第6話「雨音と壊れた傘」
その日の天気予報は外れた。
夕方から降り出した雨は、夜になっても止む気配を見せず、アスファルトを激しく打ち付けていた。
湿った空気は匂いを運ぶ。
俺、桐島蓮は昇降口で立ち尽くしていた。傘を持っていないわけではない。ただ、嫌な予感がして足が動かなかったのだ。
案の定、職員室から戻ってきた凪の傘立てには、骨組みだけが無残に折れ曲がったビニール傘が残されていた。
「……あ」
凪が小さな声を漏らす。
それは落胆というより、諦観に近い響きだった。
「ひどいな」
俺が背後から声をかけると、凪は薄く笑った。
「仕方ないですね。コンビニまで走って、新しいのを買います」
「馬鹿言え。この土砂降りの中、走ったら風邪引くぞ」
ただでさえ、先日の件で心身ともに弱っているのだ。これ以上、凪に負荷をかけたくない。
それに、雨の日はオメガにとって危険だ。気圧の変化で体調を崩しやすいし、湿気でフェロモンが広がりやすい。今の凪は抑制剤の効果も不安定になっている。
「俺のとこ入れよ。送ってく」
俺は自分の傘を開いた。大きめの黒い傘だ。
「でも、桐島くんの家とは逆方向じゃ……」
「散歩のついでだ。ほら、行くぞ」
有無を言わさず歩き出す。凪は慌てて俺の傘の下に滑り込んだ。
傘の中は狭く、必然的に肩が触れ合う。
雨音が世界を遮断するカーテンのようだった。
この狭い空間だけが、俺たち二人の世界。
しかし、駅へ向かう途中、突風が吹いた。
バッ!
横殴りの雨が容赦なく吹き付け、俺の傘は煽られてひっくり返りそうになった。
「うわっ!」
二人とも、一瞬でずぶ濡れになった。
冷たい雨水がシャツを濡らし、肌に張り付く。
その時だ。
むせ返るような甘い香りが爆発した。
凪が、口元を押さえてうずくまる。
「っ、……はぁ、う……」
水に濡れたことで、体温が奪われ、同時に抑制剤の均衡が崩れたのか。雨の匂いと混じって、金木犀の香りが濃厚に立ち込める。
まずい。これはヒートの前兆に近い。
通りにはまだ人がいる。この匂いが広がれば、他のアルファを引き寄せてしまうかもしれない。
俺は咄嗟に学ランを脱ぎ、凪の頭から被せた。
「大人しくしてろ!」
自分のアルファとしてのフェロモンを意識的に放出する。威嚇のためではない。凪を包み込み、俺の匂いで上書きするために。
俺の匂いはシダーウッド。深い森の香りだ。
その匂いで、甘い花の香りを覆い隠す。
俗に言う「マーキング」に近い行為だが、今は手段を選んでいられない。
「……桐島、くんの、匂い……」
学ランの中で、凪がうわごとのようにつぶやく。
震える身体を抱き寄せ、俺は近くの公園のトイレの軒下へと駆け込んだ。
雨音はさらに激しさを増していた。
壊れた傘はもう役に立たない。
俺の腕の中で熱を発し始めた凪を守れるのは、俺の体温と、この匂いだけだった。




