第十話「雨が来た。屋根の強度を確認する」
翌朝、罠を確認しに行くと、三カ所のうち一カ所に小動物が掛かっていた。
兎に似た生き物だ。耳が長くて、毛が灰色。鼻が細く、目が大きい。この世界にしかいないものかもしれないが、見た目も構造も地球の兎とほぼ同じだった。
ティルネが確認して、うなずいた。
「……これは食べられます。逃亡中に何度か」
「捌き方は知っているか」
「知っています」
錬は少し間を置いた。
「任せる」
ティルネが、少し目を丸くした。
「……任せてもらえるんですか」
「お前の方が経験がある。それに速い」
「フワレンはできるんですか」
「できるが、初めてだ。お前がやった方が無駄が出ない」
ティルネが、また何か言いかけてやめた。
それから、静かにうなずいて、作業を始めた。
錬は拠点に戻った。
今日やることは決まっている。
☆
雨水収集の仕組みを作るのは、昨夜から決めていた。
雨が来ることはわかっていた。問題は来る前に準備が間に合うかどうかだ。
今ある屋根は養生シートとブルーシートの二重張りで、傾斜は北側に向けてある。雨水はその方向に流れる。流れていく先に集水口を作り、ホースで容器に誘導すれば貯められる。構造は単純だ。問題は容器と、ホースと、固定するための部品が揃うかどうかだった。
「K2、大きめの容器を出してくれ。蓋があるやつがいい」
【「ちょっと待て。」】
少しの間があって、圧縮板が動いた。
転がり出てきたのは、ポリタンクが二本。二十リットルと十リットル。どちらも蓋がついていた。
【「二本出た。どうだ。」】
K2の声に、わずかに得意げな気配がある。
「助かる」
【「どうだ、って言ってるんだが。」】
「だから助かると言った」
【「……もっと驚けよ。一本じゃなくて二本出したんだぞ。」】
「次はホースが必要だ」
【「聞いてるか?」】
「聞いてる。ホースを頼む」
またしばらく間があった。
【「……まあいい。」】
圧縮板がもう一度動いた。ホースが一本出てきた。長さは二メートルほど。接続部に少し錆が出ているが、使えないことはない。
錬は屋根の端に集水口を作り始めた。
養生シートの端を少し折り返して内側に溝を作る。水がそこに集まるように。溝の一番低い部分にホースの先端を差し込んで、番線で固定する。ホースのもう一方はポリタンクの口に繋ぐ。
もう一つ、仕掛けが必要だった。
屋根が乾いているときに溜まった埃や虫や枯れ葉が、最初の雨水に混じって流れてくる。それをそのまま貯水タンクに入れると、水が汚れる。最初の数リットルだけ別の小さな容器に流して、それが溢れてから本体タンクに切り替わる仕組みにする。ファーストフラッシュという方式だ。
手元にある部品で作った。小さな缶に穴を開けて中間に挟む。満杯になれば自然にタンクへ溢れる。
「K2、確認してくれ」
【「……構造は悪くない。ただ、屋根の傾斜が緩いと小雨のときに流れが遅くなる。大雨なら問題ないが。」】
「わかってる。小雨のときは川の水で補う。大雨のときに集中的に貯める設計にした」
【「なるほど。まあいいか。……ちゃんと考えてるな。」】
「当然だ」
【「当然だってよ。」】
その最後の一言を、錬は聞こえなかったことにした。
☆
ティルネが戻ってきたのは、昼前だった。
手に、きれいに処理した獲物を持っている。逃亡中に何度もやったのだろう、手際がよかった。
「……焼けばいいですか」
「煮た方がいい。出汁が取れる」
「出汁というのは」
「旨みが水に溶け出る。その水ごと食べると腹に溜まる。野菜か根菜があれば一緒に煮るといいが、今日は肉だけでも十分だ」
「鍋はありますか」
「昨日から用意している」
ティルネが、少し目を丸くした。
「……昨日から?」
「罠の設計を考えたとき、捕れる確率は五割以上だと判断した。捕れた場合に備えて、昨日のうちに鍋と水の準備をしておいた」
「……五割以上、というのはどうやって計算するんですか」
「足跡の数と、糞の新鮮さと、草の倒れ方からだいたいわかる。正確ではないが、目安にはなる」
「そんなことまでわかるんですか」
「本で読んだことと、昨日実際に見た痕跡を合わせた。経験があれば精度が上がる。俺はまだ一回目だから粗い」
ティルネが、少し呆れたような顔をした。しかし、呆れているだけではない何かが混じっていた。
「……本当に、全部考えているんですね」
「考えておかないと、困る場面で困る」
「疲れませんか」
「また同じことを聞くのか」
「また同じ答えが返ってくると思うので」
「わからない、だ」
「やっぱり」
ティルネが、小さく笑った。
鍋に水を入れて火にかけた。
煮え始めるまでの間、二人とも黙っていた。鍋が小さく音を立て始める。香草の匂いが立ち上る。
「……フワレン」
「なに」
「一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「フワレンは、もとの世界に帰りたいですか」
錬は、少し間を置いた。
「……考えていない」
「考えていない、というのは」
「帰れる方法があるかどうかわからない。方法がわからないことを考えても意味がない。だから考えていない」
「もし帰れるとしたら」
「……わからない」
ティルネが、鍋を見た。
「わたしが呼んだことを、やっぱり怒っていますか」
「怒っていない」
「本当に?」
「本当に。怒る気力がない、というより……怒る意味がわからなくなった」
「意味がわからない、というのは」
錬は、しばらく考えた。
「ここに来て、やることがある。やることがあると手が動く。手が動いていると、怒る暇がない。それが続いているうちに、怒っていたかどうかもわからなくなった」
ティルネが、錬を見た。
「……それは、怒っていないということですか」
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「自分の感情がよくわからないことがある」
ティルネが、また少しの間黙っていた。
「……そうですか」
「変か」
「……いいえ。少し、わかる気がします」
鍋が、沸き始めた。
☆
夜半過ぎに、雨が来た。
最初は静かだった。
葉を叩く音が、遠くからだんだん近づいてくる。最初は点在していた雨粒の音が、やがて面になって、屋根を叩く音が壁のように広がった。
錬は運転席で目を覚ました。雨が来る前から、何かあればすぐ外に出られるよう運転席で寝ていた。
体が緊張していた。眠っている間も、どこかで音を聞いていたらしい。
まず屋根の音を聞く。シートが叩かれている。次に、骨格から伝わる振動。問題ない範囲だ。
外に出た。
雨が激しかった。顔に当たる。目を細めながら、ヘッドランプ代わりに荷台の照明ランプを持って確認に行く。
ファーストフラッシュの容器が溢れていた。本体タンクへの切り替えが機能している。ホースの繋ぎ目から少し滲んでいるが、ポリタンクの外側を伝って地面に落ちているだけで、タンクの中身は汚れていない。許容範囲だ。
屋根の状態を見る。養生シートが雨を受けて少したわんでいるが、破れていない。水が設計通り北側へ流れていく。
問題なし。
戻ろうとして、小屋の入り口にティルネが立っているのを見た。
マントを羽織って、雨の向こうから錬を見ている。
「……起きていたんですか」
「雨音で」
「全部機能している。問題なかった」
「確認しに行ったんですか。この雨の中を」
「確認しないと眠れない」
ティルネが、少し黙った。
雨が続く。錬は濡れている。ティルネは軒下に立っている。
「……中に入ってください。濡れています」
「俺はいい」
「よくないです」
ティルネが、小屋の端に身を寄せて、場所を作った。
錬は少し躊躇してから、軒下に入った。肩が触れそうな距離だ。雨が屋根を叩く音が間近になる。
二人で、雨を聞いた。
屋根を叩く音。ホースを伝う音。タンクに水が溜まっていく、かすかな音。
「……雨漏りしませんね」
「計算通りだ」
「捨てられたもので作った屋根なのに」
「計算通りに組めば漏らない。材料は関係ない」
「……そうですね」
ティルネが、暗い拠点を見渡した。
雨の中でも、そこにあるものはそこにある。
「フワレン」
「なに」
「ここって、なんか……いいですね」
「何が」
「ちゃんとしているところが。雨が来ても、壊れない。それが——なんか、いいです」
錬は答えなかった。
ただ、雨の音を聞いていた。
【「……いい夜だな。」】
K2が、静かに言った。
「雨だぞ」
【「だから言ってる。」】
錬には、その意味がよくわからなかった。
ただ、悪くない夜だとは思った。隣にティルネがいて、屋根が雨を防いで、タンクに水が溜まっていく音がして。
悪くなかった。




