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重生後、私を捨てた恩知らずの一家全員に跪いて懇願させた

作者: 熾星
掲載日:2026/10/26



 前世の俺は、家族のために自分の人生を差し出した。


 育ての母、葉山文江は、妹の佳苗には進学の機会を与えてやりたいと言った。家には金がない。お前は長男なのだから、先に働いて家計を支えろ。妹が卒業したら、自分のことを考えればいい。俺はその言葉を信じ、必死に勉強して手に入れた大学への進学を諦めた。


 やがて文江は、沢渡家に恩があるからと、精肉店の娘、美津子との結婚を迫ってきた。俺が断ると、母は泣きながら、これまでどれほど苦労して俺を育ててきたかを語った。結局、俺は母の涙に負け、幼なじみの菜穂との将来まで手放した。


 菜穂は俺の心変わりを信じられず、一人で会いに来た。その帰り道、川の堤防近くで酒に酔った田辺和彦に襲われた。深く傷ついた菜穂は川に身を投げ、命を絶った。俺が彼女の最期を知ったときには、もう何もかも手遅れだった。


 結婚生活も悲惨だった。美津子は酒を飲んでは暴れ、和彦との関係も続けていた。ある日の夫婦喧嘩で、彼女は木の腰掛けを振り上げ、俺に叩きつけた。内臓を損傷して大量に出血した俺は、病院へ運ばれた。


 手術を受けるため、文江と妹たちに治療費を頼んだ。だが、家には金がないと言われ、美津子も手続きに協力しようとしなかった。


 俺は病院のベッドで息を引き取った。


 意識が遠のくなか、佳苗の笑い声が聞こえた。


「お兄ちゃんって、本当にちょろいよね。何を言っても言うことを聞いてくれるんだもの。うちで飼ってる牛のほうが、よっぽど手がかかるよ」


 文江も一緒になって笑った。


「昔からお人よしだったからね。私が頼めば、何でも信じるんだもの」


 次に目を開けたとき、俺は昭和五十年、一九七五年の春に戻っていた。


 高校を卒業したばかりの俺のもとには、千代篠大学から合格通知が届いていた。入学金の納入期限が迫るなか、文江は俺に進学を諦めさせ、貯金を佳苗に回すつもりでいた。


 今度こそ、自分の人生は自分で決める。


 もう、誰にも俺の未来を奪わせない。



1



 目を覚ますと、窓の外から鶏の鳴き声が聞こえた。古い木造家屋の障子戸は少し歪み、部屋の隅には薪が積まれている。机の上には年季の入った目覚まし時計があり、壁には色あせた上着が掛かっていた。


 布団から起き上がり、自分の手を見つめた。前世で刻まれた深いひび割れも、農具で傷つけた手の傷もない。頬に触れてから壁のカレンダーに目をやると、昭和五十年三月と書かれていた。高校の卒業式が終わって、まだ数日しか経っていない。


 机の上には、大学から届いた封筒が置かれていた。


 中には合格通知と入学手続きの案内が入っている。大学名も、入学金の納入期限も、はっきりと記されていた。


 夢じゃない。本当に戻ってきたんだ。


 前世の俺は、高校三年間、ずっと成績上位を維持していた。担任の松田先生は大学進学を勧め、推薦入試の書類まで一緒に準備してくれた。面接と校内選考を経て、ようやく合格通知を手にしたのだった。


 ところが、学費がかかると知った文江は、その晩、畳に座り込んで泣き始めた。佳苗も都会の学校に進みたがっているのだという。成績は少し足りないけれど、本人はずっと憧れていたのだから、兄である俺が譲ってやるべきだと。


 一晩中泣き続ける母を前に、俺は進学を先延ばしにして働くと約束した。


 あとになって、佳苗が希望していた学校には合格していなかったと知った。彼女が目をつけていたのは、都会にある私立の短期大学だった。俺が貯めた金を使って、そこに通うつもりだったのだ。文江はそれを知りながら、俺には何も話していなかった。


 布団を畳み、上着を羽織る。俺は合格通知を手に、家を飛び出した。


 高校までは歩いてすぐだった。職員室では、松田先生が卒業生の書類を整理していた。俺に気づくと手を止め、椅子を勧めてくれた。


「葉山、どうしたんだ? 入学手続きで分からないことでもあったか?」


「先生、大学に進学することに決めました。入学金も自分で用意します。ほかに必要な書類があれば、確認しておきたいんです」


 松田先生は、ほっとしたように表情を緩めた。


「そうか。よく決心したな。お前がどれだけ勉強してきたか、私は知っている。家の事情もあるだろうが、せっかくつかんだ機会だ。大事にしなさい」


 俺は必要な書類を机に並べた。先生は記入漏れがないか一つずつ確認し、学生寮の申し込みも早めに済ませるよう教えてくれた。生活費が足りなければ、奨学金について大学に相談する方法もあるという。


 学校を出た俺は郵便局に寄り、貯金を大学指定の口座に振り込んだ。高校時代、荷物運びや屋根の修繕などのアルバイトをして、少しずつ貯めてきた金だった。大金ではないが、入学金を納めるには足りた。


 手続きを終えて家に帰るころには、すっかり日が暮れていた。


 玄関の戸は少し開いていて、中から母娘三人の笑い声が聞こえてくる。


「ねえ、お母さん。私が都会に行ったら、きれいな布を買ってあげる。新しい服を仕立てたら、外に出るのも楽しくなるでしょ?」


 佳苗は得意げだった。


「やっぱり佳苗は優しいね。それに比べて修吾は、朝から晩まで黙って働くだけ。気の利いたことの一つも言えないんだから」


 千佳もそばに座り、毎日畑仕事を手伝わされているせいで手が日に焼けたとこぼしていた。文江は佳苗が都会に出れば家の暮らしもよくなるし、千佳だってそのうち恩恵を受けられると慰めている。


 俺は戸口に立ったまま、手にした書類袋を握りしめた。


 これまで、佳苗の将来の話になるたび、長男の自分がもっと頑張らなければと思っていた。けれど、今こうして聞いていると、胸の奥が重くなるばかりだった。


 そのとき、部屋の中で戸棚を開ける音がした。


「今日、鶏小屋に卵が三つあったの。ちょうど一人一個ずつ食べられるね」


「修吾が帰ってきて、卵はどうしたって聞いたら?」


「何が困るの? あの子だって、今まで何度もご飯を食べてきたでしょう。卵三つくらい、わざわざ残しておく必要なんてないわよ」


 去年の秋、鶏小屋の前で半日も待って、ようやく一個の卵を見つけたことを思い出した。俺は嬉しくなって、すぐに文江に渡した。母は自分で食べるのはもったいない、俺の結婚資金の足しにすると言った。俺はその言葉を信じ、遠慮せず食べてくれと勧めたものだった。


 それからというもの、鶏が卵を産むたびに、佳苗と千佳は競うように文江へ持っていった。親孝行をしているのだと思っていたが、二人は母親の機嫌を取るのがうまかっただけなのだ。


 部屋の中から、また笑い声が聞こえた。


「修吾はうちの働き牛だもの。どれだけ働かせても文句を言わないしね」


 自分の手のひらを見つめ、俺はゆっくりと書類袋から手を離した。


 あと数日で、この家を出て千代篠大学へ向かう。


 もう、自分の将来を彼女たちに委ねるつもりはなかった。



2



 翌日、農具を担いで村の集会所の前を通ると、佳苗が新しいブラウスを着て、人々の輪の中心に立っていた。都会の学校へ進学するのだと、あちこちで話していたらしい。近所の人たちが次々に集まり、彼女を祝福していた。


「佳苗ちゃん、立派ねえ。都会に行っても、私たちのことを忘れないでね」


「この辺りからいい学校に進む子は少ないからね。大きな会社に入ったら、私たちのこともよろしく頼むよ」


 誰かが蒸したサツマイモを渡し、別の人は落花生を差し出した。佳苗は満面の笑みで礼を言い、将来はきっと成功してみせると胸を張っている。


 俺が通りかかると、彼女はわざと声を張り上げた。


「うちの兄なんて、勉強ばかりしているのよ。そんなことをして何になるのかしら。さっさと働いて家にお金を入れたほうが、よっぽど役に立つのに」


 周囲からは、長男なら家族を支えて当然だという声が上がった。一方で、俺の成績がよかったことを知っている人たちは、なぜ佳苗が都会へ行き、俺が村で働いているのかと不思議がっていた。


 俺は足を止めず、そのまま通り過ぎた。


 夕方、仕事を終えて帰る途中、菜穂と出会った。町の小さな作業場から帰ってきたところらしく、服には綿くずがついていた。手には布袋を提げている。


 俺たちは子どものころから一緒だった。俺が勉強好きなのも、学費を貯めるために夜明け前から畑に出て、夜は荷物運びまでしていたことも、菜穂はよく知っていた。


「修吾、大学のことはどうなったの?」


「手続きは済んだよ。四月に入学する」


 菜穂は一瞬目を見開き、それからぱっと笑顔になった。


「よかった! 私も都会で働こうと思ってるの。紡績工場が人を募集しているって聞いたから、明日、話を聞きに行ってみるね」


 俺たちは並んで歩いた。大きなケヤキの木のそばまで来ると、文江と妹たちが木陰で涼んでいるのが見えた。


 菜穂に気づいた文江は、たちまち顔を曇らせた。


「あら、松崎さんのお嬢さんじゃない。男の後をついて回って、恥ずかしくないのかしら」


 佳苗は菜穂の着古した服を見て、鼻で笑った。


「本当よね。自分の家だって余裕がないのに、いい男を捕まえようなんて、身の程知らずじゃない?」


 菜穂の顔から血の気が引いた。俺は足を止め、怒りを抑えながら二人に尋ねた。


「どうしてそんな言い方をするんだよ。菜穂が何をしたっていうんだ?」


「何よ、ちょっと言っただけでそんなに庇うの?」文江は俺を睨んだ。「誰のおかげでここまで大きくなれたと思ってるの? 育ててやった母親に逆らって、他人の肩を持つつもり?」


「菜穂は何も悪いことをしていないだろ」


 文江は鼻で笑った。


「いい? もうあの子とは付き合わないでちょうだい。沢渡家の美津子さんとの話は、もう両家で進めているの。あちらには世話になったんだから、恩を仇で返すわけにはいかないでしょう」


 菜穂が俺を見上げた。目にはみるみる涙がたまっていく。


「修吾……大学を卒業したら、一緒に都会へ行こうって約束したよね。まさか、本当に別の人と結婚するつもりなの?」


「結婚なんてしないよ。美津子さんとの話も、俺は承知していない。菜穂、少し待ってくれ」


 佳苗は腕を組み、わざと周りにも聞こえる声で言った。


「美津子さんの家は何度も話をしに来ているのに、知らないふりをするつもり? お兄ちゃんだって、あまりにも身勝手じゃない。うちがお世話になったんだから、結婚くらい引き受けたらいいのに」


 菜穂は顔を覆い、その場から走り去った。


 俺もすぐに後を追おうとしたが、文江が胸を押さえ、ふらつきながら地面に座り込んだ。


「ああ、息が苦しい……修吾、早く家に連れて帰って、お医者さんを呼んでおくれ!」


 佳苗が駆け寄り、俺の腕をつかんだ。


「お兄ちゃん、お母さんが苦しんでいるのが分からないの? 菜穂さんだって、少しくらい一人で歩いたって大丈夫でしょう!」


 文江は俺の袖をつかんで離さず、親不孝者だと泣き叫んだ。近所の人たちも集まってくる。俺が振りほどこうとするほど、母は声を張り上げた。


 その手を見つめた瞬間、前世の記憶がよみがえった。


 あの日も、こうして文江に引き止められた。その間に菜穂は一人で川の堤防へ向かい、酔った和彦に襲われた。俺が見つけたときには、もう何もかも手遅れだった。


 俺は文江の手を振りほどき、母の泣き声を背にして菜穂の後を追った。


 川辺の柳の木の下で、菜穂はしゃがみ込み、両手で顔を覆っていた。足音に気づくと、びくりとして顔を上げた。


「美津子さんと結婚するんでしょう? だったら、どうして追いかけてきたの?」


 俺は上着を脱いで彼女の肩に掛け、冷たくなった手を握った。


「結婚なんてしない。大学の手続きも済ませたし、四月にはここを出る。菜穂も都会で働きたいって言ってただろ? 明日、一緒に紡績工場へ行こう」


 菜穂はしばらく俺を見つめていた。やがて、頬を涙が伝った。


「今度こそ、嘘をつかないでね」


「もう一人で抱え込ませたりしない」


 遠くから、酔っ払いの怒鳴り声が聞こえた。和彦の声だと分かった俺は、菜穂の手を引いて川辺を離れ、大通りを通って彼女の家まで送り届けた。


 菜穂の母親は戸口に出てきた俺たちを見て驚いた。事情を聞くと、すぐに菜穂を家の中へ連れていき、何度も俺に礼を言った。


 翌日、俺は村の倉庫で荷物の整理を手伝っていた。そこへ美津子が保温容器を提げてやってきた。俺のために豚肉のスープを煮てきたのだという。


 彼女は容器を机に置き、蓋を開けた。肉の香りがふわりと広がった。


「最近、忙しそうだから。これを飲んで、少し体を休めてね。結婚したら、私がちゃんと面倒を見るから」


 俺は容器を見てから、畑で瓜が食べたくなったと言い、近くの菜園へ取りに行ってくれないかと頼んだ。


 美津子が出ていくと、和彦がふらりと倉庫に入ってきた。普段から仕事をさぼってばかりいる男だ。机の上のスープを見つけると、さっそく手を伸ばした。


「何だこれ。うまそうな匂いがするな」


「美津子が俺のために作ってくれたんだ」


 わざと聞こえるように言うと、和彦はにやにや笑いながら容器を持ち上げ、半分以上を一気に飲んだ。


「こんなうまいもの、一人で飲むのはもったいないだろ」


 美津子が戻ってきたときには、和彦が容器を抱えているところだった。二人は口では文句を言い合っていたが、互いを見る目は妙に親しげだった。美津子がふざけるなとたしなめても、和彦は彼女の腰に腕を回し、そのまま抱き寄せた。


 俺は声をかけず、倉庫を出た。


 前世では、美津子は俺と結婚したあとも和彦との関係を続け、俺の生活をめちゃくちゃにした。二人が最初からこういう仲だったのなら、今度は俺が間に入って隠してやる必要もない。


 その後、村の知り合いから、美津子と和彦のことを聞いた。二人の関係が周囲に知られ、沢渡家と田辺家の間で揉め事が続いたという。結局、両家は美津子と和彦を結婚させることにしたらしい。


 美津子は一度、俺のところへ謝りに来た。俺は、和彦と結婚するのは自分の意思なのかと尋ねた。彼女は少し黙ったあと、小さくうなずいた。


 それ以上、俺から言うことはなかった。



3



 佳苗の進学費用が、葉山家にとって頭の痛い問題になり始めた。


 彼女は、俺が前世と同じように大学を諦め、貯金を自分に譲ると思っていたらしい。ところが、俺は入学手続きを済ませてしまった。文江に頼るしかなくなった佳苗は、母に何とかしろとせっついていた。


 それでも、自分の立場を認める気はないようだった。佳苗は相変わらず新しいブラウスを着て集会所に顔を出し、近所の人たちに褒められては得意になっていた。最近では、都会のどの百貨店に行けば流行の服が買えるのかまで調べている。


 ある日の夕方、木材工場から帰ってくると、文江に居間へ呼びつけられた。


「修吾、佳苗がもうすぐ都会の学校に行くでしょう。学費がまだ全然足りないのよ。あんた、貯金が残っているんじゃないの? 少し出してやってちょうだい」


「俺の金は、もう大学の入学手続きに使ったよ」


 文江は一瞬、言葉を失った。それから机を叩いて立ち上がった。


「どうして全部自分のために使うの! 佳苗はあんたの妹なのよ。あの子が進学できなかったら、兄として何とも思わないの?」


 奥の部屋から佳苗が出てきて、机の上の大学の書類をひったくった。


「私を助けてくれるって言ったじゃない! 自分だけ大学へ行って、私を置いていくなんて、ひどいじゃない!」


「家の仕事を手伝うとは言った。でも、自分の将来を諦めるなんて、一度も約束していない」


 佳苗は怒って書類を机に投げ返した。文江は畳に座り込み、また泣き始めた。今までどれだけ苦労して子どもたちを育ててきたか、俺が言うことを聞かないのは親不孝だと、延々と責め立てる。


 俺は書類を拾い、部屋を出た。


 数日後、村の教育振興会が集会所で卒業生の送別会を開いた。進学を予定している若者たちが招かれ、佳苗も新しいブラウスを着て、早くから会場に来ていた。


 彼女は近所の人たちに、もうすぐ都会へ行くのだと話していた。兄が学費を出してくれることになった、とも。文江も隣で笑いながら礼を言い、すべてが決まったかのように振る舞っていた。


 松田先生も会場に来ていた。何人かの卒業生に祝いの言葉をかけたあと、俺の名前を出した。


「葉山修吾君は、千代篠大学の選考に合格しました。本人の努力が実を結んだことを、学校としてもうれしく思っています。大学でもしっかり学んでください」


 会場が静まり返った。


 佳苗の笑顔が凍りつき、文江もその場で固まった。さっきまで佳苗を囲んでいた近所の人たちが、一斉に俺のほうを振り返った。


「大学に合格したのは、佳苗ちゃんじゃなくて修吾君だったのか?」


 誰かがそう尋ねた。


 松田先生はそれ以上、余計なことは言わず、学校からの祝辞を俺に渡した。大学へ行く準備を進めるよう念を押し、村長もそばへ来て、これまでの努力をねぎらってくれた。


 佳苗は唇を噛み、しばらくしてようやく言い返した。


「大学に行くくらいで、何がそんなに偉いのよ!」


 文江は泣かなかった。ただ、俺を憎々しげに睨んでいた。


 翌日、俺は荷造りをして村を出る準備をした。包みの中に入れたのは、着替えが二組と本、それにわずかな旅費だけだった。持っていきたいものなど、ほかには何もなかった。


 家を出るとき、文江は庭先に立ち、冷たい声で言った。


「都会に行って出世したからって、家族を忘れるんじゃないよ。妹が二人もいるんだからね」


 俺は包みを肩に掛けた。


「自分のことは自分で何とかするよ。家のことは、これから自分たちで相談してくれ」


 そう言って、門を出た。


 村の入り口には、駅まで送ってくれる近所の人の古い車が停まっていた。道端には見送りに来た人たちが立ち、何人かの子どもが車を追いかけてきた。


 車窓から、見慣れた田畑や家並みが遠ざかっていく。あの大きなケヤキの木が見えなくなってから、俺はようやく、ずっと握りしめていた包みから手を離した。



4



 大学の寮は、思っていたよりも広かった。一部屋に四人が暮らし、それぞれに鉄製のベッドと鍵のかかる小さな棚がある。寮の管理人から新しい布団を渡されたとき、俺は何と礼を言えばいいのか分からなかった。


 これまで物置で寝たこともあれば、農繁期に仮設の小屋で夜を明かしたこともある。自分だけの寝床でゆっくり眠れると思うと、かえって落ち着かなかった。


 同室の大沢誠は、北の地方から来た気さくな青年だった。俺が食堂の白いご飯を前にぼんやりしていると、自分のパンをこちらへ押しやった。


「食べろよ。寮の食事だけじゃ足りないのか? 腹が減ってるなら、あとで何か買いに行こうぜ」


 俺は礼を言い、少しずつ大学生活に慣れていった。昼は授業を受け、夜は図書館で勉強する。空いた時間には先生の資料整理を手伝い、週末にはアルバイトをして生活費を補った。


 授業が終わると、俺はよく菜穂の働く紡績工場へ足を運んだ。


 菜穂は採用試験に合格し、紺色の作業着を着て工場で働いていた。最初のころは機械に指をこすって傷を作ることもあったが、仕事を覚えるにつれ、職長から一部の機械を任されるようになった。


 俺たちは工場の裏にあるベンチで、安いおかずを一つ買って分け合った。菜穂は、その日、誰が職長に褒められたか、誰が操作を間違えて叱られたかを話してくれる。俺も大学であったことを聞かせた。


 ある日、菜穂は絆創膏を巻いた指を掲げ、嬉しそうに笑った。


「職長さんがね、もう少し練習したら、一台の機械を任せてもいいって言ってくれたの」


 俺は彼女の手を取り、傷をそっと確かめた。


「痛くないのか?」


「もう平気。それより修吾、またちゃんと食べてないでしょ。顔が痩せてるよ」


 菜穂は布袋からおにぎりを二つ取り出し、俺の手に押しつけた。俺が食べているあいだ、彼女は隣で楽しそうに笑っていた。その姿を見ていると、ようやく心が落ち着く気がした。


 葉山家を離れれば、菜穂と二人で穏やかな暮らしを始められる。そう思い始めたころだった。入学から一か月も経たないうちに、文江と佳苗が大学まで押しかけてきた。


 その日、寮の建物を出ると、木の下から文江の怒鳴り声が聞こえた。


「修吾! この親不孝者!」


 文江は古びた上着を着て、髪までわざと乱していた。佳苗も継ぎはぎの服に着替えている。二人は俺を見るなり、家では食べるものにも困っていると泣きついてきた。


 通りかかった学生たちが、次々に足を止めた。


「お前は学校でいいものを食べてるくせに、私たちは家で飢えてるんだよ! それでも息子なのかい?」


 文江は泣きながら膝を叩き、佳苗も顔を覆って、家では何日も火を使っていないと言った。


 俺が返事をする前に、松田先生が校舎のほうから歩いてきた。学校に用事があって来ていたらしく、騒ぎを聞いて様子を見に来たのだ。


「葉山さん、まずは落ち着いてください。修吾君は入学前から家の事情を話してくれていました。学費も生活費も、ほとんど自分で働いて貯めたお金で賄っています」


 文江は一瞬ひるんだが、すぐに言い返した。苦労して息子を育てたのに、大学に入った途端、家族を見捨てるのかと。


 松田先生は文江を見たあと、佳苗にも目を向けた。


「本当に生活に困っているのなら、なぜ娘さんは銀の腕輪を買えるんですか? 修吾君は学校で節約しているのに、わざわざここまで来て騒ぎを起こしても、何の解決にもなりませんよ」


 周囲の学生たちがざわつき始めた。佳苗の腕にある銀の腕輪に気づいた一人が、わざとみすぼらしい格好をして同情を引こうとしたのかと尋ねた。


 佳苗は慌てて袖を引っ張り、腕輪を隠した。文江も先ほどまでの勢いを失った。やがて学校の職員がやって来て、二人を校内から出すよう促した。用件があるなら、正式な手続きを通して連絡するようにと告げた。


 俺は松田先生に礼を言い、教室へ戻った。


 ところが、それから数日も経たないうちに、今度は守衛室から呼び出しがあった。来客が俺を待っているという。


 門まで行くと、村長が中年の夫婦と一緒に立っていた。男性は濃い色の背広を着て、厳しい面差しをしていた。女性は落ち着いた服装だったが、目元は赤く、古い写真を両手で握りしめていた。


 俺が近づくと、女性は一歩前へ出て、そっと俺の頬に触れた。


「修吾……」


 声が詰まり、それ以上は言葉にならないようだった。


 男性は深く息を吸い、俺に写真を差し出した。若い夫婦が赤ん坊を抱いている写真だった。赤ん坊は、青い模様の入った小さな和服を着ていた。


 その服には見覚えがあった。子どものころ、文江が家の奥の戸棚にしまっていた服だ。俺が葉山家に来たときに着ていたものだと聞かされていた。


 村長がうなずき、二人が長いあいだ行方の分からなくなった子どもを捜していたのだと説明した。


 男性は俺を見つめ、震える声で言った。


「修吾……私たちは、君の本当の両親かもしれない」



5



 実の両親かもしれない二人を前に、俺はすぐには言葉を返せなかった。


 二人は当時の養子縁組に関する記録や古い写真、いくつかの証明書類を持ってきていた。写真の赤ん坊は俺によく似ていて、服の模様も文江が保管していたものと一致していた。


 父親の名前は黒田宗一、母親は澄子という。十八年前、宗一が仕事で長く家を空けていたころ、澄子は生まれたばかりの息子を連れて親戚の家へ向かっていた。その途中、激しい雨で山崩れが起きた。


 混乱のなか、澄子は通りかかった村長に子どもを一時的に預け、安全な場所へ連れていってほしいと頼んだ。そして、自分ははぐれた親族を捜しに戻った。だが、落石で頭を強く打ち、長いあいだ意識を失った。目を覚ましたあとも記憶は曖昧で、自分に子どもがいたことは覚えていたものの、誰に預けたのかまでは思い出せなかったという。


 宗一は長年、妻と子どもの行方を捜していた。半年前、澄子がようやく薄峰町という地名を思い出したことで、二人は当時の記録を調べ直し、村長にたどり着いた。


 そのころ、子どものいなかった葉山家が養子を迎えたいと申し出た。文江の夫はまだ生きており、夫婦は結婚してから何年も子どもに恵まれていなかった。養子縁組の手続きが済み、俺は葉山家で育てられることになった。その数年後、文江は佳苗と千佳を産んだ。俺はずっと、自分も二人と同じように、葉山家に生まれた子どもなのだと思っていた。


 村長が保管していた古い記録には、俺が預けられた日付と、一時的に世話をした人物の名前が残っていた。その後の養子縁組の書類にも記録があり、宗一たちが持ってきた資料と照合できた。


 それでも、俺にはすぐに二人を親と呼ぶことができなかった。


 宗一はそのことを責めなかった。写真と書類を俺の前に置き、急いで答えを出す必要はないと言った。


「俺たちも、君がどんな暮らしをしてきたのか、まだ全部は知らない。いきなり親子だと言われても、困るだろう」


 澄子は目元を押さえ、何度もうなずいた。


「ただ、一度だけでも、あなたの顔を見て話したかったの。会えたからって、すぐに何かを求めるつもりはないわ」


 俺は写真をもう一度手に取った。赤ん坊の着ている服は、たしかに見覚えのあるものだった。だが、目の前の二人について知っていることは、名前と、長いあいだ俺を捜していたという話だけだ。


「少し時間をください。まだ、何をどう考えればいいのか分からないんです」


 宗一は静かにうなずいた。


「分かった。連絡先を置いていくよ。会いたくなったら、いつでも連絡してくれ」


 その日は、村長と二人が帰るのを門まで見送った。


 数日後、俺は大学の授業を終えてから、黒田家を訪ねた。行くと約束したわけではなかったが、あの写真のことが頭から離れなかった。二人がどんな暮らしをしていて、どんな人なのか、自分の目で確かめてみたかった。


 玄関を開けた澄子は、俺の顔を見るなり息を呑んだ。すぐに笑顔を作ったものの、何を言えばいいのか迷っている様子だった。


「来てくれたのね。寒かったでしょう。お茶を淹れるから、上がってちょうだい」


 居間には本棚と古い写真が並び、テーブルには温かいお茶が用意されていた。宗一は仕事から戻ったばかりらしく、背広を脱いでから俺の向かいに座った。澄子は隣でりんごの皮をむき、時折、俺の顔を確かめるように見ていた。


 最初、俺は大したことはなかったと答えていた。だが、育ての父が早くに亡くなったことや、十代のころから畑仕事をしていたことを話すうちに、少しずつ口が軽くなっていった。


 俺は手の付け根に残る傷を見せ、文江が大学進学を諦めさせようとしたこと、貯めた金を佳苗に渡すよう迫ったことも話した。


 澄子はそれを聞いて、目に涙を浮かべた。


「あなたは、あんなに勉強が好きだったのに……」


 言葉が続かず、澄子はりんごを置いた。宗一も、しばらく黙っていた。


「これからは、自分のために使う時間を大切にしなさい。せっかく大学に入ったんだ。勉強したかったことを、ちゃんと学んでほしい」


 俺はうなずいた。二人が俺の人生を代わりに決めようとしているわけではない。そのことが、少しずつ分かってきた。


 その夜、俺は初めて黒田家の夕食を一緒に食べた。澄子は何度もおかずを勧め、宗一は大学の授業や寮での暮らしについて尋ねた。特別なことは何もなかったが、帰るころには、また来てもいいかもしれないと思えた。


 翌日、俺はまとまった金を持って葉山家へ戻った。


 文江は居間の小さな腰掛けに座っていた。俺が入ってくると、最初は驚いたように目を見開き、すぐに手元の紙包みに視線を落とした。


「そのお金、私にくれるの?」


「老後の生活費だよ。これからは自分でやりくりしてほしい。もう、俺が戻ってきて何もかも引き受けることはないから」


 文江は何か言いかけたが、結局、口を閉じた。


 そこへ佳苗が奥の部屋から飛び出してきて、紙包みをひったくった。中身を見るなり、目を輝かせた。


「こんなにあるの? お兄ちゃん、どうして今まで出してくれなかったのよ!」


 文江は慌てて立ち上がり、取り返そうとした。


「それは私の老後のために、修吾がくれたお金だよ!」


 佳苗は身をかわし、紙包みを抱えたまま外へ駆け出した。


「お母さん、こんな田舎にいたって何にもならないわ! 都会へ行って商売を始めるの。大儲けしたら、迎えに来てあげるから!」


 文江は追いかけようとしたが、敷居につまずいて転んだ。その場に倒れ込み、戻っておいでと泣き叫ぶ。佳苗は振り返りもしなかった。


 俺は文江を起こして部屋へ連れていき、近所の人に、ときどき様子を見てほしいと頼んだ。


 帰ろうとしたとき、文江が俺の袖をつかんだ。


「もう、帰ってこないのかい?」


 俺はゆっくりと袖を抜いた。


「体に気をつけて」


 そう言い残し、葉山家を後にした。



6



 半年後、寮にいた俺のもとへ、見知らぬ番号から電話がかかってきた。


 千代篠市の旅館の支配人だという男性は、佳苗が旅館の屋上から転落したと告げた。病院に運ばれたものの、すでに息はなかったという。


 病院に駆けつけたとき、佳苗の遺体はすでに安置室へ移されていた。顔には濃い化粧が残り、手首には青黒い痣がいくつもあった。


 警察の話によると、佳苗は都会へ出てから、貿易関係の仕事をしているという男と知り合ったらしい。男は高級な店へ彼女を連れていき、服やアクセサリーを買い与えた。さらに、絶対に損をしない商売があると言って、金を出すよう勧めたのだという。


 佳苗は最初、迷っていた。しかし、男は何度も高級レストランに連れていき、値の張る贈り物をした。佳苗は文江への手紙に、頼りになる人脈ができた、これからはいい暮らしができると自慢していた。人に見下されたくない一心で、借金をしてまで新しい服やアクセサリーを買いそろえていたらしい。


 やがて、佳苗は文江から持ち出した金をすべて男に渡し、さらに高利の借金までした。金を受け取った男は姿を消し、残された住所も連絡先も偽物だった。


 返済を迫る人たちが何度も旅館を訪れたが、佳苗にはもう払える金がなかった。昔の知り合いに助けを求めても、借金を肩代わりしてくれる人はいなかった。支配人によれば、亡くなる数日前から、佳苗は部屋に閉じこもり、ほとんど誰とも話さなくなっていたという。


 葬儀は薄峰町の寺で営まれた。文江は遺影の前に座り込み、写真立てを胸に抱いて離そうとしなかった。


「あの子は、稼いだら私を都会へ連れていくって……そう言っていたのに。どうして、こんなことに……」


 声は次第に小さくなり、最後には嗚咽だけが残った。


 俺は本堂の外から、遺影の中で笑っている佳苗を見つめた。彼女は俺を何度も傷つけた。それでも、こうして亡くなってしまえば、どれだけ恨んでも何かが変わるわけではなかった。


 葬儀を終え、大学へ戻ってしばらくしたころ、千佳が俺を訪ねてきた。


 図書館の入り口で、彼女は落ち着かない様子で服の裾を握っていた。何度か口を開きかけてから、ようやく声を絞り出した。


「お兄ちゃん、お母さんの具合が悪いの。診療所の先生に、大きな病院で診てもらうように言われたんだけど……うちには、もうお金がなくて」


 子どものころ、高熱を出した俺を、文江が背負って山道を歩き、医者に連れていってくれたことがあった。その記憶は今も残っている。けれど、これまで彼女にされたことを、なかったことにするつもりもなかった。


 その夜、俺は宗一と澄子に相談した。


 澄子は俺の手を握り、助けてあげたいと思っているのかと静かに尋ねた。


「育ててもらった恩を、最後に返すだけだよ。でも、もうあの家に戻るつもりはない」


 宗一は無理に止めようとはしなかった。決めたのなら、必要なことをきちんと済ませてくればいいと言った。


 翌日、俺たちは車で薄峰町へ向かった。文江は布団に横たわり、咳き込んでまともに話すこともできない様子だった。俺が部屋に入ると、濁った目がかすかに輝き、乾いた唇が動いた。


 宗一が手配して病院で検査を受けさせると、肺の感染症がひどく、心臓にも問題が見つかった。入院して治療を受ける必要があるという。


 俺は入院の手続きを済ませ、治療費を支払った。澄子もときどき見舞いに来て、消化のよい食事や着替えを持っていった。文江は澄子を見るたび、どこか落ち着かない様子だった。


 三か月後、文江の容体はようやく安定した。


 退院の日、俺は薬と生活費を千佳に渡し、母にきちんと薬を飲ませること、具合が悪くなったらすぐ病院へ連れていくことを頼んだ。


 そのとき、文江が俺の袖をつかんだ。指先が小刻みに震えていた。


「修吾……悪かったね」


 俺は老いた母の顔を見つめた。かつて文江は、俺を家でいちばんよく働く人間として扱い、親子の情を持ち出しては、何度も自分の人生を諦めさせようとした。今になって謝られても、どう返事をすればいいのか分からなかった。


 俺はそっと、彼女の指をほどいた。


「体を大事にしてくれ」


 そう告げて、病院の入り口で待つ両親のもとへ歩いていった。


 その後、文江の記憶は少しずつ曖昧になっていった。千佳や近所の人の話では、夜が明ける前から杖をついて村の入り口まで歩き、あのケヤキの木の下に座って、俺が帰ってくるのを待つようになったという。


 若い男が通りかかると、身を乗り出して声をかけた。


「修吾、帰っておいで。お母さんが焼き芋を取っておいたよ」


 いたずら好きな子どもが返事をすると、文江は嬉しそうに飴を取り出す。ところが、近づいてきたのが俺ではないと分かると、顔を覆って泣き出したという。


 俺は一度だけ、こっそり様子を見に行ったことがある。


 遠くから見た文江の髪は真っ白になっていた。膝の上には、俺が子どものころに着ていた古い服が置かれ、彼女は音程の外れた子守歌を口ずさんでいた。俺は門の外で長いあいだ立ち尽くし、結局、近所の人に新しい薬といくらかの金を届けてもらった。


 帰り際、ケヤキの下から、かすれた声が聞こえた。


「修吾、帰っておいで。ご飯にしよう」



7



 千佳が嫁ぐ日、俺は新しい布団一式を人づてに届けた。


 彼女が嫁いだ相手は、隣村の農家の青年、石田鉄男だった。結婚式はささやかなものだったが、千佳は質素な着物を着て、照れくさそうに笑っていた。鉄男の家は裕福ではなかったものの、彼はよく働き、手先も器用な青年だった。


 結婚してしばらくしてから、俺は二人の家を訪ねた。


 庭には数羽の鶏がいて、軒下には薪がきれいに積まれていた。戸は古かったが、家の中は隅々まで片づいていた。


 千佳は庭で鶏に餌をまいていた。俺を見ると、笑顔で駆け寄ってきた。


「お兄ちゃん、見て! うちの鶏、最近はほとんど毎日卵を産むの。鉄男さんが、たくさん集まったら売れるって」


 彼女が手を差し出すと、以前は柔らかかった指に小さなタコができていた。鉄男は縁側に座って縄をなっていたが、俺に気づくと人懐こく笑い、お茶を勧めてくれた。


 昼食のあと、千佳は作業着のほころびを繕い始めた。鉄男は不器用な手つきで糸を整えながら、今日の畑仕事の話をしている。二人は家のことをあれこれ話し、ときどき言い合いもしていたが、どちらも本気で怒っているわけではなかった。


 帰り際、千佳が小さな声で言った。


「前は、家の仕事なんてお兄ちゃんがやって当たり前だと思ってた。でも、自分が嫁いでみたら、毎日やることがこんなに多いなんて知らなかった」


 彼女は少し恥ずかしそうに笑った。


「鉄男さんは優しい人だよ。お金はあまりないけど、二人で少しずつ貯めていけば、何とかなると思う」


 俺はうなずき、二人で仲良く暮らすように、困ったことがあれば相談してくれと伝えた。


 一方、美津子と和彦の結婚生活は、ひどいものだった。


 和彦は酒好きで、酔うと手当たり次第に物を投げた。美津子も気が強く、喧嘩になれば一歩も引かない。二人は家の中で激しく言い争い、近所の人たちも家の前を通るのを避けるようになったという。


 あるとき、和彦が美津子の髪をつかみ、水がめに頭をぶつけた。美津子は木槌を手に取り、和彦の肋骨に怪我を負わせた。二人は村の入り口まで怒鳴り合いながら出てきて、とうとう近所の人が警察に通報する騒ぎになったらしい。


「離婚してやる! 明日にでも手続きしてやるから!」


「できるものならやってみろ! お前の思いどおりになんかさせるか!」


 ところが翌朝には、和彦が足を引きずりながら水を運び、美津子が目を腫らして台所で飯を炊いている姿が目撃されたという。


 二人は、そんな喧嘩を繰り返しながら暮らしていた。


 薄峰町の知り合いから話を聞くことはあったが、俺はもう、よその家の揉め事として聞き流していた。


 大学を卒業した俺は、千代篠市にある建築設計事務所に就職した。


 採用通知が届いた日、菜穂は庭で洗濯をしていた。俺が封筒を持って駆け寄ると、彼女は濡れた手を何度もエプロンで拭いてから、そっと受け取った。


「本当なの? 技術者として働けるの?」


「うん。来月から出勤だよ」


 通知を読み終えた菜穂は、笑いながら目を潤ませた。


 俺たちはすでに結婚していて、新居は黒田家の近くに構えていた。引っ越しの日、宗一は職場の同僚たちに声をかけ、家具を運ぶのを手伝ってもらった。澄子は竹かごを抱えてきて、自家製の漬物や味噌、調味料を台所に並べてくれた。


「仕事が忙しいと、料理をする時間もないでしょう。ご飯に添えるだけでもいいから、食べてね」


 澄子はそう言いながら、菜穂の体を気遣ってくれた。


 それから間もなく、菜穂が妊娠した。


 妊娠七か月になると、澄子は思い切って俺たちの家に泊まり込み、菜穂の世話をするようになった。朝はよく眠れたかと尋ねてから献立を決め、夜には料理の本を開いて翌日の買い物を考えている。菜穂は申し訳なさそうにしていたが、澄子は息子の妻と孫の世話をするのが嬉しいのだと笑った。


 出産の日、宗一は分娩室の前を何度も行き来していた。普段、仕事で工事の進行を任されているときは落ち着いている人なのに、その日は看護師が通るたびに立ち上がっていた。


 赤ん坊の泣き声が聞こえたとき、宗一はようやく足を止めた。


 看護師が赤ん坊を抱いて出てくると、宗一は両手を伸ばした。指先が小さく震えていた。


「こんなに小さいのか……」


 澄子が笑いながら、ちゃんと頭を支えてあげてと声をかけた。宗一は何度もうなずき、孫を抱いたまま、なかなか手放そうとしなかった。


 それからというもの、宗一はよくベビーカーを押して近所を散歩した。澄子は水筒と予備の毛布を持って後ろを歩き、赤ん坊に風が当たらないよう、何度も声をかけていた。


 ある日、残業を終えて遅く帰宅すると、居間には小さな明かりだけがついていた。宗一はベビーベッドのそばで孫をあやし、澄子は台所で粥を煮ていた。菜穂はソファにもたれて眠っていて、膝の上には編みかけのセーターが置かれていた。


 俺はそっと近づき、彼女の肩に毛布を掛けた。


「おかえり……?」


「うん。寝てていいよ」


 菜穂は小さく笑い、また目を閉じた。


 居間に立ったまま、俺は台所から聞こえる水の音と、赤ん坊の寝息に耳を澄ませた。ふと、前世のあの冷たい夜がよみがえった。病院の廊下で死んでいった俺のそばには、手を差し伸べてくれる人が一人もいなかった。


 今は、家の戸を開ければ、家族が気を遣いながら話す声が聞こえる。



8



 息子が一歳の誕生日を迎えた日、宗一は写真館からカメラマンを呼び、家族写真を撮ることにした。


 澄子は宗一の隣に立ち、そっと肩に手を添えた。宗一は、片言を話し始めたばかりの孫を抱いている。俺は菜穂の隣に立ち、彼女の肩を抱いた。


 カメラマンが位置を調整し、こちらを見るように声をかけた。


 菜穂がそっと俺の手を握った。


 俺もその手を握り返し、カメラに向かって笑った。


 シャッターが切られる瞬間、息子が小さな手を伸ばし、宗一の襟をつかんだ。宗一は孫を見下ろし、澄子は笑いながら服を整えてやった。菜穂は俺のそばに寄り添い、幸せそうに目を細めていた。


 写真の中では、みんなが笑っていた。


 撮影を終えたあと、俺は写真館の窓辺に置かれた見本の写真を眺めていた。澄子が息子の帽子を直し、宗一が困ったように笑っている。菜穂は俺の隣で、息子が次にどんな顔をするかと楽しそうに話していた。


 俺はそっと、彼女の手を握った。


 前世の俺は、葉山家に縛られたまま一生を終えるのだと思っていた。母と妹たちのために働き、何もかも背負い、最後には自分の命さえ守れなかった。


 今は、家に帰れば菜穂がいる。息子の笑い声が聞こえ、宗一と澄子が遊びに来る日を楽しみにしている。


 俺は、もう一度その写真を見た。


 今度こそ、この暮らしを大切にしていこう。





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