地形
感情は地形だ。正しく測量すれば、どこに川が流れるかは予測できる。
俺の仕事は、その測量だ。
新しいAIシンガー〈リラ〉のリリース前テスト。一万二千人のテストリスナーから収集した感情反応データの評価レポートは、全項目Sランクだった。離脱率に関しては過去最高値。
評価は完璧だ。
だが二番のブリッジで心拍変動のパターンが0.4%、モデルの予測から逸れている。QAも通す数字だ。ただ、俺にはわかる。これはノイズじゃない。同じ水路に同じように水を流し続ければ、地形は変わる。三ヶ月前のキャリブレーションが、もうずれ始めている。
該当区間を元データから再構築した。差し替えて再テスト。0.4%が0.1%以内に収束する。
この修正に関する提案書を三崎——部門の部長だ——に出した。キャリブレーション頻度を四半期から月次に引き上げるべきだという内容。データも根拠もつけた。
翌日、三崎から一言で返ってきた。「コスト見合いで見送り」。
理由はわかる。月次に変えれば計算リソースも人的工数も跳ね上がる。経営判断としては正しい。でも地形は動いている。データがそう言っている。
「お前の提案、見送りだってな」
瀬尾だ。どこから聞いたのか、もう知っている。瀬尾は社内の情報を拾うのが速い。
「コスト見合いだってさ」
「まあ、そうなるだろうな。データ的には正しくても、上が動くにはストーリーがいるんだよ。見せ方の問題さ」
瀬尾ならうまくやるんだろう。プレゼンの見せ方、上層部の動かし方。瀬尾の社内コンペ企画は最終選考に残っている。同期で、仲は悪くない。ただ、瀬尾が評価されていくのを横目に見ていると、自分に何が足りないのか考えてしまう。データの精度では負けていない。なのに「見せ方」で差がつく。見せ方とは何だ。俺にはよくわからない。わかりたくもない。
退勤時間を過ぎても、0.4%のことを考えていた。ずれは加速する。次は二ヶ月で出るかもしれない。対策が必要なのに、手を打てない。
駅に向かう途中で、足が止まった。いつもの最短ルート。イヤホンをつけて、最適化プレイリストを流して、十二分で自宅に着く。ダメだ、十二分じゃ足りない。
遠回りして歩くことにした。自律神経を整えるには有酸素運動が有効だ。合理的な判断。
知らない通りを歩いた。商店街を抜けて、駅前の広場に出たあたりで、イヤホンのバッテリーが切れた。
最適化プレイリストが消えて、街の音が入ってきた。雑踏、信号機、居酒屋の換気扇。そこに混じって——歌声が聴こえた。
広場の端に、女が一人いた。小さなアンプとギター一本。足元にギターケースが開いてある。聴いている人は五、六人。
白いニットに黒いスカート。短い髪。広場の街灯の下で、目を閉じて歌っていた。
俺は立ち止まった。なぜ止まったのか、自分でもわからない。イヤホンのバッテリーが切れていなかったら、たぶんそのまま通り過ぎていた。
歌の内容は覚えていない。ギターのコードも追わなかった。ただ、声が聴こえていた。イヤホンを通さない、データに変換されていない、空気ごと届く声。
一曲終わって、聴いていた数人がぱらぱらと拍手した。彼女はギターを抱えたまま、ぺこりと頭を下げた。それから客席——というほどのものはないが——をゆっくり見渡して、俺と目が合った。
「ありがとう、聴いてくれて」
俺に言ったのか、全員に言ったのかわからなかった。でも目が合っていたから、俺に言われた気がした。
「……どうも」
それしか出てこなかった。二十六歳にもなって、知らない相手にまともな返事もできない。瀬尾ならもっと気の利いたことを言うだろう。
彼女は笑った。「また来てね」。
俺は曖昧にうなずいて、その場を離れた。帰り道、さっきの声のことを考えていた。癖で分析しようとした。あの周波数帯は——と考えかけて、やめた。疲れていたんだと思う。
翌日、会社で〈リラ〉の最終レポートを出した。0.4%はもう問題ない。完璧なモデル。完璧な数字。
帰り道、またあの広場を通った。自律神経のためだ。合理的な判断。
彼女はいなかった。




