表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

バットエンド〜メリーバッドエンド系

押したら人が死ぬスイッチ

作者: 紅茶
掲載日:2026/03/27

 変な女から、妙なスイッチをもらった。

 押せば僕のことが嫌いな人間が死ぬらしい。

 そんなことを、信じるわけがないだろう。

 妙な奴に絡まれたと僕は思ったのだけれど、その女が、「デモンストレーションだ」と言って、僕にスイッチを押させると——

 次の日、僕の幼馴染が死んだ。

「そんな話、本当に信じているのかい?」

 昨日起こった出来事をクラスメイトの有吉に話したら、そんな返事が返ってきた。

 信じているというより、実際に起こってしまったことだから、事実として受け止めるしかない。

「君の幼馴染は昨日死んで、はん、それじゃあ、お葬式はいつなんだい?」

 そいつは肩をすくめ、呆れたように言う。

 葬式は今日。

 海の方にある葬儀場だ。

「なんだそりゃ。昨日スイッチを貰って、今日死んだはずなんだろ? 昨日死んで、今日が葬式? 時系列がおかしいじゃないか」

 有吉の指摘はごもっとも。

 しかし僕は、そうとしか話せない。

 確かに僕は、昨日スイッチを貰って、そのスイッチを押したら、次の日に幼馴染が死んでいたのだ。

 葬式にも僕は出た。

 涙声で、彼女の両親が後悔を口にしていた。

 僕ら同級生も、口々に彼女の思い出を語り涙した。

 彼女の親友の吉田さんなんか目も当てられないほど乱れてしまって、会場から引っ張り出されたほどなんだから。

 そしてそれが、昨日のこと。

 そのあと僕は、その日を一日過ごして、今日になっていたのだ。

「はん」と有吉が鼻で笑う。

 まるっきり信じていない、といった様子。

 僕だって気持ちはわかる。

 同じ話を聞かされたとして、僕はきっと冗談だと茶化すだろう。

 そして僕みたいに、食い下がって「本当だ!」なんて騒いだら、きっと僕なら頭の具合を心配するはず。

 ちょっと怖くなって、これからの友達付き合いを考えなおすことだろう。

 その点でいえば、有吉はかなり親切な人間と言えなくもない。

 僕が話す、とっぴな話を、馬鹿にしながらではあるが聞いていてくれるのだから。

「君の話を総合すると、こういうことになる」

 そう言って、有吉は勝手に話をまとめだした。

「可能性として、三つの仮説が組み立てられる」

 そうして人差し指を、突き立てる。

「一つ。君が頭がおかしくなって、全部妄想」

 それじゃあ話が終わるだろう。

 僕が文句を言うと、再び「はん」と鼻で笑う。

「二つ。君が言っていることが本当に、夢を見ていた」

 人差し指と中指を突き立てる。

「ぶっちゃけこれが、一番現実的だろうな」

 それじゃあ僕が、まるで夢と現実の区別がつかない、やばい奴みたいじゃないか。

 すると有吉が、真剣な目つきで僕を見据える。

「実際、ありえない話じゃあない。非常に現実感の強い夢を見て混乱することを、睡眠酩酊というんだ。とある医学専門誌の研究では、7人に1人が経験したことがあるらしい」

 7人に1人?

 まぁ人生のうちに、と考えれば、別に多くはないのか。僕にも経験があるし。

「その経験した人のうち、1年に1度以上経験する人が15%。1週間に1度以上経験する人が、5%いるそうだ。つまりこれは、誰にだって起こり得ることだと言える。ところで君は、夢と現実をどこで区別している?」

 夢と現実の区別?

 区別なんてつけていないが。

「そう。大抵の人は、君と同じで、区別なんてつけていない。しかし夢を見た、という記憶は残るだろ?」

 まぁ、そうだな。

「そのとき、夢と現実の境はどこにある? 君は夢と現実の境はどこにある?」

 いや、境も何も、そもそも夢なんて、目が覚めてちょっとしたら忘れてしまう。

「そう、まさにその通りだ。期待通りの答えをしてくれて、本当君とは話しやすいよ」

 有吉の口角が上がる。

 なんでか知らんが褒められた。まぁ何だっていい。さっさと結論を言ってくれ。

「まぁそう慌てないでくれ。物事にはなんでも順番がある。つまり夢と現実の区別なんてものは、そもそも誰も、つけていない。なぜか。それはそもそも、夢なんてすぐに忘れてしまうからだ。ということはだよ。逆に考えれば、どうして夢と現実の区別がつかなくなるか、見えてこないか?」

 ……つまり、夢を忘れずに覚えてしまうと、区別がつかなくなるということか?

「そう。その通りだ。そしてそのような問題が起こる原因というのも、一応解明されている。睡眠時に中途半端に目が覚めてしまうと、夢の内容を覚えてしまう、ということが起きてしまうと言われている。『寝ているのに目が覚める状態』とも言い換えられる。これを『中途覚醒』という」

 中途覚醒。

 寝ているのに目が覚めるとは、なんだか矛盾している気がするが、要は寝ぼけているってことか。

「まぁそういう認識で構わない。そしてこの現象は、加齢によって起こるし、一番多いのは睡眠時無呼吸症候群によるものだ。加齢はまぁないにしても、君、いびきとか酷くないか?」

 いびきか。

 寝ている間のことは分からないが、誰かに注意されたこともないから、恐らくないと思うが。

「なら最近強いストレスを感じたりとか」

 ストレスなら、このスイッチを貰ったことか。

 僕は有吉にスイッチを示す。

 有吉は三度「はん」と鼻で笑った。

「最後の一つは、一番現実的じゃあない話だ」

 有吉が、肩をすくめて話を続ける。

「君の話は本当で、君が体験した出来事も真実。ありえない話だけどな」

 ちょっと待て。じゃあ僕が、頭がおかしくなっている方が、現実的だっていうのかよ。

 しかし有吉は、僕のクレームを無視して話を続ける。

「この場合に考えるべきは、君が言う、スイッチをくれた『変な女』の言葉に注目しよう」

 女の言葉? なんて言っていたか……。

「その女は、『デモンストレーションだ』と言ったのだろう? つまり、そういうことだ。デモンストレーション、つまり君にスイッチの力を信じ込ませるために、『変な女』が超常的な力を使ったのだろう。押すだけで人を殺せるスイッチを持っているくらいだ。時間を操るくらいの力はあるだろう」

 なるほど。

「君はスイッチを押して、確かに『幼馴染の死』、『幼馴染が死んだ日』と『幼馴染の葬式』を経験した。しかしそれはあくまでも『デモンストレーション』。『変な女』が時間を戻して、スイッチを押す前の段階に戻した」

 ふむ。

 確かに有吉の言うことは論理だっていて、納得してしまう。

 しかし少し、疑問点がある。

「なんだい。『押すだけで人が殺せるスイッチ』なんて、いくらでもあるって話か?」

 押すと結果的に人が死ぬスイッチならいくつかあるだろう。だがそうじゃない。

 確かに昨日、変な女にあってスイッチを貰ったが、貰ったのは、僕の時系列順でいえば、今日の放課後なのだ。

 便宜的に、寝て起きる前の日だから、昨日と表現したが、実際、僕がスイッチを貰った日付は今日。

 つまり時間をさかのぼるにしても、僕は『変な女』に出会う前に、スイッチを持ってしまっていることになる。

「…………」

 有吉が黙る。

「ちょっと待ってくれ、少しややこしい。順を追って、君の体験した順番に、話してくれないか」

 有吉が真面目な顔になる。

 僕はその顔に答えるべく、箇条書きにして、順番に説明することにした。

①僕は変な女から、スイッチをもらった。今日の放課後だった

②家に帰って、スイッチを押した

③次の日、僕の幼馴染が死んでいた

④その日が、彼女の葬式だった 

⑤その日の夜、僕は寝た

⑥今日が始まった。学校に来たら、幼馴染は生きていて、みんな普段通りだった

⑦君に相談した。今に至る

 有吉は眉間に皺を寄せ、考え込んだような顔をしている。

 僕は、彼が何を考えているのかを推し量ろうとしたが、できなかった。

 しばらくして、彼が口を開く。

「……なるほど、面白い」

 ようやく口を開いたかと思えば、その感想。

 面白がってくれるのは構わないが、これ、僕の大事な問題なのだ。

「この話の面白さは、君の言うことが本当だと仮定すると、因果関係が逆転してしまうところにある」

 因果関係?

「君がスイッチを手に入れたのは、今日の放課後なんだろう? でも、君はそのスイッチを、昨日の時点で手に入れていたことになっている。そして、そのスイッチのせいで、昨日、幼馴染が死んだことになっている。つまり、君がまだスイッチを手に入れる前に、スイッチによる出来事が発生してしまっているんだ」

 それってつまり……。

「時系列が矛盾してるってことさ。未来で手に入れたスイッチの効果が、過去に影響を与えている」

 タイムパラドックスみたいなものか。

「いや、もっとややこしい。タイムパラドックスってのは、過去を変えてしまうことによって、未来が成立しなくなるような矛盾だが、今の君の話は、過去と未来の境界が曖昧になってしまっている。例えるなら……そうだな、未来から過去へ向かって川が流れてるみたいな感じだ」

 意味がわからん。

「わからなくて当然さ。こんなの、現実じゃ起こりえないことだからな。だけど、だからこそ、君の話は興味深い」

 興味深いで済ませないでくれ。僕は本気で困っているんだ。

「まぁまぁ。君が嘘をついていない前提で話すなら、一つだけ言えることがある」

 なんだ?

「君は、時の牢獄に入れられている」

 ……は?

「そのスイッチは、単に人を殺すためのものじゃない。君の時間を、世界の時間と切り離す、そんな力があるんだろう。だから君は、他の誰とも異なる時間を生きている。君が経験した昨日は、他の人にとってはまだ訪れていないか、そもそも存在しない日だ」

 そんな馬鹿な——。

「でも、説明がつかないだろう? この奇妙な出来事に」

 ……確かに。

「なら、信じるしかないさ。君がそのスイッチを使ってしまった以上、もう、君は普通の世界には戻れないんだよ」

 普通の世界には……戻れない?

「そうさ。君がスイッチを押した瞬間に、もう元の世界とは違う場所に来てしまった。君だけの時間、君だけの現実を歩き始めてしまったんだ」

 僕は、ただスイッチを押しただけなのに——

「君は選んだんだ。そのスイッチを押すという選択を」

「いや、でも」

 僕は絶句した。

 真面目に語る有吉の、真剣な口調に、その言葉一つひとつに表れる確かな説得力に、僕は何も言えなくなってしまった。

「ふ、ふくくく⋯はははははっ!」

 なんだ有吉。

 どうしてそんな、悪の親玉みたいな笑い声をあげるんだ?

「あははっ、いやなに、悪いね。君があまりにも真剣な顔つきになったものだからね。おいおいどうした? 本気の本気で信じたのか? 今の話を? しっかりしてくれたまえよ。大丈夫か?」

 まさか、冗談のつもりか?

「つもりも何も、冗談だろう? 最初に仕掛けたのは君の方じゃないか。なかなか楽しめたよ。毎日がこれくらい有意義な日常だったら、申し分ないのだがね」

「⋯⋯」

 どうやら有吉は、僕の話を真剣に捉えてはいなかったらしい。真剣に聞いて、真剣に考え、真剣に答えを出してはくれたけれど、それはあくまでも、ある種の『ごっこ遊び』のようなもので、不思議な体験をしたのだと、それが『本当』なのだと、思うことにして、話をしてくれたのだ。

 つまるところ、ロールプレイである。

 であれば、万雷の拍手を送りたい。名演であった。

 僕はすっかり肩の力が抜けてしまい、気落ちしてしまった。

 いや仕方のないことだ。この件で有吉を責めるべきではない。

 そう、仕方のないことだ。

 一体誰が、こんな話を真実であると信じるのだろうか。

 仮に友達が、『タイムスリップした』と話していたら、『バカ言ってんじゃねぇ』と一笑に付すのが、寧ろ礼儀と言えるだろう。

 何なら有吉の態度は誠実ですらある。冗談であると考えながらも、自分の思考を騙して、本当のこととして答えてくれたのだから。

 仕方ない。

 これはもう、『やっぱりバレた?』と戯けてやって、この話を終わりにするのがベストだろう。

 この問題は一人で抱えて、関係のない有吉を巻き込んで無用なストレスを与えるくらいなら、僕が抱えて、できる限りで僕なりの解決を目指すのが正道である。

 そうと決まれば、さっさと種明かしをしてしまう。

 『もちろん冗談だよ』と言ってやれば、有吉は鼻で笑って前を向き、8分後に始まる授業に集中することができるだろう⋯⋯などと自分なりの折り合いをつけ始めたとき、僕の中に一つのアイディアが湧き上がった。

 どうして思いつかなかったのだろう。

 タイムスリップ?

 タイムリープ?

 どちらでも構わないが、時を遡っているのなら、その証拠は簡単に示せるし、なんなら逆に僕の気が狂っている証明だってできるじゃないか。

「有吉」

「はん?」

 僕は、半笑いを浮かべて僕を見つめる有吉に、宣言した。

「示せるぞ」

「何を?」

「予言する」

 そして僕は、箇条書きにして9つの出来事を紙に書いた。

 それは、有吉からすれば全く未知の出来事で、僕からすれば先日体験したばかりの既知の出来事。

 今日、これからこの学校で起きる出来事を、僕が予言してやればよいのだ。

「まず、あと5分でHRだけど、田中先生は来ない」

「来ない? はん、まぁいい。せっかくだから付き合ってやるよ。彼女が休む理由も教えてくれよな」

「田中先生、体調不良だった。インフルエンザだったらしい。代わりに来るのは鈴木先生」

「副担の安崎じゃないのか?」

「やっすんは今日有給取ってる。だから数学が現国に変更になる」

「まぁその話先週安崎が言ってたけどね」

 こいつ、カマかけやがったな。

 そして有吉がいつものように「はん」と鼻で笑うと、丁度HRのチャイムが鳴った。

 いつまでも続けるんだと言いたげに有吉は目を細め、なめるようにゆっくりと前に向き直した。

 するとガヤガヤとしていた教室は、ガラガラと教室前面の扉が開けられたことで静まりかえる。ギリギリまで会話を楽しんでいた女子グループが、蜘蛛の子を散らすように慌てて自席へと急いだ。

 入ってきたのは小柄な中年男性で、のっしのっしと歩きながら、たったそれだけの運動でフゥフゥと苦しそうにする彼の健康面を、僕は陰ながら心配している。

 果たして有吉は、どのような顔をしているのだろうか。

 後姿に変化はないが、きっと目を見開いて驚いていることだろう。あのいつも偉そうな、鼻につく態度の顔が引きつっているであろう事を思うと、僕は彼のように「はん」と鼻で笑いたくなった。

「えー、担任の田中先生は、急病でお休みです」

「急病って、田中先生どうしたんですか?」

 派手めな女子が、真っ先に声を上げる。合わせてクラス中が、ザワザワとどよめいた。

 

「心配しなくて大丈夫ですよ。インフルエンザだそうです。来週には復帰できますから」

 教室内の至る所で安堵の溜息が漏れた。

 田中先生の、人気の高さが伺える。大学卒業後、そのまま教師として教壇立つ彼女は、僕らと5〜6しか年齢が変わらない。親近感を抱かずにはいられないのだ。

 HRが終わるとすぐに、有吉は僕に声をかけ、教室を出た。1時限目は5分後だ。話す時間は、さしてない。

「時間はあまりないが、ひとまず、この後の流れを確認しておきたい」

 それは、どういう意味だ?

 有吉は、首をかしげ、少し逡巡するような素振りをみせた。

「面倒だから、先回りして潰しとくぞ。まずは信じる。疑って悪かったな。んで、この後の『流れ』を確認したい。そしてまだ現物を確認してなかったが、今モノは持ってんだよな?」

 こうなると有吉は話が早い。

 これはつまり、僕が抱えている諸々の問題に対処してくれるということだ。

「繰り返しになるけど、この後変な女に会うんだよ。あぁ、下校中にね、今日は珍しく、お前と一緒に帰るんだけど、あー先に言っときゃよかったね。お前、僕を買い物に誘うつもりだったろ」

 有吉は眉をひそめた。なんで知っていると、言いたげな目だった。

「来週彼女の誕生日だろ? 友達のいないお前は、唯一気兼ねなくプレゼントの相談ができる、彼女との共通の友達であるこの僕に、昼飯の時間お願いするんだ。『買い物に付き合ってくれないか』とね」 

 有吉の左目がピクピクと動いた。どういう意図の表情なのか、僕は読めない。

「その帰り道、僕と君が、帰り道を違えたところで、そいつに会うんだ」

 今でも鮮明に覚えている。季節外れのワンピースを着た、赤い服の女。

「分かった。ひとまず、お前が経験した通りに行動しよう。せめてここからでも、できるだけ行動を変化させないようにしよう」

 既に大きく、ズレてしまっている気がするが。まぁ指摘するのはよそう。

「んで、スイッチは今持っているのか?」

 もちろん、不気味には思ったが、有吉に相談したくて嫌々ながらもってきている。箱に入れて、丁寧にボタンを押さないように、誠心誠意注意しながらもってきている。

「オーケー、それじゃあ早速見せてもらおうか」

 と、有吉は珍しく焦っていたようだ。こころなしか、言葉が弾んでいるような気がする。楽しんでいるのだろうか。

 彼が言い終わると同時に本鈴が鳴った。

 実は、今日の1時限目は移動授業で、クラスメイトは既に特別棟に移動している。

 教室はがらんどうとしていて、なんだか僕らだけ世界に取り残されてしまったような不気味さを感じる。

 まぁ、取り残されたというのは事実なんだけどね。

 一言くらい、声をかけてくれてもいいのに。

 普段行動を共にする学友たちに悪態をつきたくなった。

 仕方ないか。有吉と一緒にいる僕に、声をかけにくかったのだろう。

 さて、どうしたものか。2人で教室に向かえば、いらぬ噂を立てられそうである。

 僕は有吉と相談して、有吉は教室に向かい、僕は保健室に行くことにした。このまま体調不良ということで、午前中はサボってしまう腹づもりである。

 どうしてそんなことをするかと言えば、元々の『歴史』でも僕は午前中をサボったからである。

「有吉、じゃあ僕は保健室に……」

 僕が教室の後ろ扉に手をかけたときだった。

「待てよ」

 有吉の低く、どこか冷たい声が教室に響いた。

 振り返ると、彼は先ほどまでの小馬鹿にしたような笑みを完全に消し、静かに僕を見つめていた。

「保健室に行く前に、その『モノ』を見せてくれないか。持っているんだろう? その、人を殺せるスイッチとやらを」

 僕は頷き、鞄の中から小さな箱を取り出した。

 不気味な女から渡された、黒い箱。この中にあのスイッチが入っている。

「これだよ」

 僕は有吉の前に歩み寄り、慎重に箱の蓋を開けた。

 しかし、中を見た瞬間、僕の呼吸が止まった。

 スイッチなんて、どこにもなかった。

 箱の中に入っていたのは、中身が完全に空っぽになった『睡眠薬の小瓶』だった。

「え……?」

 頭の中が真っ白になった。

 スイッチだ。確かに丸いボタンのついたスイッチだったはずだ。僕はそれを親指で力強く『押し込んだ』。間違いない。薬の瓶なんて入っていなかった。

 混乱する僕をよそに、有吉は箱の中身を一瞥すらしなかった。

 彼はただ、僕の顔を通り越し、虚空を見つめている。

「有吉……? なぁ、おかしいんだ。スイッチが……」

「……なんでだよ」

 有吉の口から漏れたのは、震えるような、ひどく弱々しい声だった。

「有吉?」

 彼は僕の横を通り抜け、がらんどうの教室の中央へ向かって歩き出した。そして、ある一つの机の前で立ち止まった。

 その机を見て、僕は得体の知れない悪寒に襲われた。

 そこは、僕の席だ。

 誰もいないはずの僕の机の上に、真っ白な花が生けられた花瓶がポツンと置かれていた。

「なんで……なんで誰にも相談しなかったんだよ……」

 有吉は僕の机に手をつき、ポロポロと涙をこぼし始めた。あの、常に人を小馬鹿にして、斜に構えていた有吉が、子供のように肩を震わせて泣いている。

「有吉、何やってるんだよ。僕はここだぞ! なぁ!」

 僕が叫んでも、彼は振り向かない。

 その時、教室の窓から差し込む光が、朝の眩しい日差しから、血のように赤い夕日に変わっていることに気がついた。

 移動教室で誰もいないんじゃない。

 放課後なんだ。みんな、帰った後なんだ。

 有吉の言葉が、僕の脳内でリフレインする。

『可能性として、三つの仮説が組み立てられる』

『一つ。君が頭がおかしくなって、全部妄想』

『二つ。君が言っていることが本当に、夢を見ていた。睡眠酩酊だ』

 違う。全部、違ったのだ。

 有吉と僕が会話していたんじゃない。僕が、有吉の幻覚を見ていたわけでもない。

 『有吉の傍に立って、ペラペラと言い訳を並べている僕自身』こそが、僕の魂が見せていた幻覚(ごっこ遊び)だったのだ。

 蓋をしていた記憶の濁流が、一気に脳内へ流れ込んでくる。

 昨日。僕は変な女になんて出会っていない。

 ずっと、死にたかった。自分が大嫌いで、この息苦しい世界から消えてしまいたかった。昨日の放課後、僕は誰にも気づかれないように家に帰り、大量の睡眠薬を自分で自分の喉に『押し込んだ』のだ。

 今日、僕が参列したあの葬式。

 あれは、幼馴染の葬式なんかじゃない。

 『僕の葬式』だ。

 冷たい棺の中で眠る僕の顔を見て、幼馴染は泣き崩れ、両親は後悔を口にしていた。同級生たちも涙を流し、親友の吉田さんはパニックになって会場から連れ出された。

 霊体となってその光景を目の当たりにした僕は、あまりの罪悪感と絶望に、魂が耐えきれなくなったのだ。

 だから、記憶をすり替えた。

 『死んだのは僕じゃなくて、幼馴染だ』と。

 『僕はスイッチを押してしまったから、時間がループして今日をやり直しているんだ』と。

 今朝のHRで田中先生が休んだのも、予言なんかじゃない。僕が死んだ『昨日』の朝の出来事を、幽霊になった僕がただ反芻していただけだ。

『押せば、君のことが一番嫌いな人間が死ぬよ』

 僕の妄想が生み出したあの女の言葉の通りだ。

 僕のことを一番嫌いだったのは、他でもない、僕自身だった。

「もし、お前がタイムリープだの、スイッチだのって、そんな馬鹿げた作り話でもいいから……俺に話してくれてたら……」

 有吉は僕の机に突っ伏して、声を上げて泣きじゃくった。

「俺は、お前を笑いながら、全部聞いてやったのに……っ!」

 あぁ、そうか。

 有吉は親切な人間だ。僕の突飛な話を、馬鹿にしながらでも、真剣に聞いてくれる唯一の友達だった。

 だから僕は、最後にどうしても彼と話がしたくて、こんな都合のいい幻の日常を作り出していたのだ。

 僕の体は、足元から少しずつ透明になり、空気の粒子に溶け始めていた。

 もう、現実に留まるための『嘘』が解けてしまったから。

「ごめん、有吉」

 僕は、決して届かないと知りながら、泣き崩れる親友の背中に向かって声をかけた。

「君とのごっこ遊び、本当に楽しかったよ」

 夕日だけが赤く燃える静かな教室で、僕は自分のすべてを許し、そして、ふっと意識を手放した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ