第7話「境界線を越える熱」
幸い、俺のアパートは公園から近かった。
両親は店に出ていて不在だ。
ずぶ濡れのまま、意識が朦朧としている凪を抱えて、俺は自室へと転がり込んだ。
玄関の鍵を閉めた瞬間、世界から切り離されたような安堵感が押し寄せる。
「……っ、熱い……」
凪が苦しげにうめく。
顔は真っ赤で、呼吸が荒い。額に手を当てると、火傷しそうなほどの熱だ。
これがオメガの「発情」なのか、それともただの風邪なのか、経験のない俺には判断がつかない。だが、放置できないことは確かだ。
「風呂、沸いてねえから……とりあえず着替えろ」
俺は自分のTシャツとスウェットを引っ張り出し、凪に渡そうとしたが、あいつの手は力が入らず、ボタン一つ外すのにも難儀していた。
「……失礼するぞ」
俺は意を決して、凪の濡れたシャツのボタンに手をかけた。
指先が震えそうになるのを必死で抑える。
白い肌が露わになるにつれ、甘い香りが部屋中に充満していく。俺の本能が、目の前の存在を「番」として認識しそうになり、理性が警告音を鳴らす。
食いたい。自分のものにしたい。
そんな獣のような衝動が、腹の底から湧き上がってくる。
だが、今の凪は弱り切っている。ここで手を出したら、俺はただのレイプ魔だ。あの陰湿なイジメっ子たちと同じレベルに落ちぶれる。
俺は唇を噛み切りそうなほど強く噛み締め、理性で本能をねじ伏せた。
手早く濡れた服を脱がせ、大きなタオルでその体を拭き、乾いた服を着せる。
ベッドに寝かせ、布団をかけると、凪は少し落ち着いたようだった。
氷枕を用意し、額に乗せてやる。
「……ん……桐島、くん……いかないで……」
立ち去ろうとした俺の袖を、凪の細い指が掴んだ。
熱に潤んだ瞳が、すがるように俺を見ている。
「いかねえよ。水持ってくるだけだ」
「……ここに、いて。ひとりに、しないで」
それは、普段の気丈な優等生からは想像もできない、無防備で素直な言葉だった。
俺は観念して、ベッドの脇に座り込んだ。
「わかった。ここにいる」
凪の手を握り返す。その手は熱かったが、俺の手の平の冷たさを求めて、すり寄ってくる。
「桐島くんの手……おおきい。安心、する……」
凪が安らかな寝息を立て始めるまで、そう時間はかからなかった。
俺はその寝顔を見つめながら、自分の胸の中で暴れまわる心臓の音を聞いていた。
もう、ごまかせない。
ただの「気まぐれ」や「同情」なんかじゃない。
俺はこいつを、月代凪という存在を、誰にも渡したくないと思っている。
守りたい。笑顔にさせたい。俺の隣にいてほしい。
それは、紛れもない「恋」であり、アルファとしての「執着」だった。
雨はいつの間にか小降りになり、静かな夜が訪れていた。
だが、俺たち二人の関係という境界線は、この夜、確実に越えられてしまったのだ。
翌朝、熱が下がった凪が目覚めた時、俺たちはどんな顔をして向き合えばいいのだろう。
不安と、それ以上の期待を抱きながら、俺は握られた手を決して離さなかった。




