第三話「魔法が使えないのに追われているのはなぜだ」
朝から、錬は穴を掘っていた。
深さ一メートル。幅は六十センチほど。シャベルは荷台から昨夜出てきたもので、柄が割れているが使えないことはない。割れた部分にガムテープを巻いて補強してある。
トイレが必要だった。水源の汚染という理由もあるが、もう一つある。ティルネがいる。女性だ。森の中で用を足す場所がないのは、自分よりずっと困るはずだ。昨夜から気になっていた。朝一番でやることに決めていた。
ティルネが隣に立って、その作業を眺めていた。
「……何を作っているんですか」
「トイレだ」
一拍あった。
「……今の場所では、ダメなんですか」
「野外で垂れ流しにすると水源が汚染される。川上でやられたら浄水器の意味がない」
「あ、なるほど」
「穴を掘って、上に木の台を作る。囲いも必要だ」
「囲い、というのは」
「お前が使うだろ」
ティルネが、一瞬考えてから頷いた。
☆
穴を掘り終えた頃、K2が口を開いた。
【「なあティルネ。一つ聞いていいか。」】
ティルネが、ポケットの方を見た。
「……なんですか」
【「昨日、魔法が下手だって言ってたよな。
でも軍に追われてる。
その二つが繋がらない。
下手なやつを、なんでそこまで欲しがるんだ。」】
ティルネは少し黙った。
錬は穴の縁に土台になる石を並べながら、手を止めずに聞いている。
「……下手というのは、わたしの言い方が悪かったかもしれません」
【「じゃあどう言えばいい。」】
「うまく扱えない、という方が正確です。魔法自体は……使えます。ただ、意図した通りに出てこない」
【「意図した通りに出ない、ってどういうことだ。」】
「たとえば、小さな炎を出そうとして、森が燃えたことがあります」
錬の手が、一瞬止まった。
「たとえば、折れた木の枝を元に戻そうとして、木が三十年前の姿に戻ったことがあります」
【「……」】
「たとえば、川の流れを少し変えようとして、上流の岩山が消えたことがあります」
沈黙。
【「岩山が消えた。」】
「消えました」
【「どこに。」】
「わかりません」
また沈黙。
【「……おまえ、魔法が下手なんじゃなくて」】
「強すぎて、制御できないんです」
ティルネは静かに言った。怒っているわけでも、開き直っているわけでもなく、ただ事実を述べる声だった。
「だから逃げました。いつ何が起きるかわからない人間と、誰も一緒にいたくない。わたし自身も含めて」
☆
錬は石を並べ終えて、立ち上がった。
ティルネを見た。
「一度見せてみろ」
「え」
「魔法。小さいやつでいい」
ティルネが、驚いたように目を丸くした。
「……見せて、どうするんですか」
「どう出るかを見たい」
「何のために」
「対策を考える」
ティルネはしばらく錬を見ていた。
それから、諦めたような、あるいは何かを決めたような顔で、小さく頷いた。
「……わかりました。ただ、少し離れていてください。どうなるかわからないので」
「どのくらい」
「十メートルは」
錬は十歩下がった。
K2のスマホを持ったまま、腕を組んで見ている。
☆
ティルネは、地面に落ちていた小石を一つ拾った。
掌の上に乗せて、目を閉じる。
「……これを、元の場所に戻します。転移魔法の初歩です。小石を、さっきわたしが拾った場所に」
錬は黙って見ていた。
ティルネの指先が、微かに光った。
白い。柔らかい光。
小石が、ふわりと浮いた。
いい、と思った。制御できている。
——次の瞬間、光が膨らんだ。
柔らかかったはずの白が、一気に広がって、視界が白くなった。地面が揺れた。正確には揺れたわけではないが、足元の感覚が一瞬おかしくなった。
光が引いた。
小石は、消えていた。
ティルネが立っていた場所の周囲、半径三メートルほどの地面が、むき出しになっていた。草が消えている。土が、何かに削り取られたように平らになっている。
錬は、その場所を眺めた。
均一に削れている。深さはおそらく数センチ。面積は正確な円形ではなく、少し歪んでいる。
「……ごめんなさい」
ティルネの声が、小さかった。
「小石を戻そうとしただけなんですが。周りの土ごと、どこかに戻してしまったみたいで」
「どこに戻した」
「……わかりません。この土がもともとあった場所、なのかもしれませんが。それがどこかは」
錬は削れた地面を一周した。縁の形を確認する。草の根が断面で見えている。急激な変化で引き千切られた跡だ。
「怪我はないか」
「……わたしは大丈夫です」
「そうか」
短く言って、錬は穴の作業に戻った。
☆
【「……なるほどな。」】
K2が言った。
錬は木の台を組みながら、答えた。
「見てわかったか」
【「ああ。
魔法の出力がでかすぎて、意図した範囲に収まらない。
小石一個動かすつもりが周囲を巻き込む。
そういうことだろ。」】
「合ってるか」
ティルネが、少し離れた場所に座っていた。両膝を抱えて、削れた地面を見ている。
「……おそらく。でも毎回同じわけじゃないんです。うまくいくときもあります。何が違うのか、わたしにもわからなくて」
【「うまくいくときと失敗するときで、何か条件が違うか?」】
「……考えたことはあります。でも法則が見つからなくて」
【「気持ちとか、体調とか」】
「それも関係してそうですが、そこだけじゃない気がして」
錬は木の台を固定しながら、頭の中で何かを整理していた。
制御できない。出力が意図を超える。条件が不明。
機械で言えば、調整が取れていない状態だ。入力に対して出力が比例しない。どこかにブレーキがない。あるいは、ブレーキが機能していない。
「設計図があれば変わるかもしれない」
ぼそっと、錬が言った。
ティルネが顔を上げた。
「……設計図?」
「機械の話だ。気にするな」
ティルネは首を傾げたが、追及しなかった。
【「フワレン、今のはどういう意味だ。」】
「後でいい」
【「また後でか。」】
「今はトイレが先だ」
K2が、少し間を置いた。
【「……相変わらず現実的だな、おまえは。」】
☆
木の台が完成したのは、昼前だった。
穴の上に渡した丸太と、その上に固定した板。座るための切り欠きを鑿代わりの鉄片で削り出した。排気のための塩ビパイプが一本、上に伸びている。先端に黒く塗ったキャップ。太陽熱で上昇気流を作り、臭いを上に逃がす仕組みだ。
次に、錬は鉄パイプを四本手に取った。
「手伝ってくれ」
ティルネに声をかけて、パイプを四隅に打ち込み始めた。
「……なんのためですか」
「囲いだ」
ティルネが、少し間を置いた。
「……あ」
短くそう言って、ブルーシートの端を押さえる作業を手伝い始めた。
三方を番線で固定して、入り口側には短いシートを垂らした。引っ張れば開く。ちゃんとした扉ではないが、目隠しとしては十分だ。
ティルネがシートを引いて、中を確認した。
「……ちゃんと入れます」
「当然だ」
「でも、これだけで臭いは出ないんですか」
「使った後に落ち葉と土を交互に入れる」
「それで消えるんですか」
「消えるんじゃない。分解される。土の中に目に見えない生き物がいて、それが臭いの元を食う」
「……目に見えない生き物が」
「ああ。ただ、何でも食うわけじゃない。落ち葉の炭素と人糞の窒素のバランスが整わないと動かない。だから落ち葉と土を交互に入れる」
「目に見えないが、そこらじゅうにいる。土の中に。落ち葉の中にも」
ティルネが、足元の土を見た。
「……今も?」
「今も」
少し間があった。
「なんだか、気持ち悪いですね」
「お前の体の中にもいる」
「それはもっと気持ち悪いです」
錬は答えなかった。
道具を片付けながら、作業の完了を確認する。穴。台。排気管。囲い。使用後の落ち葉と土のバケツも脇に置いた。
ティルネが、完成したものを改めて眺めた。
「……思ったよりちゃんとしてます」
「当然だ」
「廃材で作ったんですよね」
「ゴミだ。拾ったものだ」
「……捨てられたもので、こんなものが」
錬は道具を片付けながら、答えなかった。
捨てられたものに何ができるかは、使い方次第だ。言葉にするほどのことでもない。
「あの、フワレン」
「なに」
「さっき、設計図があれば変わるかもしれない、と言っていましたが」
錬は手を止めた。
「……魔法のことですか」
少し間があった。
「まだわからない」
ティルネが、少し黙った。
錬は道具を荷台の脇に並べて、次の作業の段取りを頭で組み立てた。壁の材料が今日来るはずだ。午後から取り掛かれる。
「K2」
【「なんだ。」】
「壁の材料、来てるか確認してくれ」
【「ちょっと待て。」】
圧縮板が動いた。
転がり出てきたのは、波板のトタン、数枚。一枚は端が錆びて穴が開いている。角材が二本。それから、工具箱が一つ。蓋が歪んでいて開けにくいが、中に何か入っている感触がある。
【「こんなもんだ。工具箱、状態はわからん。」】
錬は工具箱を手に取って、蓋をこじ開けた。
中に、ハンマー。釘の袋。錆びたノコギリ。そして、ドライバーが二本。
ドライバーを手に取って、グリップを確認した。プラスとマイナス。両方ある。
錬の目が、少し変わった。
ドライバーがある。角材がある。トタンがある。
今日の午後で、壁の一面は作れる。
「午後から壁に入る。手伝えるか」
ティルネに向けて言った。
「はい」
「トタンは錆の部分を避けて使う。切るのを手伝ってくれ」
「わかりました」
ティルネが立ち上がりながら、ふと足を止めた。
「……フワレン。さっきの魔法のこと、怖くなかったですか」
錬は角材を手に取りながら、少し考えた。
「怖い、というより」
「というより?」
「原因がわからない方が、気になる」
ティルネが、また首を傾げた。
その顔を見ながら、錬はトタンを一枚引き寄せた。
設計図の話は、まだ早い。
ただ、何かが頭の中で動き始めていた。
☆
夕方、壁の一面が立った。
トタンを角材に固定して、地面に打ち込んだ杭に縛り付けた構造だ。見た目はやはりボロい。錆の茶色と番線の銀色と、ガムテープの灰色が混在している。
ティルネは、その壁を眺めた。
「今日だけで、トイレと壁ができたんですね」
「まだ一面だ。三面残ってる」
「でも」
「明日やる」
ティルネは口を閉じた。
それから、削れた地面の方を、また見た。
昼の魔法の跡が、まだそこにある。草のない、平らな円。
「……今日は、失敗してしまいました」
「失敗じゃない」
ティルネが、錬を見た。
「データが取れた」
そう言って、錬は工具を片付け始めた。
ティルネはしばらくその背中を見ていた。
何か言いたそうにして、結局何も言わなかった。
☆
夜、焚き火の前。
三人で浄水した水を飲みながら、火を眺めていた。
【「ティルネ。」】
「なんですか」
【「今日の魔法の話だけど。
魔法が下手なんじゃなくて、強すぎて制御できないってことは——
おまえを追ってる連中は、それを知ってるんだな。」】
ティルネは、少し間を置いた。
「……知っています。だから欲しがっている」
【「制御できないものを、どう使う気だ。」】
「使う側は、制御できなくていいんです」
静かな声だった。
「向ければいい。わたしを、敵の方向に向けて、使えばいい。何が起きるかは関係ない」
焚き火が揺れた。
錬は何も言わなかった。
【「……そういうことか。」】
K2が、短く言った。
それ以上は何も言わなかった。
火の音だけが続いた。
ティルネは膝を抱えて、炎を見ていた。
錬は、その横顔を一度だけ見て、また火に目を戻した。
頭の中で、何かが整理されていく。
制御できない力を持っている。向けられれば何かが壊れる。本人にも止められない。
それを止める方法が、あるとしたら。
設計図の話は、まだ早い。
ただ、考え始めていた。




