかけて立ち上がろうとした時、手首を掴まれた。
バランスを崩した私は、ソファーに座り込んだ。
「どうして、俺じゃだめなの」
戸田君は、目を閉じたまま言った。
「ごめん」
謝ることしかできない自分が情けなかった。
戸田君が身を起こした。
私達は向かい合う。
「理由を教えて。でなきゃ、納得できない」
顔をそむけようとしたけれど、両手で頬を押さえられて、かなわなかった。
「やだ。言わない」
唇を噛んで、目を逸らす。
私の強情が戸田君を苛立たせる。
咬みつくようにキスされて、唇を無理やりこじ開けられた。
「ちょっ、やめっ」
ぐらりと体が揺れて、仰向けに転がされる。
唇を解放しても、戸田君は止まらない。
額に頬に首筋に口づけられる。
「言ってよ」
その言葉は、懇願のようであり、命令のようでもあった。
「絶対にいや」
私は、必死に首を横に振った。
「馬鹿にするな。俺が何年あんたのこと好きだったと思っているんだ」
冷静さを失った声は、まるで獣のうなり声だ。
「馬鹿になんかしてないよ」
私の声は、震える。
「言って。言わなきゃ、あんたを傷つけてしまうかもしれない。俺にそんなことさせないで」
空色の瞳は、ビー玉みたいに無機質だった。
その目に魅入られたら、きっと誰でも口を割ってしまうだろう。
「だって、怖い」
「何が」
「戸田君は、いなくなっちゃう」
「それはありえないね」
「嘘だよ。私よりも好きな子ができる」
「あんた以外を好きになれるんだったら、とっくに他の女と付き合ってる」
戸田君、もてるもんね。
「私に好きな人ができるかも」
「あんたの前に二度と現れないようにしてやる」
お祖父さんの財力を利用する気だ。
「病気になったら?私が死んじゃうような病気にかかったら、どうするの」
お母さんみたいに死んじゃったら、どうするの。
私のお母さんの病気が遺伝性だって、知らないでしょ。
お祖父ちゃんも同じ病気で亡くなったことも知らないでしょ。
体が痛むせいで、ずっと不機嫌な人間がいるってことを知らないでしょ。
毎日不安だった。
お母さんが苦しんでいるのに何もできない自分が憎かった。
お母さんが死んだ時、泣けない自分が恐ろしかった。
戸田君は、何も知らないじゃない。
私が睨むと、戸田君はため息をついた。
それから、息がとまるほど強く私を抱き締めた。
「とりあえず、世界一の医者に診せる。それでも、どうにもならなかったら、どうもしない。ずっと一緒にいるよ」
「戸田君、おかしい」
「けっこう普通だと思うけど。あんたこそ、もう母親のことより自分のことを考えてよ。あんたは、病気じゃないし、これからも病気になんかならない」
頬を伝う涙を戸田君の指がすくう。
「好きって言って。俺のことを好きだって」
戸田君の声は、かすれるほど小さいのに強力だった。
おかげで、体中の細胞がその言葉を囁き合っている。
今なら、言えるかもしれない。
「好きだよ、戸田君」
やっと言えた。
声に出したら、戸田君のことをもっと好きになった。
キスされるのが嬉しくて、私もキスを返した。
「怖くないよ」
戸田君は、子供をなだめる歯医者みたいに私に言い聞かせた。
こんなに好きな人にどうして逆らえるだろうか。
甘い言葉に聞き入っているうちにどんどん服をはぎとられた。
戸田君は、まず、私の外側を丹念に食べた。
頭のてっぺんから足のつま先まで一口ずつ味わう。
人間の性格に外と内があるように、人間の体にも外と内がある。
本人にすら見えない内側にかぎって、マグマのように煮えたぎっている。
熱く危険な場所を戸田君はいたく気に入ったようだった。
まるで未開の地を探す探検家だ。
私が知らなかった場所を探るように触れた。
ひやりと冷たい指先で。
じわりと温かい舌先で。
執拗なほど熱心に。
くすぐったい部分もあれば、気持ちの良い部分もあった。
痛くて逃げ出したくなるような部分もあった。
悲鳴を上げるたび、ため息を漏らすたび、口づけが降ってくる。
どうせ、逃がしてはくれない。
熱くて、苦しくて、死ぬかと思った。
怖くないって言ったのに。
雨は降らないと言ったのに。
戸田君は、嘘つきだ。
世の中には寝ても醒めてもその人のことを想う恋があるらしい。
私の恋はそんなんじゃない。
そう思っていたはずだけど。
目が覚めたら、戸田君の顔が目の前にあった。
これから先、寝ても醒めても戸田君は私の傍にいるかもしれない。
そんな恋があってもいい。
そんな恋であってほしい。
戸田君は、私の恋人だから。
山も谷もない話に付き合っていただき、ありがとうございました。ちなみに、戸田君は、「雨は降らない」とは言っていません。