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狂犬アルファと秘密の優等生オメガ~屋上の共犯関係から始まる、とろけるような溺愛巣作り生活~  作者: 水凪しおん


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第8話「壊れた天秤」

 あの日、雨の中で蓮の部屋に転がり込んでから、俺、月代凪の世界は色を変えたようだった。


 熱に浮かされた夜の記憶は断片的だ。けれど、蓮の大きな手が額に触れる感触や、不器用にタオルケットを掛け直してくれる優しさ、そして何より、あの深い森のような匂いに包まれて眠った安堵感だけは、鮮烈に焼き付いていた。


 翌朝、熱が下がった俺を、蓮は何も聞かずに家まで送ってくれた。「風邪引いた友達を看病しただけだ」と親に言い訳できるようなアリバイ工作まで考えて。


 あの日以来、学校での俺たちは奇妙な距離感を保っていた。


 廊下ですれ違えば、蓮は短く片手を上げ、俺は軽く会釈を返す。言葉は交わさない。けれど、その一瞬の視線の交錯の中に、二人だけの秘密が共有されているという事実が、俺の胸を熱く焦がした。


 しかし、そんな淡い幸福感は、もろくも崩れ去る運命にあったらしい。


 オメガバースという不条理な世界において、平穏は長くは続かない。


 週明けの月曜日。教室の空気は先週以上に刺々しかった。


 俺が教室に入ると、数人の男子生徒がヒソヒソと話し込んでいた声がピタリと止む。その視線は好奇心と侮蔑、そして獲物を狙うハイエナのような底意地の悪さを孕んでいた。


「……おい、見たかよ、今の」


「やっぱり、あの噂マジじゃね?」


 噂。その言葉に心臓が早鐘を打つ。


 俺は平静を装って席につき、教科書を開いた。だが、文字は目に入らない。背中に突き刺さる無数の視線が、皮膚を焼き尽くすようだ。


 一時間目の休み時間、俺はトイレの個室に逃げ込んだ。


 ドアの鍵をかけ、ようやく大きく息を吐き出す。


 スマートフォンを取り出し、SNSを確認する。そこには、俺が恐れていた光景が広がっていた。


 裏掲示板に投稿された、一枚の写真。


 雨の日、公園のトイレの軒下で、蓮が俺に学ランを被せ、抱き寄せている写真だった。


 画質は悪い。遠くから盗撮されたものだろう。だが、そこに写っているのが学校一の不良である桐島蓮と、生徒会副会長の月代凪であることは、制服や背格好から明らかだった。


『優等生の正体見たりwww』


『ヤンキーの使い捨てオモチャかよ』


『男同士で抱き合ってるとかキモ』


 タイムラインを流れる無責任なコメントの羅列。悪意の濁流。


 その中に、一際目立つコメントがあった。


『こいつ、やっぱりオメガなんじゃね? 匂いで男たぶらかしてるとか?』


 血の気が引いた。


 一番知られたくない秘密。これまで必死に、身を削るような思いで隠し通してきた核心に、無遠慮な手が届こうとしている。


 もしオメガだとバレれば、俺の居場所はなくなる。進学推薦も取り消されるかもしれない。親からは勘当されるだろう。積み上げてきた全てが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちる未来が脳裏をよぎる。


 スマートフォンを持つ手が震え、床に落としそうになった時、外から足音が近づいてくるのが聞こえた。


「おい、月代。ここにいるんだろ?」


 下品な声。先日のイジメの主犯格、ベータの男子生徒たちだ。


 俺は息を殺した。


 ドアがドンドンと乱暴に叩かれる。


「出てこいよ。生徒会副会長サマが、こんなとこでコソコソ隠れてんじゃねえよ」


「それとも、発情してんのか? アルファの匂いが恋しいか?」


 嘲笑が響く。


 俺は耳を塞いだ。聞きたくない。


「桐島がいねえと何もできねえのかよ。あの狂犬もお前みたいなのに捕まって哀れだな」


 蓮の名前が出た瞬間、俺の中で何かが切れた。


 俺をののしるのはいい。でも、蓮を侮辱するのは許せない。あんなに優しくて、不器用で、誰よりも真っすぐなあの人を、こいつらごときに語る資格はない。


 俺は震える足で立ち上がり、鍵を開けた。


 ドアを開けると、三人の男子生徒がニヤニヤしながら立っていた。


「お、出てき……」


「訂正してください」


 俺の声は震えていたが、はっきりとしていた。


「僕のことは何を言ってもいい。でも、桐島くんのことは悪く言わないでください」


 彼らは一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐにサディスティックな笑みを浮かべた。


「はあ? 何様だよ。ヤンキーに守られて気が大きくなってんのか?」


 中心にいた男が、俺の肩を強く突き飛ばした。


 背中がタイル張りの壁にぶつかり、鈍い痛みが走る。


「生意気なんだよ、お前。成績がいいからって見下しやがって」


 彼らの動機は単純だ。コンプレックス。劣等感。自分より上にいる(と思っている)人間を引きずり下ろすことでしか、自尊心を保てない哀れな生き物。


 男の一人が、俺のポケットから無理やりスマートフォンを奪い取った。


「返して……!」


「見ろよこれ。あの写真見て震えてたのか? 傑作だな」


 彼らは俺の画面を見て爆笑する。


「なぁ、これもっと拡散しちゃおうぜ。全校生徒にメール一斉送信とかどう?」


「いいねえ。生徒会の権限使えばアドレスくらい割れるだろ?」


 恐怖で足がすくむ。そんなことをされたら、俺は終わりだ。


「やめ……やめてください、お願いします……」


 プライドも何もかも捨てて、俺は頭を下げた。


 それを見て、彼らは満足げに鼻を鳴らす。


「じゃあさ、証明してよ。お前がオメガじゃないって」


「え……?」


「今度の全校集会。あそこで宣言しろよ。『私は男好きの変態ではありません』ってな」


 無理難題だ。そんなことをすれば、さらに噂は広まり、面白おかしく消費されるだけだ。


 だが、断れば画像を拡散される。


 八方塞がりだった。


 その時、トイレの入り口に人影が現れた。


 逆光で表情は見えないが、そのたたずまいだけで誰だか分かった。


 まとう空気の重圧感が違う。


「……おい。トイレで随分と楽しそうだな」


 低く、重い声。


 蓮だ。


 男子生徒たちがびくりと肩を震わせて振り返る。


「き、桐島……」


「俺の名前を呼ぶな。口が腐る」


 蓮はポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりと近づいてきた。その目は、獲物を狩る直前の獣のように鋭く、冷たい。


「月代に何か用か? あいつはこれから俺とメシ食うんだよ」


「い、いや、俺たちはただ……話を……」


「話? あいにく、俺は耳が良いんだよ。お前らの汚ねえ会話が廊下まで聞こえてたぞ」


 蓮が一步踏み出すと、彼らは蜘蛛の子を散らすように後退る。


「そ、そうか。邪魔したな」


 男の一人が、慌てて俺のスマートフォンを床に放り投げた。


「行くぞ!」


 捨て台詞を吐いて、彼らは逃げるようにトイレから出ていった。


 静寂が戻る。


 俺は壁に背を預けたまま、へなへなと座り込んだ。


 緊張の糸が切れて、指先が動かない。


 蓮が近づいてきて、床に落ちたスマートフォンを拾い上げた。画面が割れていないか確認してから、無言で俺に差し出す。


「……ごめんなさい」


 俺は小さくつぶやいた。


「また、助けてもらって……迷惑、かけて……」


「迷惑だなんて思ってねえよ」


 蓮は短く答え、俺の腕を掴んで立たせた。


「ただ、一つだけ気に入らねえことがある」


「え……?」


「あいつらに頭下げてたことだ。なんで謝るんだよ。お前は何も悪くねえだろ」


 蓮の声には怒りが滲んでいた。でもそれは、俺に対する怒りではなく、俺が自分を大切にしないことへの憤りだった。


「だって……こうするしか……」


「天秤がおかしいんだよ」


 蓮は俺の肩を強く掴んだ。


「お前の尊厳と、あいつらのご機嫌取り。どっちが大事だ? 自分の価値を安売りするな」


 その言葉は、どんな慰めよりも胸に刺さった。


 自分の価値。そんなもの、考えたこともなかった。完璧な成績、親の期待、周囲の評価。それらを維持するためなら、自分の心なんてどうなってもいいと思っていた。


 でも、蓮は違うと言う。


 俺自身に価値があるのだと。


「……蓮くん」


 初めて、名前で呼んだ。


 蓮が一瞬目を見開き、それからふいと顔を背けた。耳が赤い。


「……とりあえず、ここを出るぞ。保健室で少し休め」


 俺の手を引いて歩き出すその背中は、どんなに冷たい風が吹いても揺るがない、頼もしい壁のようだった。


 まだ問題は何一つ解決していない。


 写真は残っているし、イジメは続くかもしれない。


 それでも、俺の手を引くこの温もりがある限り、まだ戦える気がした。


 壊れた天秤は、もう元には戻らないかもしれない。でも、新しい基準を、俺たちは見つけようとしていた。

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