ノイズ
一週間、凪紗の路上ライブに行かなかった。
いや、わかってる。行かなかったんじゃない。遠回りのルートに足を向けて、途中で引き返した。三回。
仕事にも集中できなかった。モニターに凪紗の音声波形が表示されるたびに、手が止まった。データだ。これはデータだ。周波数と振幅と時間変化の記録だ。それだけのはずだ。
瀬尾のスポンサード契約は進行していた。凪紗はまだ返事をしていないらしい。
原因を特定しろ。俺はいつもそうやって問題を処理してきた。変数を洗い出して、因果を辿って、原因を突き止める。今の状態を分析しろ。何が起きている。
仕事で凪紗の声を扱っていることが問題なのか。それなら案件を降りればいい。三崎に言えばいい。合理的な判断だ。
違う。問題はそこじゃない。
凪紗に嘘をついたことが問題なのか。それなら事実を説明すればいい。最初から仕事で近づいたわけじゃないと。途中から仕事になったと。時系列を整理して、論理的に伝えればいい。
それも違う。
じゃあ何だ。何が原因だ。
凪紗が「ありがとう、聴いてくれて」と言わなかった。あの瞬間から、俺の中の何かが正常に動いていない。出力がおかしい。食事の味がしない。プレイリストが耳に入らない。モニターの数字が頭に残らない。
変数を特定しろ。凪紗の——凪紗の笑顔が——。
それは変数じゃない。
俺は椅子の背にもたれて、天井を見た。青白いダウンライト。会社の天井はいつもこの色だ。〈グランドライン〉の天井は低くて暖かい色で、凪紗の声が反射して——。
やめろ。分析しろ。
…分析するんだ。
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二週目の水曜日。歩いて帰った。遠回りのルート。今度は引き返さなかった。
広場に、凪紗はいた。
小さなアンプとギター。聴いている人は数人。いつもと同じだ。凪紗は自分の歌を歌っていた。俺がいてもいなくても、凪紗はここで歌う。
離れた場所に立って、聴いた。イヤホンはしていない。データもない。凪紗の声は聴こえている。前と同じ声だ。同じギターの音だ。でも、カレー屋で隣に座っていたときの温度がない。凪紗の肩が腕に触れる距離が、今はない。
歌が終わった。数人が拍手して、散っていく。
凪紗がギターケースを片付け始めた。紙袋にペットボトルとチラシと充電ケーブルを雑に突っ込んでいる。いつも通りだ。はみ出している。いつも通りだ。
俺はその場から動けなかった。
凪紗がこっちを見た。
目が合った。凪紗は少しの間、何も言わなかった。片付けの手が止まって、それからまた動いて、紙袋の口を折り畳んだ。
それから、俺のほうに歩いてきた。
「……大丈夫?」
予想していなかった。
俺は凪紗を避けていた。嘘をついていた。信頼を裏切った。なのに彼女は、俺の顔を見て、心配している。
「なんで——」
「しんどそうな顔してるから?」
凪紗は首をかしげた。怒っている顔ではなかった。前みたいに笑ってもいなかった。ただ、目の前の人間がしんどそうだから声をかけた。それだけの顔だった。
傷つけたのは俺だ。
なのに俺は彼女に気を遣わせている――
「座って話せる?」
凪紗は少し迷った。目が一瞬横に動いて、それから俺に戻った。
「いいよ」
広場のベンチに並んで座った。冬の空気が冷たかった。凪紗がいる側だけ、わずかにあたたかい気がした。気のせいかもしれない。凪紗はペットボトルの水を飲んでいた。
俺は何から話せばいいかわからなかった。データなら正確に伝えられる。数値と因果関係を並べれば、誰にでも伝わる。でもこれはデータじゃない。自分の中にあるものを、自分の言葉で、目の前の人間に伝える。モデルがない。テンプレートがない。どんな言葉を選べば正確に届くのか、わからない。
いや、完璧じゃなくてもいいんだ。
「最初から仕事で来たんじゃない」
凪紗はこっちを見た。
「イヤホンのバッテリーが切れて、たまたま歌が聴こえて。なんで止まったのかはわからない。今もわからない。でも聴きに来たかったのは——それは本当だ」
うまく話せなかった。順序が前後する。言葉が足りない。「本当だ」と言っているのに、全然証明できない。データがないから。
「途中から仕事になった。会社で凪紗の名前が出て、声の調査を任された。そのとき言うべきだった。言えなかった。言ったら——」
「言ったら?」
「もうここに来れなくなると思った」
口に出してから、それが本当の理由だと気づいた。データの信頼性でも、業務上の利害関係でもなかった。凪紗に嫌われるのが怖かった。こうやって並んで座ることが、なくなるのが。
「……ごめん」
沈黙が落ちた。広場を通り過ぎる人の足音。遠くの信号機の電子音。どこかの店のドアが開いて、暖かい空気が一瞬だけ漂ってきた。
「イヤホンのバッテリー切れたの?」
凪紗が言った。
「……え?」
「最初のとき。それで私の歌聴こえたんだ」
「そう、です」
凪紗は少し笑った。小さくて、静かな笑い方だった。前みたいな、理由のない笑い方ではなかった。
「バッテリーに感謝だね」
俺は何も言えなかった。
凪紗は立ち上がって、ギターケースを肩にかけた。紙袋を持ち上げて、またペットボトルがはみ出した。
「あの契約、断ったよ」
「……」
「〈グランドライン〉のオーナーには申し訳ないと思ってる。迷った。すごく迷った」
凪紗の声は、いつもより少しだけ低かった。迷ったと言った。凪紗が迷ったと言うのを、俺は初めて聞いた。
「でも、声は私のものだから。歪んでても、正確じゃなくても、私の声だから。それを誰かに渡すのは——やっぱり嫌だった」
凪紗はそう言って、少しだけ間を置いた。
「陸さんがいてもいなくても、断ってたよ」
その一言は、優しかった。俺のせいじゃないと言ってくれている。でも同時に、俺がいてもいなくても凪紗の答えは変わらなかったという事実が、胸のどこかに刺さった。俺は凪紗の世界の変数ですらなかった。
「ライブ、来週もやるから」
凪紗はそう言った。招待でも許可でもなかった。来週もライブをやる。それだけの事実。来るか来ないかは俺が決めること。
凪紗は手を振って、歩いていった。白いニットの背中が、街灯の下で遠ざかっていく。紙袋からチラシがはみ出している。
俺はベンチに座ったまま、しばらくその背中を見ていた。
それから立ち上がって、鞄からイヤホンを出した。手の中で少し転がして——ポケットに戻した。
帰り道、街の音が聴こえていた。電車のブレーキ、風、看板の軋み、どこかのライブハウスから漏れる低音。最適化されていない、雑多な音。何の意味もない音。でも、聴こえていた。
俺はそれを聴きながら歩いた。




