死神と聖女のスローライフ
木漏れ日が差し込む、森の奥深くの隠れ家。
いや、私が周囲の木を大鎌で伐採して増築に増築を重ねたここは、もはや立派な『我が家』と呼ぶべき場所になっていた。
朝の澄んだ空気が満ちる寝室で、私は隣で規則正しい寝息を立てる少女の寝顔を、ただ静かに見つめていた。
月明かりを溶かしたような銀色の髪。長く美しいまつ毛。
世界を揺るがした教皇との決戦から、数ヶ月。異端審問が廃止され、狂った教会が解体された今、彼女の純白の肌にはもう、あの痛々しい拷問の痕はない。
「ん……リゼット、さん……?」
ふわりと、黄金の瞳が開かれる。
寝起きのトロンとした目で私を見つめ、ルミナはえへへと無防備な笑顔を浮かべて、私の胸にすり寄ってきた。
「おはよう、私の光。……今日も世界で一番可愛いよ」
「んふふっ、おはようございます……。もう、朝から大げさなんですから」
私は彼女の腰を引き寄せ、その柔らかな唇に、挨拶代わりのキスを落とした。
ちゅっ、という甘い音が響く。大勢の観衆の前で彼女から唇を奪われたあの決戦の日から、私たちは事あるごとにこうして互いの温もりを確かめ合うようになっていた。
「大げさなものか。お前が愛おしすぎて、私の心臓は毎日破裂しそうなんだからな。……このままベッドから一歩も出ずに、一日中抱きしめていたい」
「だーめです。今日はフローゼルさんから頼まれていた『お仕事』の日でしょう? 私、美味しい朝ご飯を作りますから、ちゃんと起きてくださいね」
ルミナは私の鼻先をツンと小突くと、ベッドから抜け出してキッチンへと向かっていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は深く、幸せなため息をついた。
◆ ◆ ◆
「行ってきます、ルミナ。すぐ戻るから」
「はいっ、お気をつけて! 帰ってきたら、一緒にお茶にしましょうね」
ルミナ手作りの絶品シチューで腹を満たした私は、銀の大鎌を肩に担ぎ、我が家を出発した。
目指すは、森の入り口付近。
現在、王都で教会の再建と治安維持に奔走しているフローゼルから、「王都周辺に棲み着いた凶悪な魔獣の討伐」という依頼が届いていたのだ。
森を抜け、指定された岩場に到着すると、そこには体長十メートルを超える巨大な双頭の魔竜が陣取っていた。鋼鉄の鱗を持ち、口からは灼熱の炎を吐く、軍隊が一個大隊で挑んでようやく倒せるかどうかの厄災クラスの魔物だ。
『グルルルォォォォォォッ!!』
私を見るなり、魔竜は鼓膜が破れそうな咆哮を上げ、巨大な爪を振り下ろしてきた。
「うるさいな。愛する妻とのお茶の時間が迫ってるんだ、一秒で終わらせるぞ」
私はあくびを噛み殺しながら、大鎌を無造作に一振りした。
――ズバァァァァァァァンッ!!
大気を切り裂く白銀の閃刃。
ただそれだけで、魔竜の巨体は両断され、断末魔を上げる暇もなく轟音と共に地面に崩れ落ちた。教皇の絶望的な暴力に比べれば、ただのトカゲ同然だ。
「よし、これで終わり。……ん?」
討伐の証として魔竜の牙をへし折ろうとした時、私は風に乗って微かに漂ってきた『血の匂い』に気づいた。
匂いの元は、私が住む森の境界線。
一瞬、心臓が跳ね上がった。ルミナに危険が!?
私は超高速の縮地で森の境界へと駆け戻った。
だが、そこにあったのは、凄惨な死体の山だった。
武装した十数人の男たち。身なりからして、教皇を盲信していた狂信者の残党だろう。彼らは私たちの隠れ家を突き止め、復讐を果たそうと森へ侵入しようとしたに違いない。
しかし、彼らは皆、森へ一歩足を踏み入れる前に、首の骨を綺麗に折られるか、急所を的確に貫かれて絶命していた。
戦いの痕跡すらない、完璧で、一切の無駄を省いた『暗殺』の芸術。
その手口は、私が痛いほどよく知っているものだった。
「……相変わらず、過保護な『お父さん』だ」
私は張り詰めていた肩の力を抜き、木々の影に向かって小さく笑いかけた。
あの日、川の底へ消える前に師匠が残した言葉が脳裏に蘇る。
姿こそ見せないが、彼はこうして裏の世界から、愛する『娘』の平穏を脅かすゴミどもを黙々と掃除し続けているのだ。
親離れ、子離れにはもう少し時間がかかりそうだが、その歪で不器用な愛情が、今の私には少しだけ心地よかった。
「ありがとう。……でも、私のルミナに近づいたら、次は容赦しないからな」
私は見えない影に向かってそう言い残し、足取りも軽く我が家への帰路についた。
◆ ◆ ◆
「おかえりなさい、リゼットさん!」
私が小屋の扉を開けると、エプロン姿のルミナが満面の笑みで飛びついてきた。
全身を包み込む、日向のような甘い匂い。私が一番帰りたかった場所が、ここにある。
「ただいま、ルミナ。ほら、言った通り一瞬で終わらせてきたぞ」
「ふふっ、さすが私の最強の騎士様ですね! さあ、紅茶とお茶菓子の準備ができてますよ。今日は奮発して、王都で買ったイチゴのタルトです!」
暖炉の火がパチパチと爆ぜる音を聞きながら、二人でテーブルに向かい合う。
ルミナの淹れてくれた紅茶は、信じられないくらい温かくて、甘かった。
かつて、感情を持たない機械として生きていた私。血と鉄の匂いしか知らなかったこの手に、こんなにも穏やかで優しい時間が訪れるなんて、夢にも思っていなかった。
「リゼットさん? どうしたんですか、私の方をじっと見つめて……顔にクリームでもついてますか?」
「いや……ただ、お前が綺麗だなと思って」
「も、もう! また急にそういうこと言うんですから……っ」
真っ赤になって両手で顔を覆うルミナが可愛くて、私は立ち上がり、彼女の隣の席へと移動した。
そして、その華奢な体を、壊れ物を扱うようにそっと抱き寄せる。
「ルミナ。……私は、神なんて信じていない」
「え……?」
「でも、もし本当にこの世界に神様がいるのだとしたら。私に『ルミナ』という光を与えてくれたことだけは、感謝してもいいと思っている」
私はルミナの銀髪を撫で、その黄金の瞳を真っ直ぐに見つめた。
彼女の瞳の中に、愛おしそうな顔をした私が映っている。
「愛してるよ、ルミナ。この命が尽きるまで、いや、魂だけになっても……お前をずっと、守り続ける」
「……はい。私も、愛しています。永遠に、リゼットさんの側で」
ルミナは私の首に腕を回し、背伸びをして――迷うことなく、あの日のように私の唇を塞いだ。
ちゅっ、と触れるだけのキスでは終わらない。
互いの体温を分け合うように、何度も角度を変え、深く、熱く、甘い吐息が混ざり合う。甘美な水音だけが、静かな部屋に響いていた。
「んっ……ふぁ……、リゼッ、とさん……っ」
息が続かなくなり、名残惜しそうに唇を離す。
ルミナの黄金の瞳はトロンと潤み、その白い頬は、窓の外の夕陽よりも熱く、赤く染まりきっていた。
私の胸に顔を埋めた彼女は、逃げるどころか、ギュッと私の服の裾を強く握りしめてきて――。
「……っ。優しく、してくださいね……私の、騎士様」
とろけるような上目遣いで、小さく、こくりと頷いた。
……だめだ、理性が吹き飛ぶ。これ以上、この破壊力抜群の聖女様にお預けを食らうなんて、どんな拷問より耐えられない。
私は彼女の甘い匂いに酔いしれながら、足早に寝室へと向かった。
窓の外では、森をオレンジ色に染めていた夕陽がゆっくりと沈み、二人きりの甘く濃厚な『夜』が訪れようとしている。
最強の死神と、心優しき聖女。
私たちの甘くて尊いスローライフは、まだ始まったばかりだ。




