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ノイズ  作者: noriduke
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残響

三日後の帰り道、また遠回りした。


彼女はいた。同じ場所、同じアンプ、同じギター。風が吹くと、短い髪が頬にかかった。彼女はギターを弾きながら、頭を小さく振ってそれを払った。聴いている人は前回より少し多い。俺は少し離れた場所に立って聴いた。イヤホンはつけていなかった。バッテリーは充電してあったが、つけなかった。また充電が切れたら困る。


歌が終わると、彼女とまた目があった。


「あ、また来てくれた」


「たまたま通りかかっただけです」


事実だ。遠回りの帰り道が、たまたまここを通る。


「たまたま二回目?」


「……自律神経にいいんです。歩くのが」


彼女は少し笑った。馬鹿にした笑い方ではなかった。「じゃあ自律神経のために、また来てね」


次の週も来た。その次の週も。自律神経のために。


彼女の名前が凪紗だと知ったのは、四回目のときだった。歌い終わりに配っていたチラシを受け取った。手書きのフライヤーに、ライブの日程と場所。下北沢〈グランドライン〉。隅に「凪紗」と書いてあった。


「今度の土曜、ライブやるの。よかったら来て」


「土曜は——」


予定はなかった。休日はいつも、部屋でオンラインゲームをするか、データを見ている。


「——行きます」


そうだ、いつもやってるゲームも飽きて来てたからちょうどいい。


土曜日。下北沢の地下に降りた。〈グランドライン〉は、俺が生まれる前からあるような顔をした場所だった。PA卓はテープで補修され、壁には画鋲の穴が何層にも重なっている。客は三十人ほど。


俺は最後列に立った。測定機器はない。ヘッドフォンもない。モニターもない。ただ、立っている。こうやって音楽を聴くのは何年ぶりだろう。思い出せなかった。


凪紗がステージに出てきた。路上よりもずっと近い。ギターを構えて、客席を見渡して、歌い始めた。歌うとき、少し顎が上がる癖があった。目を閉じるときと開けるときがあって、目を開けているときは客席の1人1人と目を合わせるように歌っていた。


路上で聴くのとは違った。天井の低い箱に声が反射して、空間が声で満たされる。うまく言えない。データで見れば説明できるのかもしれないが、データはない。俺の耳と、この空間と、凪紗の声だけがある。


終わったとき、周りが拍手していることに気づいて、遅れて拍手をした。


ライブの後、凪紗が出てきた。ギターケースを肩にかけて、もう片方の手に紙袋を持っている。袋の口からチラシの束とペットボトルと充電ケーブルが雑にはみ出していた。


「来てくれたんだ」


「約束したので」


「約束っていうか、チラシ渡しただけだけど?」


「……まあ、はい」


凪紗は笑った。紙袋からペットボトルが落ちた。俺が拾って渡すと、また袋に突っ込んだ。整理する気はないらしい。


「お腹空いたな。ごはん食べない?」


近くのカレー屋に入った。小さい店で、カウンター席しかない。隣に座ると、凪紗からほのかに汗と、柔軟剤の匂いがした。ライブの後だから当たり前だ。でも人の匂いをこんなに近くで感じたのは、ずいぶん久しぶりだった。


凪紗はチキンカレーを頼んで、一口食べて「おいしい」と言った。当たり前のことを当たり前に言う人だ。スプーンを持っていないほうの手で、髪を耳にかけた。


「お兄さん——あ、名前聞いてなかった」


「霧島です。霧島陸」


「陸さん。何の仕事してるの?」


「音楽関係の——データ分析みたいなことを」


嘘は言っていない。ただ、全部は言わなかった。


「へえ。楽しい?」


「楽しいよ。感情って数値化できるんだ。人がどこで感動してどこで泣くか、モデルで予測できる」


凪紗はスプーンを止めて、俺を見た。


「すごいね。……それって楽しいんだ」


否定ではなかった。ただ、何か不思議そうだった。俺が「楽しい」と言ったことの中身を、測っているような——


「凪紗さんは」


「凪紗でいいよ」


「……凪紗は、なんで歌ってるの」


「歌いたいから」


「それだけ?」


「それだけ」


凪紗はそう言ってから、カレーを一口食べて、少し考えるように天井を見た。


「完璧…じゃなくてもいいと思ってるんだよね。AIのほうが正確だし綺麗だと思う。でも歪んでても自分の形がいいんだ。型にはめられるの、昔から嫌いだから」


喋りすぎたかな、と凪紗は笑った。少し声のトーンが変わったような気がしたけど――それ以上は聞けなかった。聞けるほど、この人のことをまだ知らない。


「誰かに整えてもらうよりも、歪んだまんまのほうがいい」


俺には、その感覚はわからなかった。完璧に近づけるなら近づけたほうがいい。それが最適化だ。


でも「データがそう言っている」と口に出すのは、なんとなくためらわれた。この人の前では。


---


それからしばらく、俺は凪紗の路上ライブに通い続けた。


週に二回か三回。毎回いるわけではない。いるときは立ち止まって聴いた。ライブハウスにも二度行った。二度目のライブの後は、同じカレー屋に入った。凪紗はまたチキンカレーを頼んだ。「他のも食べたら」と言うと、「だってこれが好きなんだもん」と返された。こだわりがないようでいて、好きなものには頑固な人みたいだ。前回より自然に隣に座れた。凪紗の肩が、ときどき俺の腕にかすかに触れた。凪紗は気にしていないようだった。


凪紗と話すのは、不思議な時間だった。


俺がうまく話せないことを、凪紗は気にしなかった。沈黙が続いても平気な人だった。俺は沈黙が苦手だ。何か言わなければと思う。でも凪紗は黙ったまま笑っていることができる人で、その沈黙は埋める必要がなかった。カレー屋のカウンターに並んで座って、凪紗がスプーンでカレーをすくう音と、店のラジオから流れる古い歌謡曲と、それだけで良かった。


会社ではモデルの構築と修正の日々が続いていた。帰り道だけが変わった。最短ルートを通らなくなった。イヤホンをつけなくなった。遠回りの帰り道に、凪紗がいたりいなかったりする。いないときは少しがっかりして、いるときは少しほっとする。その「少し」を、俺はまだ何とも名づけていなかった。


ある夜、路上ライブの片付けを手伝った。アンプを持つと、思ったより重かった。


「毎回これ持って来てるの?」


「うん。電車で」


「……大変だろ」


「慣れたよ」


凪紗は軽く言った。ギターケースを背負って、もう片方の手にあの紙袋。相変わらず中身ははみ出している。俺がアンプを持って、駅まで並んで歩いた。冬の空気が冷たくて、凪紗は白い息を吐きながら、今日のライブの反省を独り言みたいに話していた。二曲目のサビで声がひっくり返ったこと。新曲の歌詞がまだしっくり来ないこと。話しながら、ときどき俺のほうを見上げた。凪紗は背が高いが、俺のほうがもう少し高い。見上げるとき、街灯の光が凪紗の目に入って、少し明るい茶色だと気づいた。


俺はほとんど相槌を打つだけだったが、凪紗はそれで構わないようだった。駅の改札の手前で「ありがとう、重かったでしょ」と笑って、手を振って、反対方向のホームに降りていった。改札を抜けてから、右腕にまだアンプの重さが残っている気がした。凪紗の肩にかかっていたギターケースのストラップが、少しだけずれていたのが目に焼きついていた。直してやればよかった、と思って少し後悔した。少し。


帰りの電車で、俺は窓に映る自分の顔を見た。少し笑っていた。自分でも気づかなかった。

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