第四話「燃料が半分を切った。順番を間違えるな」
四日目の朝、錬はエンジンをかけた。
理由は点検だ。毎朝やる。エンジンの状態。油圧。冷却水。異音がないか。転移してからずっと同じ手順で確認している。
エンジンは問題なくかかった。
問題は、燃料計だった。
針が、昨日より少し下がっている。
三日間、エンジンをかけていない時間の方が長かった。それでも減る。アイドリングだけでも燃料は消費する。当たり前の話だ。
錬はエンジンを切って、しばらく燃料計を見ていた。
転移直後、半分弱あった。今は四割を切っている。
このペースで行けば、二週間ほどで底をつく。
問題を先送りにするつもりはなかった。ただ、水と屋根とトイレが先だった。優先順位の問題だ。そして今日、その順番が変わった。
【「起きてたのか。」】
「ああ」
【「燃料、見たな。」】
「ああ」
【「だから言おうとしてたんだけど、おまえが水を先にするから」】
「水が先で正しかった。死人に燃料はいらない」
少し間があった。
【「……まあそうだけど。」】
「今日から燃料の手当てに入る。荷台に廃油系のものが来るか確認してくれ」
【「ちょっと待て。」】
☆
ティルネが起きてきたのは、錬が荷台を覗いている最中だった。
目を擦りながら車から降りてきて、鼻をひくつかせた。
「……なんですか、この匂い」
「油だ」
「油」
「エンジンオイル。廃棄されたやつだ」
荷台から転がり出てきたのは、ドラム缶が一本。蓋が半開きで、中に黒いオイルが入っている。満量ではない。三分の一ほど。それから、金属フィルターが数枚。錆びているが、まだ使えそうだ。
ティルネが、ドラム缶を覗き込もうとして、顔を背けた。
「……すごい匂いですね」
「換気しながら作業する。近づくな」
「何に使うんですか」
「燃料にする」
「あの黒いものを?」
「ろ過して、水分を飛ばせばディーゼルエンジンは動く」
ティルネが、ドラム缶とゴミ収集車を交互に見た。
「……あの車の燃料に、これを使うんですか」
「緊急用だ。本当はバイオディーゼルを作りたいが、材料が揃っていない。今日のところは廃油でしのぐ」
「ばいお……」
「植物油から作る軽油の代替品だ。後で説明する」
ティルネは少し考えてから、一歩下がった。
「……わかりました。近づきません」
【「賢い判断だ。」】
K2が言った。
☆
作業台を作ったのは昨日だった。
荷台から出てきた廃木材を組み合わせた簡易なものだが、地面に直置きせずに作業できるというだけで、効率がまるで違う。
錬はその台の上に金属フィルターを固定して、ドラム缶のオイルを少しずつ通した。
黒い油が、ゆっくりと滴り落ちる。フィルターを通るたびに、少しずつ透明に近づいていく。
「……あの、フワレン」
少し離れた場所から、ティルネが声をかけた。
「なに」
「手伝えることはありますか」
「ある。川から水を二リットル持ってきてくれ。容器は荷台の脇にある」
「水をどうするんですか」
「最後に廃油を水洗いする。不純物を取り除く」
「水洗いで取れるんですか」
「取れるものと取れないものがある。取れないものは加熱で飛ばす」
ティルネが頷いて、川の方へ歩き出した。
その背中を見ながら、錬はフィルターの状態を確認した。目詰まりが始まっている。交換が必要だ。フィルターはあと三枚ある。計算しながら、作業を続ける。
【「フワレン。」】
「なに」
【「このやり方で本当に動くのか。廃油を燃料にするなんて。」】
「ディーゼルエンジンは元々、植物油で動くように設計されたものだ。廃油でも不純物を取り除けば動く。ただし燃料フィルターが詰まりやすくなる。定期的に清掃が必要だ」
【「……エンジニアだったからそういうことを知ってるのか。」】
「机上の知識だ。やってみないとわからない部分もある」
【「珍しいな。おまえが『わからない』と言うのは。」】
「知らないことを知っているふりはしない」
少し間があった。
【「……まあ、正直だな。」】
☆
ろ過を三回繰り返した頃、ティルネが水を持って戻ってきた。
錬はろ過した油を別の容器に移して、水を加えた。かき混ぜる。しばらく静置すると、水と油が分離する。水層に不純物が移っている。上の油層だけを取り出す。
ティルネがその作業を横で眺めていた。
「……水と、さっきの黒いものが分かれましたね」
「混ざらないからな」
「なぜ混ざらないんですか」
「分子の構造が違う。水は極性があって、油は無極性だ」
「……ぶんし」
「気にしなくていい。混ざらない、という事実だけ覚えておけばいい」
ティルネが、分離した層を見つめた。
「こういうことを、全部知っているんですか」
「全部じゃない。必要なことだけ」
「どうやって覚えるんですか」
「必要になったときに調べる。必要になる前に調べることもある」
「どちらが多いですか」
錬は少し考えた。
「後者だ。何が必要になるかわからないから、広く浅く知っておく。深くなるのは実際に使うときだ」
ティルネは、また少し黙った。
何か言おうとして、止めた。
そのまま、分離した油を見ていた。
☆
加熱は湯煎でやった。
大きな鍋に水を入れて焚き火にかけ、その中に廃油の入った小さな容器を沈める。直接火にかけるより温度が上がりすぎない。引火しにくい。時間はかかるが、安全だ。
ティルネが少し離れた場所から見ている。
「……危なくないですか」
「管理すれば危なくない。管理しなければ危ない」
「管理というのは」
「直接火にかけると引火する。湯煎なら温度が上がりすぎない。換気はどのみち必要だ。煙が出たら止める」
「フワレンは怖くないんですか」
「怖いと思う暇があったら確認する」
ティルネが、錬の横顔を見た。
何かを言いかけて、やめた。
その繰り返しだな、と錬は思った。ティルネは何かを言いたいときに止める癖がある。聞かない。聞く必要を感じないというより、聞いても今は答えられないだろうと思っている。
鍋の表面を見る。泡が落ち着いてきた。
もう少しだ。
☆
完成した廃油を、錬は小さな容器に入れて少し眺めた。
最初の真っ黒から比べると、濁った茶色になっている。完璧ではない。バイオディーゼルと混合すれば品質が上がるが、今はこれで十分だ。
車の燃料タンクに少量を足す。
エンジンをかけた。
かかった。
アイドリングの音を聞きながら、異音がないか確認する。問題ない。排気の匂いが少し変わった。悪くない変化だ。
エンジンを切る。
【「動いたな。」】
「動いた」
【「おまえが自信なさそうにするのも珍しい。」】
「廃油は変数が多い。毎回同じ結果になるとは限らない」
【「だから定期的に確認するのか。」】
「ああ」
ティルネが、車のそばに来て、エンジンがかかっていた場所を見た。
「……動いたんですか」
「動いた」
「あの黒いものを入れて」
「茶色になってから入れた」
「それで動くんですか」
「今日は動いた。明日も動くかどうかは確認しないとわからない」
ティルネが、少し間を置いた。
「……フワレンって、確認することが好きなんですね」
「好きというより、確認しないと気持ち悪い」
「どうして」
「確認しないと、わかったつもりになる。わかったつもりは、本当にわかっていることより危ない」
ティルネが、その答えを少し咀嚼するように黙っていた。
それから、
「……わたしの魔法も、そういうことかもしれません」
錬は振り向かなかった。
「というと」
「わかったつもりで使っていた。小石を戻すつもりで、周りの土ごと持っていった。確認が足りなかったのかもしれない」
錬は少し考えた。
「違う」
「え」
「確認しようとしても確認できない状態だったんだろ。計器がない機械を整備するようなものだ。何が起きているかを見る手段がない。そこが問題だ」
ティルネは、少し目を丸くした。
「……計器」
「比喩だ」
「でも……それは、どうすれば」
「わからない。まだ」
錬は答えながら、荷台の方へ歩き出した。
次の作業の段取りを頭で組み立てる。今日の廃油処理は一段落した。次は壁の残り三面だ。材料はある。午後から入れる。
【「フワレン。」】
「なに」
【「今の、魔法の話に乗っかってたよな。」】
「気づいていたか」
【「当たり前だ。おまえが比喩を使うのは珍しい。」】
「有効だと思った」
【「……まあな。ティルネも少し顔が変わってた。」】
錬は振り返らなかった。
ティルネが、あの場所でまだ立っているかどうか、確認しなかった。
設計図の話は、まだ早い。
ただ、何かが少しずつ動いている気がした。




