束の間の平穏、忍び寄る影
木漏れ日が差し込む隠れ家のキッチンで、トントンと小気味良い包丁の音が響く。
エプロン姿のルミナが、鼻歌交じりに鍋で煮込むための野菜を刻んでいた。その横顔は穏やかで、地下牢に囚われていた時の痛々しさはもうどこにもない。
「……ルミナ、やっぱり私が代わろう。刃物は危険だ。万が一指先でも切ったらどうする」
「もう、リゼットさんったら大げさですよ。私、料理くらいできますから。それに、リゼットさんにずっと休んでいてもらいたいんです」
「だが、お前の白魚のような指に傷がつくくらいなら、私がこの大鎌で森の木々ごと野菜を微塵切りにした方が早い」
「大鎌でお料理しないでくださいっ! もう、本当に心配性なんだから……」
ふふっ、と鈴を転がすように笑うルミナ。
私は彼女の後ろからそっと両腕を回し、その小さな体を背中から抱きしめた。ルミナの肩が小さく跳ねるが、嫌がる素振りは見せない。むしろ、少し嬉しそうに私の腕に体重を預けてくれる。
「だって、お前が愛おしすぎるんだ。一秒でも目を離したら、消えてしまいそうで怖い」
「……消えたりしませんよ。私はここです。リゼットさんの、腕の中に」
ルミナは野菜を切る手を止め、振り返って私の頬にそっとキスをした。
ちゅっ、という可愛らしい音と、柔らかな唇の感触。
ドクンッ!! と、私の心臓が爆発しそうなほどの音を立てて跳ね上がる。顔が一瞬で沸騰したように熱くなり、私は大鎌を振り回す時よりもずっと慌てた様子で目を丸くした。
「る、るみ、な……!?」
「ふふふっ、リゼットさん、顔が真っ赤です。あんなに強いのに、こういうのは苦手なんですね」
いたずらっぽく笑う彼女の破壊力たるや、三千の軍勢の突撃よりも遥かに恐ろしい。私は完全にノックアウトされ、ただ彼女の温もりを強く抱きしめ返すことしかできなかった。
やがて完成した温かいスープを、二人でテーブルに向かい合って食べる。
これまでの私の人生において、食事とはただの『栄養補給』であり『作業』だった。味がついているかどうかも気にしたことはなかった。
だが、ルミナが作ってくれたこの不格好な野菜スープは、信じられないほど美味しい『味』がした。温かくて、優しくて、胸の奥がじんわりと満たされていく。
「おいしい……。こんなに美味しいものを食べたのは、初めてだ」
「本当ですか? よかったぁ……。これから毎日、私がリゼットさんに美味しいご飯を作りますね」
「毎日……」
その言葉の響きに、私は思わず目頭が熱くなるのを感じた。
明日があること。愛する人と、同じ食卓を囲めること。
そんな当たり前の幸せが、これほどまでに尊いものだったなんて。
「ああ。私も、毎日お前を守る。……いつか、誰も私たちを追ってこない遠くの街で、二人で静かに暮らそう」
「はいっ。私、リゼットさんと一緒なら、どこへでも行きます」
私たちは微笑み合い、束の間の平穏を心から噛み締めていた。
この甘く幸せな時間が、永遠に続けばいいのに。
神の存在など信じていない私だが、今だけは、運命というものに感謝したかった。
◆ ◆ ◆
だが、その裏で。
破滅の足音は、音もなく確実に私たちへと迫っていた。
隠れ家から数キロ離れた、森の深部。
私が張り巡らせていた何重もの『不可視の罠』——魔力で編まれた極細のワイヤーや、触れた瞬間に爆発する起爆符——が、次々と無効化されていた。
「……甘いな、リゼット」
黒い外套に身を包んだ『最凶の暗殺者』は、木々の間を滑るように進んでいた。
落ち葉を踏む音すらない。呼吸音すらない。まるで死神そのものが実体を持ったかのような、圧倒的な虚無。
「ワイヤーの配置は右下段に偏る癖がある。起爆符の魔力波長は、術式を逆算すれば容易に解除できる。……感情を知り、誰かを守ろうなどとふざけた真似をするから、罠の殺意に『迷い』が生じるのだ」
元上司は、私がルミナを守るために焦って仕掛けた罠のわずかな綻びを、完璧に見透かしていた。
教会の騎士団のような有象無象なら、一歩も進めずに全滅していたほどの極悪な罠だ。だが、私の思考回路のすべてを作り上げたこの人物にとっては、まるで子供の遊び場を歩くようなものだった。
「愛などという不純物が、私の最高傑作を腐らせたか。……ならば、その不純物を物理的に排除して、再び無垢な人形へと戻してやろう」
黒い外套が揺れる。
その直後、元上司の姿は陽炎のようにブレて――森の奥へと完全に消失した。
◆ ◆ ◆
「リゼットさん? どうしたんですか、急に立ち止まって」
食後の片付けを終え、二人で隠れ家の周囲を少しだけ散歩しようと外に出た時のことだった。
私は突然、足の裏から氷水を浴びせられたような、強烈な悪寒に襲われた。
なんだ、これは。
殺気? 違う。そんな生ぬるいものではない。
もっと根源的な、私が細胞レベルで刻み込まれている『恐怖』の感覚。
「……ルミナ、私の後ろに下がって。今すぐ」
「えっ……? リゼットさん?」
私の異常な声色に気づき、ルミナが慌てて私の背中に隠れる。
私は即座に銀の大鎌を構え、周囲の森を睨みつけた。
何も見えない。何も聞こえない。
だが、私の本能が、全身の毛穴が、限界まで警鐘を鳴らしている。
――来る。
あれが、来る。
私に命の奪い方を教え、私の心を殺し、私を化け物へと作り変えた張本人が。
シュッ……!!
音すらなかった。
気配すらなかった。
ただ、気づいた時には――一本の漆黒の短剣が、私の頬を掠め、背後の木に深々と突き刺さっていた。
「……っ!!」
私が反応できなかった?
三千の軍勢の矢の雨すら止まって見えたこの私が、たった一本の投擲を躱しきれなかったというのか。
「久しいな、私の出来損ないの娘。……少し目を離した隙に、ずいぶんと安い顔をするようになったじゃないか」
頭上から降ってきた、氷のように冷たく静かな声。
見上げると、陽の光を背にして、あの大樹の枝に黒い外套の人物が立っていた。
「……師匠……っ」
私は無意識のうちに、教会の人間など誰も呼ばないはずの、その古い呼称を口にしていた。
手にした大鎌の柄が、微かに震える。
怖い。私が殺されるからではない。
私の背中に隠れている、愛するルミナの命が、これ以上ないほど絶対的な死の危機に晒されていることに。
「さあ、おしおきの時間だ。……まずは、その後ろにいるゴミから掃除してやろう」
元上司が鞘から黒塗りの双剣を引き抜いた瞬間、周囲の空気が凍りついたように冷たくなった。




