不器用な看病と、甘い夜
三千の軍勢を正面から粉砕した時でさえ、私の呼吸は一つたりとも乱れなかった。
だが今、鬱蒼とした森の奥深くにある隠れ家に辿り着いた私の息は、酷く乱れ、心臓は早鐘のように打ち鳴らされている。
「ルミナ、しっかりして……! ルミナ!」
腕の中でぐったりとしているルミナを、私は隠れ家の木製ベッドにそっと寝かせた。
彼女の白い肌は異常なほどの熱を帯び、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。連日の酷い尋問と、劣悪な地下牢での生活。そして今日の処刑という極限状態。彼女の華奢な体が、とうの昔に限界を迎えていたことは想像に難くない。
ルミナは他人の傷を治す『奇跡』を使えるが、自分自身を癒すことはできないようだった。
「どうすれば……っ。傷を、熱を治すには……」
教会の暗殺者として、人間の命を奪う方法なら数え切れないほど知っている。どう斬れば最も早く血が抜けるか、どこを突けば一瞬で絶命させられるか。
だが、命を『救う』方法は何も知らない。
私は震える手で、近くの泉から冷たい水を汲んできた。
清潔な布を水に浸して固く絞り、ルミナの熱い額にそっと乗せる。そして、彼女の体にこびりついた地下牢の泥や汚れを、別の布で優しく、壊れ物を扱うように丁寧に拭い去っていく。
手首や足首に赤黒く残る鎖の痕。背中に刻まれた痛々しい打撲の痕。
それを見るたびに、胸の奥がギリギリと締め付けられ、教会の連中を一人残らずミンチにしておけばよかったという凶悪な後悔が首をもたげる。
「ごめんね、ルミナ……。私には、こんなことしかできない」
今まで数千の命を刈り取ってきた血塗られた自分の手が、酷く呪わしく思えた。
私は祈るように、ルミナの小さな両手を両手で包み込み、自分の額に押し当てた。異端審問官として「教義としての無感情な祈り」は毎日作業のようにやってきたけど、「心の底からすがるような祈り」をしたのは初めてだった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
外の空気が夜の冷気を帯び始めた頃。
「……ん……リゼット、さん……?」
微かな声と共に、ルミナの黄金の瞳がゆっくりと開かれた。
「ルミナ……! 気がついたの!?」
「あ、れ……? 私……」
ルミナはぼんやりと周囲を見渡し、それから、自分の手をしっかりと握りしめている私の顔を見て、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「ここは……森の中の、お家ですか? ……ふふ、リゼットさん、そんなに泣きそうな顔をして……どうしたんですか?」
「なっ……! な、泣いてなんか……!」
慌てて顔を背けようとしたが、ルミナの細い指先が私の頬にそっと触れ、それを許さなかった。彼女の体温は、先ほどまでの危険な高熱から幾分か下がっているようだった。
「ごめんなさい、私……安心したら、なんだか気が抜けちゃって……」
「謝るのは私の方だ。お前の限界に気づいてやれなかった。……死神だなんだと言われても、結局私は、愛するお前一人を完璧に看病することもできない、不器用な道具だ」
自嘲気味に呟いた私に、ルミナは首を横に振った。
「そんなこと、言わないでください。……だって、冷たいお水で顔を拭いてくれたのも、ずっと私の手を握っていてくれたのも、リゼットさんでしょう?」
「それは……」
「すごく、気持ちよかったです。あなたの手は……私にとっては、こんなに温かくて、優しい手です」
ルミナはそう言って、私が包み込んでいた手を逆に握り返してきた。
……ダメだ。これ以上、この純粋な瞳で見つめられたら、私の中の何かが完全に壊れてしまう。
いや、もうとっくに壊れているのだ。
「……お前は、本当にどうしようもないお人好しだな」
私は観念したように息を吐き、ルミナの銀色の髪をそっと撫でた。
絹糸のように滑らかな髪。これからはもう、誰にも汚させない。
「ルミナ。……これからは、私が全部やる」
「え?」
「お前はもう、誰かのために無理をして奇跡を使う必要はない。痛い思いも、辛い思いもさせない。……私が、お前を甘やかして、守り抜く」
まるでプロポーズのような私の言葉に、ルミナは目を丸くした後、頬をふわりと桜色に染めた。
「そ、そんなに甘やかされたら……私、駄目な人間になっちゃいますよ……?」
「それでいい。むしろ、私なしじゃ生きられないくらい駄目になればいい。お前の一生分、私が全部養ってやるから」
一切の冗談を交えずに真顔でそう言い切ると、ルミナは困ったように、でも凄く嬉しそうに「ふふっ」と笑い声を漏らした。
「……リゼットさんって、凄く強くてかっこいいのに……時々、子どもみたいに真っ直ぐですね」
「お前の前でだけだ。……まだ熱がある。もう少し、寝ていなさい」
私はそう言って、ベッドの端に腰を下ろした。
すると、ルミナは布団の端を少しだけめくり、隣のスペースをポンポンと叩いた。
「リゼットさんも……一緒に、どうですか? ずっと、休んでいないでしょう?」
「っ……! ば、馬鹿なことを言うな。私はこのまま、朝まで見張りを――」
「私が、不安なんです。……リゼットさんが隣にいてくれないと、また、あの暗い牢獄の夢を……見そうで」
そんなふうに、潤んだ瞳で上目遣いをされて。
断れるわけが、なかった。
「……少しだけだぞ」
私は降参してブーツを脱ぎ、ルミナの隣へそっと横たわった。
細く華奢な体を傷つけないように、背中から優しく抱きしめる。ルミナの銀髪から香る甘い匂いと、心地よい温もりが、私の張り詰めていた神経をゆっくりと解きほぐしていく。
「おやすみなさい、私の騎士様」
「……おやすみ、私の光」
ルミナの穏やかな寝息を聞きながら、私もまた、生涯で初めての深く安らかな眠りへと落ちていった。
◆ ◆ ◆
――だが、その平和な時間は、長くは続かなかった。
夜が明け始めた頃。
私が隠れ家の周囲に張り巡らせていた『感知の糸』が、何者かによって乱暴に断ち切られる感覚に、私はハッと目を覚ました。
教会の追手か?
いや、大軍勢が森を進むような気配はない。たった数人の、だが異様に自己主張の激しい、隠す気など微塵もない傲慢な足音が近づいてくる。
私は隣で眠るルミナを起こさないよう、静かにベッドを抜け出した。
「……まったく、無粋な客だ」
銀の大鎌を手に取り、私は殺気を纏って隠れ家の扉を押し開けた。




