第七話「見ていない。見ていないが、風呂を作る」
七日目の朝、錬は浄水器のフィルターを洗いに川へ向かった。
砂の層が詰まってきている。逆洗浄が必要だ。朝のうちに済ませておきたかった。
川岸に近づいて、足を止めた。
ティルネが、川の中にいた。
浅瀬だ。腰まで水に浸かって、髪を洗っている。背を向けているので顔は見えない。赤茶の長い髪が水面に広がっていた。
錬は、その場で三秒ほど固まった。
それから、音を立てないように後退した。
茂みの陰まで下がって、その場に座り込んだ。
フィルターの洗浄は後でいい。
どのくらい後でいいかは、わからない。
【「見たのか。」】
ポケットの中のスマホが光った。声には出していない。文字だけが届く。
「見ていない」
【「嘘つけ。三秒は立ってただろ。」】
「後退した」
【「それは見た後の話だ。」】
「……うるさい」
【「顔が赤いぞ。」】
錬は答えなかった。
古新聞を取り出した。ポケットに常に入れている。消し炭で線を引き始める。
【「何を書いてる。」】
「設計図だ」
【「今すぐか。」】
「今すぐだ」
【「……まあ、そういうことにしておいてやる。」】
錬はまだ答えなかった。
線を引く手だけが動いている。
☆
ティルネが戻ってきたのは、それから少し後だった。
髪をマントで拭きながら歩いてくる。錬は作業台の前に座って、設計図を書いていた。顔は下に向けている。
「……おはようございます、フワレン。もう起きていたんですか」
「ああ」
「川に行かなかったんですか。フィルターの洗浄が必要だと言っていましたよね」
「後にした」
「何かあったんですか」
少し間があった。
「設計図を書いていた」
ティルネが、手元を覗き込んだ。
「……何を作るんですか」
「風呂だ」
ティルネが、固まった。
「……ふ、風呂」
「ああ」
「……急にどうして」
「衛生上の問題だ」
ティルネが、錬の横顔を見た。錬は設計図から目を離さない。
少し考えて、ティルネが言った。
「……フワレン、さっき川に行こうとしたと言っていましたよね」
「ああ」
「川に行って、後にした、と」
「……ああ」
「わたし、今朝川にいました」
「……ああ」
「もしかして」
「見ていない」
【「嘘つけ。」】
錬はポケットを指で叩いた。
「K2、黙れ」
【「事実を——」】
「黙れ」
沈黙。
ティルネの耳が、じわじわと赤くなっていく。
何か言おうとして、口が開いて、閉じた。
「……あの」
「風呂を作る」
「……は、はい」
【「おまえ顔がまだ赤いぞ。」】
「うるさい」
「え、わたしに——」
「K2だ」
ティルネが、スマホの方を睨んだ。
【「俺は事実しか言わない。」】
「……K2」
【「なんだ。」】
「少し、黙っていてください」
【「……珍しく怒ってるな。まあわかった。」】
K2が、珍しく素直に引いた。
錬は設計図に寸法を書き込んだ。桶の直径。深さ。板の厚み。
ティルネが、しばらく黙っていた。
それから、ぼそりと言った。
「……本当に、見ていないんですか」
錬は、少し間を置いた。
「……後退した」
「それは見た後では」
「うるさい」
「それ、K2と同じことを言っています」
錬は、設計図を書く手を止めた。
止まって、また動いた。
「……見ていない。少し、見えた。後退した。以上だ」
ティルネが、また耳まで赤くなった。
しかし、怒った様子ではなかった。
「……フワレン」
「なに」
「風呂、ありがとうございます」
「礼はいらない」
「受け取ります」
☆
材料を確認した。
ドラム缶が一本ある。金属カッターがないため半割にはできない。縦に使って湯沸かし器にする。桶は木材で作る。防水に松脂が必要だ。
「K2、この辺りの松の木はわかるか」
【「……ティルネに聞いた方が早い。」】
「ティルネ、松の木はあるか」
「あります。少し行ったところに」
「午後、案内してくれ」
「わかりました」
ティルネが、設計図を覗き込んだ。
「……桶を木で作るんですか」
「板を組めばできる」
「難しそうですね」
「防水だけ気をつければいい。松脂を二度塗りする」
「それで水が漏れないんですか」
「漏れない」
「また計算したんですか」
「経験則だ」
ティルネが、少し目を丸くした。
「フワレン、木の桶を作ったことがあるんですか」
「ない」
「では経験則というのは」
「似た構造のものを作ったことがある。原理は同じだ」
ティルネが、また何か言いかけて、やめた。
錬は、それを見て言った。
「言いたいことがあるなら言え」
「……いえ」
「言え」
ティルネが、少し考えた。
「……フワレンって、なんでも作れるんですね」
錬は設計図に視線を戻した。
「今朝のことは、謝った方がいいのかもしれない。ただ、うまく言葉が出てこない」
「……それは」
「不意だったとはいえ、不用意だった。だから、風呂を作る」
ティルネが、錬を見た。
長い間、黙っていた。
それから、小さく笑った。
「……そういう謝り方もあるんですね」
「謝り方かどうかもわからない」
「わたしは、受け取ります」
【「……フワレン。」】
K2が、静かに言った。
「なに」
【「おまえ今日、一番まともなことを言った。」】
「うるさい」
【「ほめてる。」】
ティルネが、また笑った。
今日二度目だ。
錬は設計図に、最後の寸法を書き込んだ。
☆
夕方までに、桶の骨格ができた。
板を組み合わせて番線で締め、内側に松脂を塗った。乾いたらもう一度塗る。明日の夕方には使える。
ドラム缶を焚き火台の上に固定して、湯沸かし器にした。川から水を入れて下から火を当てれば湯が沸く。桶に移して入る。
ティルネが、できあがった桶を眺めた。
「……楽しみですね」
「衛生上の問題が解決する」
「フワレンは、楽しみという言葉を使わないんですね」
「使う機会がなかった」
「今は?」
少し間があった。
「……まあ」
錬は工具を片付け始めた。
【「今日一番素直だったぞ、今の。」】
「黙れ」
【「ほめてる。」】
「黙れ」
ティルネが、笑い声を上げた。
今日で何度目かは、もう数えていない。




