第9話「反転するカースト」
文化祭の準備期間に入り、学園内は浮ついた熱気に包まれていた。
段ボールを抱えて廊下を行き交う生徒たち、ペンキの匂い、放課後の校内放送で流れるポップソング。
しかし、俺、月代凪にとって、この祭りの喧騒は針のむしろでしかなかった。
あの一件以来、表立った暴力はなくなったものの、陰湿な嫌がらせは水面下で続いていた。机の中に虫の死骸が入れられていたり、上履きが隠されたり。幼稚だが、精神を摩耗させるには十分な悪意だ。
俺は生徒会副会長としての責務を果たすため、実行委員たちへの指示出しや見回りに追われていた。
「月代くん、体育館のステージ装飾、まだ資材が届かないって」
「わかった。僕が確認してくる」
指示を飛ばしながら、俺は必死に平常心を保っていた。弱みを見せれば、彼らはさらに漬け込んでくる。
体育館へ向かう渡り廊下で、またしても彼らに遭遇した。
例の三人組だ。彼らはニヤニヤしながら行く手を阻む。
「よう、副会長。忙しそうだな」
「お前さ、文化祭の出し物、何やるの? 『オメガの生態観察』とかどうよ?」
クスクスと笑う声。周囲の生徒たちも遠巻きに見ているだけで、誰も助け舟を出そうとはしない。
これが、この学校の現実だ。ヒエラルキーの上位にいる彼らに逆らえば、次は自分が標的になる。
俺は無視して通り過ぎようとしたが、腕を掴まれた。
「無視すんなよ。おい、こいつからいい匂いすんぞ」
「マジ? やっぱ発情してんじゃねーの?」
男が俺の首筋に鼻を近づけようとした、その時だ。
ドォン!
凄まじい音が響き渡り、体育館の重い扉が蹴り開けられた。
その衝撃音に、全員の動きが止まる。
逆光の中に立っていたのは、ペンキで汚れたツナギを着て、手には巨大なローラーを持った桐島蓮だった。
髪をかき上げたその姿は、荒々しくも神々しい。
「……うるせえな。作業の邪魔だ」
蓮は低い声で言った。怒鳴っているわけではないのに、その声は体育館中によく響いた。
「レンじゃん。またお出ましかよ」
不良グループのリーダー格が苛立ちをあらわにする。
「お前、最近そいつとベタベタしすぎて気持ち悪いんだよ。まさかマジで掘ってんの?」
下劣な言葉が飛び交う。周囲の生徒たちが息を呑む気配がした。
蓮は表情一つ変えず、ゆっくりと俺たちの間へと歩みを進めた。
その手には、まだペンキの滴るローラー。
「おい、やめろよ。服が汚れるだろ」
男が後ずさる。
蓮は俺の前に立ち、彼らを見下ろした。
「勘違いすんな。俺はこいつを守ってんじゃねえ」
え、と俺は顔を上げる。
「俺はな、お前らみてえなのが視界に入るのが不愉快なんだよ。弱いものイジメでしか自尊心保てねえ雑魚が、偉そうな口利いてんじゃねえぞ」
空気が凍りついた。
学校一の有名不良である桐島蓮に、面と向かって「雑魚」と言われた彼らのプライドはズタズタだ。
「てめえ……言わせておけば……!」
男の一人が激昂して殴りかかろうとした。
だが、蓮の反応速度は人間離れしていた。
一瞬で男の腕を掴み、ひねり上げる。
「がっ、ぁぁぁ!」
男が悲鳴を上げて膝をつく。
蓮は冷ややかな目で見下ろしたまま言った。
「暴力で解決しようとするのも芸がねえな。まあ、俺も似たようなもんだが」
そして、蓮は周囲を見渡した。遠巻きに見ていた生徒たち、事なかれ主義を決め込んでいた実行委員たち、そして俺。
「よく聞け。こいつは月代凪だ。オメガだのベータだの、そんなもん関係ねえ。こいつはこの学校のために、誰よりも働いてる。文句があるなら、こいつ以上の仕事をしてから言え」
凛とした声が、体育館の天井に反響する。
「これ以上、こいつにつまんねえ手出しするやつがいたら、俺が相手になる。俺は根に持つタイプだからな、卒業まで追い込みかけてやるよ」
それは脅しであり、そして最強の守護宣言だった。
カーストが反転する音が聞こえた気がした。
これまで「数」と「悪意」で支配していた彼らが、圧倒的な「個」の力の前にひれ伏した瞬間だった。
腕を離された男たちは、赤っ恥をかかされた屈辱と恐怖に顔をゆがめ、捨て台詞もなく逃げ去っていった。
シンとした静寂の中、蓮が俺に向き直る。
「……怪我は」
ぶっきらぼうな問いかけ。
「ない、です。……ありがとう」
俺の声は震えていたが、それは恐怖ではなく、胸の奥から込み上げる熱い感情のせいだった。
蓮はため息をつき、ツナギのポケットから何かを取り出した。
缶バッジだ。手作りの、下手くそなイラストが描かれたもの。
「これ、クラスの出し物で作った余りだ。やるよ」
強引に俺のブレザーの襟にそれを付ける。
そこには『魔除け』と油性マジックで書かれていた。
「……ふふ、なんですかこれ」
俺は思わず吹き出した。
「俺のサイン入りだ。これ付けてれば、あのバカどもも寄ってこねえだろ」
蓮は照れ隠しのように鼻の下を擦る。
周囲の生徒たちが、俺たちの様子を見て、ポツリポツリと話し始めた。
「桐島くんって、意外といいやつなんじゃない?」
「ていうか、あの三人組、ざまぁみろって感じ」
風向きが変わった。
蓮の圧倒的なカリスマ性と、筋の通った行動が、よどんだ空気を浄化したのだ。
俺はその『魔除け』のバッジに指で触れた。
安っぽいブリキの感触が、どんな宝石よりも温かく感じられた。
文化祭の準備は続く。
でも、もう怖くない。
最強の「魔除け」と、最強の「共犯者」が、俺の隣にいるのだから。




