第九話「食料の問題に入る。腹が減っては設計も立てられない」
九日目の朝、錬は川に仕掛けを置いた。
竹ひごを編んだ籠だ。川の流れに逆らうように口を上流に向けて沈める。魚が流れに乗って入り込み、中の返しに引っかかって出られなくなる。仕組みそのものは単純だ。
竹は荷台から出てきたもので、元は何かの梱包材だったらしい。細い青竹を束ねてテープで巻いてあった。ほぐして、割いて、形を整えた。縛るのはロープの切れ端を細く裂いたもので代用した。
作るのに半日かかった。本で読んだ通りにやっているが、手が覚えていない作業というのは、頭が知っていても時間がかかる。
「……それは何ですか」
ティルネが、川岸から覗き込んだ。朝の光の中で、濡れた石の上に立っている。
「……魚を捕るんですか。どうやって」
「中に入ると出られない構造にした。流れに口を向けて沈めておく。勝手に入る」
「仕掛けだけで捕れるんですか」
「待つだけでいい。その間に他の作業ができる」
「どのくらいで捕れますか」
「半日から一日。今日の夕方に確認する」
ティルネが、水面をゆらゆら揺れる籠を、しばらく眺めていた。
「……これで本当に捕れますか」
「捕れない可能性もある」
錬は正直に答えた。
「その場合は」
「木の実と草で今日はしのぐ。明日、仕掛けを改良する」
ティルネが、少し眉を寄せた。
「……失敗することも計算に入れているんですか」
「入れない方がおかしい」
「でも、たいていは成功することを前提に考えませんか」
「成功だけを前提にすると、失敗したときに対処が遅れる。失敗した場合の手を先に考えておく方が、結果的に損が少ない」
ティルネが、川の流れを見た。
魚籠が、水の中でゆっくり揺れている。
「……なんか、すごいですね」
「何が」
「失敗のことを最初から考えられること。わたしはいつも成功することしか考えていなくて、それで——」
ティルネが、そこで口を閉じた。
続きは言わなかった。
錬も聞かなかった。
川の音が続いている。
☆
午前中、ティルネに食べられるものを案内してもらった。
これは錬からお願いした。ティルネは逃亡中にこの辺りの森を歩いている。地元民ではないが、生き延びるために覚えたものがあるはずだと思っていた。
実際、思った以上だった。
森の中を歩きながら、ティルネが次々と指差していく。
「これは実が食べられます。少し酸っぱいですが」
「毒はないか」
「ないはずです。逃亡中に何度も食べました」
「はずです、では困る。毒のある植物との見分け方は」
ティルネが、少し考えた。
「……葉の形と、茎の色です。見た目が似ているものがあるので、最初は少量だけ食べて、半日様子を見た方がいいです」
「わかった。他には」
「こちらは根が食べられます。ただし生は苦い。火を通すと甘くなります」
「火を通す時間は」
「……わかりません。わたしはいつも焚き火で焦げ目がつくまで焼いていました」
「それで大丈夫だったか」
「はい」
「なら、それを基準にする」
歩きながら、錬は荷台から出てきた広告の裏を取り出して、消し炭で書き込んでいった。植物の特徴。食べられる部位。調理法。毒のあるものとの見分け方。
「……何を書いているんですか」
「記録だ」
「記憶しているんじゃないんですか」
「一度で全部覚えられるとは限らない。書いておけば確実だ」
「わたしが説明すれば——」
「お前がいなくなったときに困る」
ティルネが、歩みを止めた。
錬は少し先に進んでから、止まったことに気づいて振り返った。
ティルネが、錬を見ていた。表情を読もうとしているような目だ。
「……いなくなることを、考えているんですか」
「可能性は全部考える」
「具体的にはどういう可能性ですか」
「追手が来たとき。急いで移動しなければならないとき。何かの事情でしばらく別々に動くことになったとき。お前がそうしたいと思ったとき」
最後の一つを言うとき、錬は少し間を置いた。
ティルネは、それを聞いていた。
「……最後のは、わたしが自分でいなくなることですか」
「ある」
「なぜそれを考えるんですか」
「お前はここに縛られる理由がない。好きな場所に行ける」
ティルネが、少しの間黙っていた。
風が木々の間を抜けていく。葉が揺れる音。
「……今はここにいます」
「わかってる」
「でも、いつかいなくなるかもしれないということを、あなたは最初から考えている」
「そうだ」
「……それは、寂しくないんですか」
錬は、少し考えた。
寂しい、という感覚が、自分にあるかどうか、よくわからない。ただ、誰かがいなくなることを前提に行動するのは、いなくなることを受け入れているということではなくて、いなくなっても困らないようにしておくということだ。それが錬にとっての「備える」だった。
「わからない」
「またわからないですか」
「寂しいかどうかより、お前がいなくなっても困らない状況を作っておく方が先に来る。そういうことだ」
ティルネが、また少しの間黙っていた。
それから、小さく言った。
「……わかりました。続けます」
歩き出した。錬も歩く。
その後、ティルネはいつもより少し丁寧に植物の説明をしてくれた。気のせいかもしれない。ただ、そう感じた。
☆
昼過ぎ、罠を三カ所に仕掛けた。
木の枝を曲げてテンションをかけ、紐で引っかけた跳ね上げ式だ。動物が紐を踏むと枝が跳ねて足が絡まる。大きな動物は無理だが、小動物なら十分捕れる仕組みだ。
設置しながら、錬は地面の痕跡を読んでいた。足跡。糞。草の折れ方。動物が通った跡は、意外とはっきり残っている。
【「フワレン、罠を作れるのか。」】
「本で読んだ」
【「どんな本だ。」】
「サバイバルの本だ。仕事を失いそうだった時期に、色々読んでいた」
【「それが今役に立つとは。」】
「当時は役に立てるつもりで読んでいたわけじゃない。ただ読むものが欲しかった」
少し間があった。
【「……そうか。うまくいくと思うか、罠は。」】
「わからない。やってみないとわからないことはある」
【「正直だな。」】
「嘘をついても腹は膨れない」
ティルネが、罠を眺めながら、また同じことを聞いた。
「……これで本当に獲れますか」
「また同じことを聞くのか」
「心配なので」
「心配するより食べられるものを集める方が確実だ。今日の夕方に木の実を採りに行く。罠と魚籠は明日確認する」
「……段取りがいいですね」
「最悪の場合を考えて動く。当然のことだ」
ティルネが、仕掛けた罠を見ていた。
「……わたしが逃亡中にやっていたのは、その場その場でなんとかすることだけでした。次の日のことは考えられなくて。毎日、今日をしのぐことだけで精いっぱいで」
「それでよく生き延びた」
「……え?」
「十分すごいことだ。それができないで死んでいく人間も多い」
ティルネが、少し目を丸くした。
「……フワレンに褒められるとは思いませんでした」
「事実を言っただけだ」
「K2みたいなことを言いますね」
【「俺の方が先にそういうキャラだったんだが。」】
「うるさい」
「え——」
「K2だ」
ティルネが、また笑った。
☆
夕方、木の実を籠に半分ほど集めた。
ティルネが採り方を知っていた。高い枝のものは棒で叩いて落とす。熟していないものは渋い。地面に落ちたものは虫が入っている可能性があるから、割って確認してから使う。
作業しながら、錬は空を見ていた。
西の方角。雲の形。色。動き。
「……雨が来るな」
「え?」
「明日の夜か、明後日には降る」
ティルネが西の空を見た。夕日が雲の向こうに滲んで、空の端が鈍く光っている。
「……そうですか。どうしてわかるんですか」
「雲の形と、今日の湿気の上がり方。あと昨日より風の向きが変わった」
「……そんなことを見ているんですか」
「毎朝確認している」
ティルネが、また空を見た。
「……わたしには、ただ夕焼けにしか見えません」
「慣れれば読める」
「フワレンはいつから読めるんですか」
「子供の頃から天気に敏感だった。理由はわからないが」
ティルネが、少し笑った。
「……フワレンって、いろんなことが子供の頃からできるんですね」
「そんなことはない。できないことも多い」
「たとえば」
「人と話すのが苦手だ」
ティルネが、少し驚いた顔をした。
「……今、ちゃんと話していますよね」
「話すこと自体は問題ない。何を話せばいいかわからないときがある」
「今は?」
「今は何を話せばいいかわかっている」
「なぜですか」
錬は少し間を置いた。
「……やることがあると、話すことも自然に出てくる。手が動いていると、口も動く」
ティルネが、それを聞いてしばらく黙っていた。
何かを考えているのか、ただ夕空を見ているのか、判断がつかなかった。
「フワレン」
「なに」
「雨が来ることは、困りますか」
「困らない。雨水を集める準備をする」
「雨が来ることを、準備に使うんですか」
「雨は脅威でもあり、資源でもある。どちらになるかは準備次第だ」
【「哲学みたいなこと言うな。」】
「事実だ」
【「まあそうだが。おまえが言うとなんか様になるな。」】
「褒めてるのか」
【「褒めてる。」】
☆
夜、かまどで魚を焼いた。
籠を確認したのは夕方だった。川魚が二匹入っていた。手のひらより少し小さいくらい。初日の仕掛けにしては悪くない。
塩がない。ティルネが香草を持っていた。逃亡中に採り溜めていたものだという。葉ごと魚に巻いて一緒に火にかけると、じゅわりと香りが立った。
三人で食べた。
ティルネが一口食べて、目を細めた。
「……おいしい」
「塩がないのが問題だ」
「でもおいしいです。こんなに温かいものを食べたのは、久しぶりで」
ティルネが、少し言葉を止めた。
錬は、その横顔を見た。
久しぶり、という言葉の重さが、少しだけ伝わってきた気がした。どのくらい、温かいものを食べていなかったのか。どのくらい、一人で冷たい川の水を飲みながら走ってきたのか。
直接は聞かない。
ただ、塩の問題を解決しようと思った。
「次は塩の確保を考える」
ティルネが、少し笑った。
「……食事中も次のことを考えているんですね」
「考えない方が難しい」
「少しくらい、今を楽しんでもいいのでは」
錬は、魚の骨を外しながら、少し考えた。
今を楽しむ、というのがどういうことか、よくわからない。楽しんでいないわけではない。ただ、楽しいと感じる前に次のことが浮かぶ。
「……まあ」
「まあ?」
「悪くはない」
【「今日一番素直だったぞ、今の。」】
「うるさい」
ティルネが、また笑った。
焚き火が揺れている。魚の香草焼きの匂いが、森の夜に広がっていた。
九日間で、食えるものが揃ってきた。
まだ塩がない。保存の仕組みもない。長期的に考えると、やることは山ほどある。
それでも今夜は、悪くない。
錬は、そう思った。




