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ゴミ収集員の俺、壊れた廃材だけで異世界拠点を作ることにした  作者: 泣く子はビネガー


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1/9

第一話「転移先で最初にやることは、風向きと燃料残量の確認だ」

 朝の六時十七分。


 不破錬(ふわれん)は、ゴミを拾っていた。


 正確には「拾って荷台に放り込んでいた」だが、錬の中では同じことだ。誰かが捨てたものを、次の場所に運ぶ。その繰り返し。朝から夕方まで。三年間、ずっと。


 職業、ゴミ収集員。


 元職業、エンジニア。


 特記事項、なし。


 今日の担当は第四回収区画。住宅が密集した路地を縫うように走って、指定場所に積み上がった袋を次々と荷台に放り込む。重い。臭い。それがどうした。手を動かすだけだ。考えることは何もない。考える必要もない。


 それが、錬にとっての日常だった。




 光るものを見つけたのは、午前の最後の収集ポイントだった。


 ゴミ袋の山の脇。アスファルトの割れ目に、何かが引っかかっている。


 錬は特に考えず、手を伸ばした。


 小さなイヤリング。金属製。シルバーっぽい色だが、表面に細かい文様が彫り込んであって、素人目にも安物のアクセサリーとは違う何かだとわかる。デザインも見たことがない形をしていた。


 が、そんなことはどうでもいい。


 ゴミは、ゴミだ。


 荷台に放り込む。圧縮板が動く。終わり。次の路地へ。


 ——そこで、世界が終わった。




 光というより、「裏返し」という感覚だった。


 空間が内側から引っ張られて、ぐるりと反転して、それから何もわからなくなった。


 エンジンの振動が消えた。


 アスファルトの感触が消えた。


 排気ガスの匂いが消えた。


 代わりに届いてきたのは、葉の擦れる音と、鳥の鳴き声と、どこか遠くを流れる水の音だった。




 不破錬(ふわれん)は、目を開けた。


 フロントガラスの向こうに、木がある。


 森、だった。


 高い木々が視界を塞いで、葉の隙間から朝の光が斜めに差し込んでいる。地面は土。アスファルトではない。路地でも、住宅地でも、ビルでも、信号機でもなく、ただ木が生えているだけの場所だった。


 錬はシートに深く座ったまま、フロントガラスを見ていた。


 何も考えられなかった。


 正確には、「考えようとしても言葉にならない」状態だった。頭の中が真っ白というより、真っ白ですらなく、ただそこに木がある、という事実だけが目の前にある。心臓が、じわりと速くなっているのがわかった。手が、少し震えている。ハンドルを握っていた右手。気づいて、握り直した。


 深く、息を吸った。


 呼吸が少し乱れていた。自分でも気づかなかった。吐いて、もう一度吸う。


 それで少し、頭が戻ってきた。


 ——落ち着け。


 声に出したわけじゃない。ただ、頭の中でそう言い聞かせた。何度か繰り返した。エンジニアだった頃に身についた癖で、機械が暴走したときも、何かが壊れたときも、まずこれをやった。焦っても何も見えなくなる。落ち着いてから見れば、何がどうなっているか、わかる。


 ゆっくりと、左のサイドミラーを見た。


 森。


 右のサイドミラーを見た。


 森。


 バックミラーを見た。


 森。


 エンジンを確認した。かかっている。燃料計を確認した。残量、半分弱。ブレーキを確認した。効いている。


 確認するたびに、少しずつ落ち着いてきた。わかることが増えると、頭が動き始める。いつもそういう順番だ。


 ドアを開けて、地面に降りた。


 土の感触。草の匂い。鳥の声。虫の声。


 最初の一歩、足元がわずかに頼りなかった。二歩目からはちゃんと歩けた。


 ゆっくりと車の周囲を一周した。タイヤ四本、異常なし。車体に目立った損傷なし。荷台の圧縮部も正常な位置に収まっている。


 空を見上げた。木々の隙間から青空が見える。太陽の位置から、南の方角はわかった。風は、西から東へ。弱い。


 もう一度、周囲を眺めた。


 木。木。木。木。木と。


 「……森か」


 誰に言うでもなく、呟いた。


 返事はない。鳥が一羽、近くの枝から飛び立っていくだけだ。


 声に出したら、少し笑えてきた。自分でも意外だった。笑えるなら、もう大丈夫だ。たぶん。


 錬はしゃがんで、地面の土を少しだけ指で掘った。湿り気がある。水脈はそう深くないかもしれない。立ち上がって、また空を見た。


 頭の中で、優先順位が並んでいく。


 まず水。次に火。次に雨風を凌ぐ屋根。その後に食料。燃料問題はもう少し後でいい、半分残っているなら今夜は動かせる。


 死んでいるのか、という問いは一瞬浮かんだ。


 が、腹が減っている。喉も渇いている。死人に腹は減らないだろう。たぶん。


 では夢か。


 夢にしては、土の匂いがはっきりしすぎている。指先の感覚もある。頬を打つ風も冷たい。


 じゃあ、これは現実だ。


 今どこにいるかは、まだわからない。でも生きていて、腹が減っていて、燃料が半分ある。動ける。


 今どこにいるかより、今何が必要かの方が、ずっと大事だ。


 いつからそう考えるようになったのかは、もう覚えていない。


 錬は車に戻って、荷台の後部ハッチを開けた。




 荷台の中には、今朝回収したゴミが入っているはずだった。


 正確には「圧縮された今朝のゴミの塊」が詰まっているはずだった。


 扉を開けた瞬間、圧縮板が動いた。


 勝手に。


 逆方向に。


 ゴミが、出てくる。


 後ろ向きに吐き出されるように、袋や廃材やら何やらが次々と転がり出てくる。錬は素早く後退して、それを避けた。地面に積み重なっていくゴミの山を、無表情で眺める。


 鉄パイプ、数本。潰れた段ボール箱。ビニール袋の束。ペットボトル、バラバラの本数。古いホース、途中に穴がある。スポンジの切れ端。焦げた木材の端材。廃工具の残骸。古新聞の束。ロープ。割れたタイル。誰かが捨てた作業着、油まみれ。


 そして最後に、スマートフォンが一台、土の上に落ちた。


 画面が割れていた。


 盛大に。放射状にヒビが広がって、角が欠けて、よくこれで液晶が生きているものだと思うくらいだった。


 が、生きていた。


 画面が光っている。


 何かが、表示されている。


【「起動中……

起動中……

起動……完了。

よ。」】


 錬は、スマホを拾い上げた。


 画面を見る。


【「聞こえてるか?」】


 錬は何も言わなかった。


 スマホをひっくり返して裏側を確認した。バッテリーの状態。充電端子の形。外側のカメラの数。


【「なんで裏返してんだ。正面で話せ。」】


 文字が流れた。


 錬は正面に戻した。


【「よし。

俺はK2(けつ)

おまえは不破錬(ふわれん)でいいな。

今すごく色々聞きたいだろうと思うけど、

正直俺もほとんど把握できてない。

ただ、おまえが今必要なものは

なんとなくわかる。

なんのゴミが欲しい?」】


 錬は三秒ほど画面を見ていた。


 それから、地面に積み上がったゴミの山を眺めた。鉄パイプ。ビニール。ペットボトル。ホース。古新聞。


 一通り確認して、また画面に目を戻す。


「ペットボトル。二リットル以上のやつが複数あるとありがたい。あとホース、穴のないやつ。あと布か、目の細かい網」


【「浄水器か。

……考えること速いな。

ちょっと待て。」】


 荷台の圧縮板が、また動いた。


 ゆっくりと、何かが転がり出てくる。


 二リットルのペットボトル、三本。一本は蓋がない。一本は底が割れて、断面がギザギザだ。一本だけ、まともだった。


 続いて、古いホース。長さは一メートルほど。中間あたりに指が入るくらいの穴が開いている。


 最後に、薄いカーテンの切れ端。


【「こんなもんだ。

ゴメンな。状態は保証できない。」】


「わかった」


 返事をしながら、錬はもうゴミを手に取っていた。


 表情は変わらない。蓋のないペットボトルを手に取って、底の割れたやつと並べて見比べる。組み合わせて使う。こっちの底を切って逆さにして、こっちの口に繋げれば、一段分のろ過筒になる。ホースの穴はビニールテープがあれば塞げる。荷台のゴミにビニールテープは混じっていなかったが、ゴミ袋を細く裂いて巻けば代わりになる。


 頭の中で、設計図が動き始めた。


 何を、どの順で、どこに置くか。


 材料が揃わなければ、揃ったもので最善を作る。手が先に知っている。




 作業を始めて三十分ほど経ったとき、茂みが揺れた。


 錬は振り向かなかった。ペットボトルの底を切り取りながら、音だけを聞く。


 足音。人間のもの。一人。体重は軽い。足運びが急いでいる。逃げているか、追われているか。


 茂みが大きく揺れて、誰かが飛び出してきた。


 小柄な人物だった。


 深い赤茶の長い髪が乱れて、顔に張り付いている。泥で汚れたマントを羽織っていて、逃亡生活の疲れがその全身に滲んでいる。年齢は二十代くらい、か。琥珀色の目が、今は限界まで見開かれていた。


 息を切らして。足元がふらついて。


 その人物は、ゴミ収集車を見た。


 次に、地面に積み上がったゴミの山を見た。


 次に、ペットボトルを切りながらこちらを見ている錬を見た。


 口が、少し開いた。


「あ……あの——」


 日本語だった。


 声が震えている。


「ここは、どこ……ですか」


 錬は作業の手を止めずに答えた。


「俺も知らない」


 作業に戻る。


 沈黙が落ちた。


 相手は三秒ほど固まっていたが、それから何かを決意したように一歩前に出た。


「わたし、ティルネといいます。あなたは」


不破錬(ふわれん)


「フワレン……さん」


「さんはいらない」


「……フワレン」


「ああ」


 会話が止まった。


 錬はペットボトルを逆さにして、切り口を上にして持った。上から何を詰めるか、頭の中で並べる。布、砂利、砂、木炭。砂利は川岸から取ってくる。木炭は、荷台にあった焦げた木材の端材を砕けばなんとかなりそうだ。


 ティルネは、まだ立っていた。


 しばらくゴミの山を眺めて、それからまた錬を見た。


「……あの、フワレン」


「なに」


「なにを、作っているんですか」


「浄水器」


「じょう……すい……?」


「水を綺麗にするやつ」


「……川の水を、そのまま飲めばいいのでは」


 錬の手が、一瞬止まった。


「死にたいのか」


 ティルネが、びくっとした。


「そんな、大げさな」


「大げさじゃない。川の水には目に見えない菌がいる。腹を壊す。悪ければ死ぬ。川の見た目が綺麗かどうかは関係ない」


「でもわたし、逃亡中もずっと川の水を——」


「今まで運が良かっただけだ」


 断言。


 ティルネは口を閉じた。


 錬はまた木炭の端材を手に取って、石の上で細かく砕き始めた。黙々と。規則的なリズムで。


 ティルネは砕かれていく木炭を見つめて、それから、ぽつりと言った。


「……あの。わたしがあなたを、ここに呼んだんだと思います」


 手が止まった。


 止まって、また動いた。


「聞いてる」


「怒って、ないんですか」


「今は怒ってる暇がない」


「後で怒りますか」


 少し間があった。


「後で考える」


 ティルネは、しばらくその答えを飲み込んでいた。


 それから、諦めたように地面にしゃがんだ。


「……手伝えることはありますか」


 錬は砂利の話をした。川岸から粒の大きいものと細かいものを分けて取ってきてほしいこと。袋か入れ物になるものが必要なこと。


 ティルネは「わかりました」と言って立ち上がり、川の方向を確認してから、ゴミの山に向かった。それほど迷わずビニール袋を二枚引っ張り出して、錬の方を振り返る。


「これで、いいですか」


「いい」


「川はあちらです」


「知ってる。風の流れでだいたいわかった」


 ティルネが、また微妙な顔をした。


 何か言いたそうにしながら、結局何も言わずに歩き出す。


 その背中を見ながら、K2(けつ)の画面が光った。


【「なあフワレン。

呼んだ本人が出てきたぞ。

おまえ本当に怒らないのか。」】


 錬は画面を一瞥した。


「後でいい」


【「後でって何回言うんだ。」】


「今は浄水器が先だ」


【「……まあそっちが先か。

おまえらしい。」】




 川は、歩いて五分ほどの場所にあった。


 幅は五、六メートル。流れは緩やか。水は透明で、底の石まで見える。岸に砂と砂利が堆積している場所があった。


 錬は川岸にしゃがんで、水を手ですくった。匂いを嗅ぐ。舌先に少しだけつけて、すぐ吐き出した。


 ティルネが横から覗き込む。


「……どうでしたか」


「匂いは悪くない。ただ飲む前に必ず処理する」


「さっきの話ですね。菌」


「ああ」


 錬は砂利を手でかき集めながら、石の粒度を確認した。粗い砂利、細かい砂利、砂。必要な量を見積もる。ティルネはもう一枚のビニール袋に砂を詰め始めていた。言われなくても動いている。逃亡生活で、指示を待つより先に体が動く癖がついているのかもしれない。


 上流に目を向けると、流木の焦げた残骸があった。


「あれ、雷が落ちたか」


「……そうかもしれません。この辺りはよく嵐が来るので」


「中まで炭化してるといいが」


 錬は流木まで歩いて、焦げた部分を削ってみた。表面だけだった。中は木のままだ。使えない。


 戻りながら、代わりに荷台の焦げた端材を使う方向で設計を組み直す。あれなら砕いて砂と混ぜれば吸着層として機能する。完璧ではないが、最初の一日をしのぐには十分だ。


 ティルネが追いついてきた。


「……一つ聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「フワレンは、こういうことに慣れているんですか。突然知らない場所に来て、動じないというか」


 錬はしばらく答えなかった。


 砂利の袋を持ち直しながら、考える。


 慣れているか。


 そうかもしれない、とは思う。ただ正確には少し違う。慣れているのは「動じないこと」ではなく、「動じる前に手が動くこと」だ。壊れたものを見ると、何をすべきかが頭の中で勝手に並ぶ。怖いかどうかより先に、直せるかどうかが気になる。


 エンジニアだった頃からそうだった。ゴミ収集員になってからも、結局同じだった。


 理由は、よくわからない。


「まあ」


 短く答えて、歩き続けた。


 ティルネが、小走りで追いかけてくる。


「まあ、って何ですか」


「慣れてる、ということだ」


「以上ですか」


「今はそれで全部だ」


 ティルネが、盛大にため息をついた。


 錬には、そのため息の意味がよくわからなかった。




 拠点に戻ると、作業を再開した。


 焦げた端材を石の上で砕く。目の細かい粉になるまで。ティルネが砂利を粗い順に選別している。言い方一つ変えると、異世界の貴族が地べたに座ってゴミの砂利を選別している。


 ティルネはしゃがんで、砂と砂利を黙々と分けながら、また口を開いた。


「あの、フワレン」


「なに」


「K2って、なんですか」


 錬の手が、少し止まった。


「なぜそれを」


「さっき、あなたが画面を見て話しかけていたのが見えました。スマートフォン……でいいのか、あの割れた板みたいなものに」


 錬は、地面に置いてあるスマホを拾い上げた。


 画面は、さっきから光りっぱなしだ。


K2(けつ)


【「なんだ。」】


「話しかけられてる」


【「知ってる。聞こえてた。

……俺はK2だ。

とりあえずそこから始めよう。」】


 ティルネが、画面を覗き込んだ。


 文字を読んで、眉を寄せる。


「……これは、なんですか。板の中に人がいるんですか」


【「人じゃない。」】


「え、今返事をしましたか」


【「した。」】


「こ、この板が話している……?」


【「文字を読めるのか。おまえ日本語わかるの?」】


「に……ほんご、は、魔法の翻訳が——」


【「ふーん。まあいいや。俺はK2。

フワレンの……まあ、補佐みたいなもんだ。

よろしく。」】


 ティルネが、スマホと錬を交互に見た。


 三往復。


 それから、おずおずと言った。


「……板が生きている」


「生きてるというより喋ってる」


【「生きてるよ。」】


 ティルネがまたびくっとした。


「し、喋った」


「さっきも言ったが」


「落ち着いて受け入れていますね!?」


「起きてから三時間くらい経ってる」


「いや時間の問題じゃないと思います!」


 錬は木炭の粉を見てその量を確認しながら、ティルネの方を向かずに言った。


「ペットボトルに詰める前に一つ聞いておきたいんだが」


「は、はい」


「木を燃やせる場所は近くにあるか。今夜、火を起こしたい」


「……話を戻すんですか」


「浄水の仕上げに煮沸が必要だ。火がいる」


「その、木の板は」


K2(けつ)は後にしろ。水が先だ」


【「後回しにされた。」】


 ティルネが、ため息をついた。


 今日で二度目だった。意味はまた、よくわからなかった。




 それから二時間ほどかけて、浄水器の第一段階が完成した。


 見た目は、お世辞にもきれいとは言えなかった。


 ペットボトル三本がロープで木の枝から吊るされて、直列に繋がっている。つなぎ目はゴミ袋を裂いて巻いたもので固定されている。中には上から順に、カーテンの布、粗い砂利、細かい砂利、砂、木炭の粉、もう一枚の布が詰まっている。最後の一本の先端にホースが繋いであって、先をバケツ代わりの潰れた缶に向けていた。


 川の水をゆっくり流し込む。


 茶色がかった色が、一段ずつ透明になっていく。


 最後の一本から出てきた水は、ほとんど無色だった。


 ティルネが、隣で目を見開いた。


「……透けてる」


「まだ飲まない。煮沸が先だ」


「わかってます、でもすごい。さっきまで川の水だったのに」


「砂と炭でろ過しただけだ」


「なんでそんなことわかるんですか!?」


「知識があれば誰でもできる」


 ティルネが何か言いかけて、やめた。


 錬は焚き火の準備に入った。石を三角に並べて、乾いた草と細い枝を集める。ライターがゴミの中にあったのは確認していた。荷台を漁って引っ張り出す。着火した。火が出た。


 枝を足して、安定させる。鍋は、荷台のゴミの中に底の凹んだ寸胴鍋があった。穴はない。石で底を軽く叩いて、なんとか水平に近い形に直した。


 ティルネが、また眺めている。


「……さっきから」


「なに」


「あのゴミの山の中から、必要なものを次々と取り出していますね」


「そういうふうにできてるらしい」


「らしい、って」


「俺もよくわかってない。今朝から始まったことだ」


【「召喚システムって説明すんのめんどくさいから後にしてもいい?」】


「後でいい」


「何を後でいいと言っているんですか」


「K2が説明を後にしたいと言っている」


「……あの板はここにいないのに聞こえているんですか」


「常に見てるらしい」


【「見てるよ。」】


 ティルネが、スマホをじっと見た。


 それから、少し距離を取った。




 水が沸いた。


 ぼこぼこと、小さな泡が立ち上がる。グラグラになるまで待って、それから冷ます。冷めたら飲める。今夜分と明日の朝分は確保できる。


 日が傾いてきていた。


 夕方だ、と錬は思った。


 今日一日で水の確保まではできた。次は屋根が必要だ。今夜は車の中で凌げるが、ティルネの分を考えると何か作った方がいい。材料は荷台にある。明日の朝、取り掛かれる。


 ティルネが隣に来て、沸く水を見ていた。


「……今日だけで、ずいぶん色々作りましたね」


「浄水器と焚き火と鍋だ。大したものじゃない」


「大したものです」


「これが最低限だ。明日は屋根を作る」


「屋根……」


「雨が降ったら困る。あと地面に直接寝ると体温が奪われる。今夜は車の中に入れ」


 ティルネが、収集車を見た。


 水色と白のツートン。側面に薄れた塗装の跡。後部に荷台。


「……あの車の中に、入っていいんですか」


「助手席なら」


「どちらが助手席ですか」


「左側。運転席は右だ」


「な、なるほど」


 ティルネは車に近づいて、おそるおそるドアを開けた。


 中を覗いて、また錬を振り返る。


「……中が、ちゃんとしてますね」


「当たり前だ」


「人の乗り物みたいです」


「人の乗り物だ。俺が乗って運転する」


「この世界でも動くんですか」


「燃料がある間は」


 ティルネが助手席に座った。座り心地を確かめるように、少し体を動かす。


「……座れます」


「当たり前だ」


「いやでも、外から見るとゴミ置き場みたいだったので」


「ゴミは荷台だ。俺はキャブに乗る」


「……キャブ?」


「運転席側のこと。外見は関係ない」


【「どっちもどっちでは。」】


 錬は画面を一瞥して、無視した。




 夜になった。


 焚き火が落ち着いた頃、錬は運転席に戻った。シートを倒して、作業着のままで横になる。


 ティルネは助手席で、毛布代わりにマントを体に巻いていた。


 しばらく沈黙が続いた。


 窓の外に星が見えた。日本で見るものとは並びが違う。確認ではなく、ただそれを眺めた。


「……フワレン」


「なに」


「わたしのことを、怒っていますか。呼んだことを」


 答えない。


 ティルネが、続ける。


「わたしのイヤリングがあなたの世界に飛んでいって、それをあなたが拾って、それでここに来ることになったと……そう理解しています。意図してではなかったんですが、結果的にわたしがあなたをここに連れてきた。それは、謝らないといけないと思っていて」


 錬は目を閉じたまま、少し考えた。


「謝ることはない」


「でも——」


「向こうの生活に、特に帰りたいものがあったわけじゃない。仕事も、誰かに言われた場所でゴミを拾うだけだった」


 言ってから、少し口を閉じた。


 余計なことを言った、と思った。


 ティルネは黙っていた。聞いていたのか、聞いていなかったのか、わからない。


【「余計なこと言ったな。」】


「うるさい」


「え、わたしですか」


「K2だ」


【「俺だよ。

でも正直に言ったのはよかったと思う。

おまえにしては。」】


「うるさい」


【「二回言うな。」】


 ティルネが、小さく笑った。


 また笑うんだな、と錬は思った。


 今日二度目だ。


「……奇妙な板ですね」


K2(けつ)だ」


「K2。……正直に言えて、よかったです。わたしも」


 返事をしなかった。


 窓の外で、焚き火の残り火が揺れている。星が動いていく。


 明日、屋根を作る。


 設計図は、荷台から出てきた古新聞の余白に書けばいい。寸法を書いて、使える材料を洗い出して、組み立て順を決める。鉄パイプが何本あって、ロープの長さはどれくらいあって、ブルーシートは荷台のゴミに混じっているか確認が必要だ。


 やることは山ほどある。


 怖がる暇も、途方に暮れる暇も、本当にない。


【「フワレン。」】


「なに」


【「よくわかんないとこに飛んできて、

よくわかんないAIと話して、

よくわかんない女と出会って、

それでその顔か。」】


 錬は、目を閉じたまま答えた。


「どんな顔だ」


【「何も変わらない顔。

なんも動じてない顔。

それが一番ムカつく。」】


 錬は何も言わなかった。


 そういう顔かどうか、自分ではよくわからない。


 ただ、壊れたものを前にすると頭が動く。捨てられたものを見ると、なぜか落ち着く。気づけばずっとそういう人間だ。エンジニアだった頃も、ゴミ収集員になってからも。


 理由は、今もわからない。


 考えてもわからないことを、寝る前に考えるのは向いていない。


「明日、屋根を作る。材料の確認が必要だ。早めに起きる」


【「了解。

アラーム設定しておく。」】


「頼む」


 しばらく沈黙。


 ティルネの息が、少しずつ穏やかになっていく。眠ったか、眠りかけているか。


 錬も、目を閉じた。


 捨てられた車の中で。捨てられたゴミに囲まれた森の中で。


 どこにいるかは、まだわからない。


 でも明日、やることは決まっている。


 屋根を作る。


 新しい紙に、設計図を引く。


 捨てられた紙でいい。

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