第十一話「雨が上がった。捨てられたものが、ここに立っている」
雨は朝まで続いた。
夜明け前に少しずつ弱まって、鳥が鳴き始める頃には、葉の先から雫が落ちるだけになっていた。それもやがて止んだ。
錬は運転席で目を覚ましたとき、雨音がないことに気づいた。
静かだった。
耳を澄ます。風の音。葉の揺れる音。遠くで川の音。雨の音ではない。
外に出た。
空気が洗われていた。森の匂いが濃い。土が湿って、葉が光を反射している。雲の切れ間から、朝の光が差し込んでいる。
錬は拠点を一周した。
一つずつ、確認する。
屋根。養生シートの表面は濡れているが、たわんでいない。骨格がしっかりしているから、水の重みに耐えた。
壁。トタンの表面に雨粒の跡が残っているだけだ。錆の進行も許容範囲内だ。
小屋。入り口のカーテンが少し濡れている。中を見ると、床の段ボールは乾いていた。屋根が機能している証拠だ。
かまど。石が濡れているが、燃焼室の内部は乾いている。粘土で目地を埋めておいたのが効いた。
トイレ。問題なし。
雨水タンク。二本とも、ほぼ満杯になっていた。
錬はタンクを手でゆっくり叩いた。
水が満杯の感触。二十リットルと十リットル、合わせて三十リットル。一夜の雨でここまで貯まった。
問題なし。
「……全部、残っていますね」
ティルネが小屋から出てきて、雫の落ちる森を眺めていた。目が少し赤い。よく眠れなかったかもしれない。
「問題なかった」
「雨漏りも」
「ない」
「捨てられたもので作ったのに」
「計算通りだ」
ティルネが、また拠点を見渡した。
屋根。壁。小屋。かまど。トイレ。雨水タンク。浄水器。作業台。風呂の仕切り。
転移した一日目には、水色と白のゴミ収集車が一台あるだけだった。それが今は、こうなっている。
「……増えましたね。最初と比べると、すごく」
「まだ足りないものがある」
「わかっています。でも、増えたことは事実です」
「足りないものを言うと——」
「聞きます」
錬が少し間を置いた。
「照明が足りない。暖房もない。食料の保存の仕組みもまだだ。燃料の安定供給は課題のままだし、壁の断熱も薄い。雨風は防げるが、寒い夜に対応できていない」
ティルネが、それを聞きながらうなずいていた。
「……フワレンの目には、こんなに足りないものが見えているんですね」
「見えるから作る。当然だ」
【「当然だってよ。」】
「うるさい」
「え——」
「K2だ」
ティルネが、くすりと笑った。
☆
午前中、錬は雨漏りの確認を細かくやった。
問題がなかったからといって、確認しない理由にはならない。今は問題がなくても、次の雨で問題になる可能性を潰しておく。
屋根のシートを端から端まで触って確認する。水が溜まりやすい凹みがないか。ガムテープが浮いていないか。骨格の番線が緩んでいないか。
一カ所、シートの端のガムテープが浮いていた。
昨夜の雨で端から水が染みた跡がある。今は乾いているが、次の雨では漏れるだろう。
貼り直す。
「……そんな細かいところまで確認するんですか」
ティルネが横で見ていた。
「今直せば五分で済む。放置すれば次の雨で漏れる。漏れてから直すより、漏れる前に直す方が楽だ」
「でも、今は漏れていませんよね」
「今漏れていないのと、次も漏れないのは別の話だ」
ティルネが、錬の手元を見た。
「……フワレンって、問題が起きる前に動くんですね。いつも」
「起きてから動くより、起きる前に動く方が損が少ない」
「それも本で読んだんですか」
「経験だ」
「どんな経験ですか」
少し間があった。
「……起きてから動いて、間に合わなかったことがある」
ティルネは、それ以上聞かなかった。
錬も、それ以上言わなかった。
ガムテープを貼り直す手だけが動いている。
風が少し出てきた。雨上がりの冷たい空気が、木々の間を抜けていく。
ティルネが、少しの間、錬の手元を見ていた。
「……フワレン」
「なに」
「間に合わなかったこと、というのは」
「今は関係ない」
「……そうですか」
「ああ」
「……でも、それがあったから、今みたいに動けるんですかね」
錬は、手を止めなかった。
ただ、少しだけ、その言葉が頭の中に残った。
☆
昼前、K2が口を開いた。
【「フワレン。」】
「なに」
【「雨水タンク、満杯になったな。浄水器と合わせると、水の問題はほぼ解決したことになる。」】
「当面はな。長雨が続けば話が変わる。タンクが溢れる前に使い切る必要が出てくる」
【「まあそうだが。食料はどうだ。」】
「罠と魚籠を毎日確認する。安定して捕れるようになったら、保存の仕組みを考える。燻製か、塩漬けか。塩がまだないのが問題だ」
【「塩の確保は。」】
「ティルネに心当たりがあると言っていた」
錬はティルネの方を向いた。
「塩が取れる場所の話、覚えているか」
「……川の上流に、少し塩辛い水が出る場所がありました。逃亡中に通ったときに気づいて、でも急いでいたので確認しなかった」
「案内できるか」
「距離があります。歩いて半日以上」
「明後日、天気を見て行く。日帰りで計算する」
【「二人で行くのか。」】
「ああ」
【「……まあ、いいか。」】
K2が何か言いかけて、やめた。
錬は気づいたが、聞かなかった。
ティルネは少し考える顔をして、それから言った。
「……半日以上ということは、往復で一日ですね」
「ああ」
「食料と水を持って」
「最小限の荷物で行く」
「わかりました」
ティルネが、少し真剣な顔になった。そういう顔も、するのだな、と錬は思った。いつもは感情が顔に出やすいが、今は出ていない。何かを考えている顔だ。
「フワレン」
「なに」
「上流に向かうということは、追手が来る方向に近づくかもしれません」
「わかってる」
「それでも行くんですか」
「塩がなければ食料を保存できない。保存できなければ長期的に食料が不足する。リスクを比べて、行く方がいい」
「……わかりました」
「ただ、行き帰りで気配を確認しながら動く。何かあればすぐに引き返す」
「わかりました」
ティルネが、うなずいた。
K2が、静かに言った。
【「二人とも、ちゃんと話し合ってるな。」】
「当然だ」
【「当然だってよ。」】
ティルネが、今度は笑わなかった。
ただ、少し表情が和らいだ。
☆
昼食は昨夜の鍋の残りだった。
火を通し直して、今朝採った木の実を足した。塩がないが、香草の風味が出ている。温かいものを食べるだけで、体が少し楽になる。
ティルネが食べながら、ふと言った。
「……フワレン」
「なに」
「ここって、だいぶ住めるようになってきましたね」
「まだ足りない」
「わかっています。でも」
ティルネが、少し考えてから、拠点を見渡した。
「最初の日、わたしがここに来たとき、車が一台あるだけで、周りには何もなかった。それが今は、こんなに」
言葉が途切れた。
錬は、鍋を見たまま言った。
「全部ゴミから作った」
「知っています」
「捨てられたものだ」
「知っています」
「それでも、使えるものになる」
ティルネが、錬を見た。
何かを言いかけて、少し間を置いた。
「……フワレンは、捨てられたものが好きなんですか」
錬は、少し考えた。
「好きというより」
「というより?」
「捨てられたものを見ると、手が動く。ずっとそうだった」
「なぜですか」
「わからない。子供の頃からそうだった。壊れたものがあると直したくなる。捨てられたものがあると使えないか考える。理由がわからないまま、ずっとそうだった」
ティルネが、また拠点を見た。
錬も、ティルネの視線の先を見た。
養生シートとブルーシートの屋根。トタンの壁。番線と廃木材で組んだ骨格。ガムテープの灰色。古いカーテン生地の仕切り。全部、誰かが捨てたものだ。
そこに、雨上がりの光が差し込んでいる。
「……捨てられたものが、こんな場所を作るんですね」
ティルネが、静かに言った。
錬は答えなかった。
答える言葉が見つからなかった、というより、答えなくていいと思った。
【「フワレン。」】
「なに」
【「今日は何を作る。」】
「照明だ。夜が暗い」
【「照明か。何で作る。」】
「廃油と芯があれば作れる。油ランプだ」
【「原始的だな。」】
「動けばいい」
【「まあそうだな。……おまえ、今日なんか顔が違うぞ。」】
「どういう顔だ」
【「なんか……まあ、いいか。」】
K2が、言いかけてやめた。
ティルネが、錬を見た。
「……油ランプというのは」
「夜を明るくするものだ」
「また作るんですか」
「必要だから作る」
「いつ休むんですか」
錬は少し間を置いた。
「……やることがなくなったら休む」
「やることはなくなりますか」
「当分はならない」
「……そうですね。わたしも手伝います」
「助かる」
二人で作業を始めた。
廃油をドラム缶から少し取り出して、小さな金属の容器に入れる。芯は荷台から出てきた綿ロープを細く裂いたもので作った。油に芯を浸して、端を少し出す。
火をつけた。
小さな炎が、揺れた。
ティルネが、その炎を見ていた。
「……これで夜が明るくなるんですか」
「これ一つでは十分じゃない。いくつか作る」
「いくつ作れますか」
「廃油と芯が続く限り」
ティルネが、炎を見たまま言った。
「……フワレン、ありがとうございます」
「何が」
「全部、です。水も、食べ物も、屋根も、風呂も、石鹸も、照明も。全部」
錬は、次の芯を油に浸しながら、少し間を置いた。
「礼はいらない」
「……そうですか」
「……そうか」
炎が、二つになった。
雨上がりの空に、夕方の光が広がっている。
捨てられたものが積み重なって、ここに立っている。
まだ足りない。照明も、暖房も、塩も。やることは山ほどある。
でも今は、二つの炎が揺れている。
それで十分だ、と錬は思った。
今この瞬間だけは。




