第六話「寝床を作る。車はもう限界だ」
六日目の朝、ティルネが車から降りてきたとき、首を回しながら顔をしかめていた。
錬は作業台の前でそれを見た。
「首か」
「……少し。助手席は、寝るには角度が」
「わかった」
少し間を置いてから、錬は聞いた。
「逃亡中は、どうやって寝ていた」
ティルネが、少し考えた。
「……木の根元とか、岩の陰とか。一度は川岸の砂の上で」
「屋根はなかったのか」
「ありませんでした。雨が降ったときはマントで凌いで」
「毎晩そうだったのか」
「はい。追手が来るかもしれないので、深く眠れなくて」
錬は、それを聞いて古新聞を引き寄せた。
消し炭で線を引き始める。
車の中で五日間だ。自分も腰が限界に近い。作業台を作ったときから考えていたが、優先度が後になっていた。今日、順番が来た。
「何を作るんですか」
「小屋だ」
「小屋……」
「寝るための場所。屋根と壁と床がある。車より寝やすい」
ティルネが、目を少し丸くした。
「……今日中に作れるんですか」
「簡易なものなら」
「簡易、というのは」
「雨と風が防げて、地面から離れていれば十分だ」
☆
材料を確認した。
鉄パイプが残り二本。角材が四本。合板の端材が数枚。ブルーシートはまだある。番線とガムテープも残っている。
「K2」
【「なんだ。」】
「木材が欲しい。厚めの板と、細い角材」
【「ちょっと待て。」】
圧縮板が動いた。
出てきたのは、合板が二枚。一枚は端が欠けているが使える。角材が三本。長さはバラバラだが、切って使えば足りる。
続いて、蝶番が二つ。錆びているが動く。
【「蝶番まで来たぞ。」】
「使える」
【「何に使う。」】
「扉だ」
【「扉まで作るのか。」】
「仕切りが必要だ」
少し間があった。
【「……なるほどな。」】
K2が、それ以上何も言わなかった。
珍しい、と思った。茶化すかと思っていたが、来なかった。
☆
設計はシンプルにした。
車の横に張り出す形で建てる。車体を壁の一面として使えば、材料が減る。床は地面から十センチ上げる——湿気と虫対策だ。屋根は既存の屋根に繋げる。壁は三面、ブルーシートと合板を組み合わせる。中央に蝶番で扉をつけて、二部屋に仕切る。
錬とティルネの、それぞれの空間。
面積は広くない。一人あたり畳一枚分ほど。寝るだけなら十分だ。
ティルネが設計図を覗き込んだ。
「……仕切りがありますね」
「ある」
「なぜですか」
「必要だろ」
ティルネが少し黙った。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。設計上の問題だ」
【「建前だな。」】
「K2」
【「黙る。」】
ティルネが、小さく笑った。
☆
午前中いっぱいかけて、骨格ができた。
ティルネが材料を運び、板を押さえ、番線を巻く。五日間で作業の補助が板についてきた。言わなくても次の手順を読んで動く。
床板を張る。地面との間に石を置いて高さを出す。合板を並べて番線で固定する。
壁を立てる。角材を柱にして、合板とブルーシートで覆う。車体側は車を壁として使う。屋根は既存のシートから延長する。
最後に、仕切りの扉。
蝶番を角材に打ち込む。扉になる合板を取り付ける。開閉を確認する。動く。錆びているが問題ない。
「できた」
ティルネが、完成した小屋を外から眺めた。
廃材とブルーシートと番線でできた、お世辞にも立派とは言えない代物だ。ただ、屋根がある。壁がある。床が地面から離れている。扉がある。
「……仕切りの向こうが、わたしの部屋ですか」
「ああ。奥の方にした」
「なぜ奥を」
「追手が来たとき、手前の方が先に対応できる」
ティルネが、少し間を置いた。
「……それも設計上の問題ですか」
「ああ」
【「建前その二。」】
「K2」
【「黙る。」】
ティルネがまた笑った。
☆
夜になった。
初めて、小屋の中で横になった。
地面から離れている。風が来ない。天井がある。五日ぶりに、「部屋」と呼べる場所で寝る感覚だった。
仕切りの向こうで、ティルネが寝ているはずだ。物音がしていたが、しばらくして静かになった。
眠れているといい、と思った。
思ってから、少し驚いた。そういうことを考えるのは珍しかった。
スマホが光った。
【「起きてるか。」】
「ああ」
【「ティルネも起きてるぞ。気配でわかる。」】
錬は何も言わなかった。
仕切りの向こうが、少し静かすぎる気がした。
「ティルネ」
声をかけた。
少し間があって、
「……起きています」
「眠れないか」
「慣れない場所なので」
「そうか」
また沈黙。
「……フワレン」
「なに」
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「イヤリングのことです」
錬は天井を見たまま、答えた。
「聞いてる」
☆
ティルネは、少しの間黙っていた。
それから、仕切りの向こうで話し始めた。
「そのイヤリングは、母から受け取ったものです。逃げるとき、持ち出せるものがほとんどなくて……あれだけは持っていきました」
「お母さんのものか」
「母も、わたしと同じ魔法を持っていました。ただ母は、うまく制御できていて」
「制御できていた」
「はい。どうやっていたのかは、教えてもらえないまま母が亡くなって」
錬は何も言わなかった。
「……そのイヤリングには、何かが込められていたのかもしれません。母が込めたのか、それとも別の何かなのか、わたしにはわからないんですが」
【「何が込められていたと思う。」】
K2が、静かに聞いた。
「……わかりません。でも」
ティルネが、少し間を置いた。
「あのイヤリングが、勝手に飛んでいくことは、あってはならないはずなんです。どこにあるかわからないものをReturnで引き戻そうとしても発動しないはずで……でも飛んでいった。何か理由があるはずなんですが」
「意図があったということか」
「誰かの、あるいは何かの」
沈黙。
【「フワレン。」】
「なに」
【「おまえを呼んだとしたら、なぜおまえだと思う。」】
錬は少し考えた。
「わからない」
【「建前なしで。」】
「わからない。本当に」
また沈黙。
「……フワレンでよかったと、わたしは思っています」
ティルネが、静かに言った。
「フワレン以外の人が来ていたら、きっとこうはなっていなかった。水も、屋根も、トイレも、かまども、今夜の寝床も——誰でもできることじゃない」
錬は何も言わなかった。
「だから、選ばれたんじゃないかと思います。わたしにはわからないけれど、何かがフワレンを選んだんじゃないかって」
【「……俺も、そう思う。」】
K2が、短く言った。
いつもの毒気がなかった。
錬は天井を見ていた。
選ばれた、という言葉の意味がよくわからなかった。ただ、反論する気にもなれなかった。
理由はわからない。わからないまま、ここにいる。今夜もやることがある。明日もやることがある。
仕切りの向こうで、ティルネの息が少しずつ穏やかになっていく。
眠れたようだ。
よかった、とまた思った。
今日二度目だ。
【「フワレン。」】
「なに」
【「おまえ、少し変わってきたな。」】
「そうか」
【「悪い意味じゃない。」】
錬は何も言わなかった。
風の音が、外で小さく動いた。
明日、やることは決まっている。




