第5話「教室の隅の捕食者たち」
凪と俺の距離が縮まるにつれ、周囲の空気には不穏な色が混じり始めていた。
異分子の結合は、安定した溶液に濁りを生む。
特に、優等生の凪がヤンキーの俺と親しくしているという事実は、クラスのカースト上位にいる連中――特に、凪のポジションを狙っているベータの男子グループにとっては、格好の攻撃材料となったらしい。
「最近、月代くん、様子おかしくない?」
「なんか不良と付き合ってるって噂だよ。幻滅だよね」
わざと聞こえるように囁かれる陰口。
凪は気にしていないふりをしているが、教科書をめくる指先が微かに震えているのを俺は見逃さなかった。
そして、嫌がらせは言葉の暴力だけでは済まなくなっていった。
体育の時間、更衣室で着替えようとした凪の体操服がなくなっていたり、移動教室から戻ると教科書がゴミ箱に捨てられていたり。
地味だが、精神を確実に削り取る陰湿なやり口だ。
凪は、それでも教師には言わなかった。
「大事にしたくないんです。僕が我慢すれば収まりますから」
屋上で二人きりになった時、凪は自嘲気味にそう言った。
その顔は、諦めに塗り固められた能面のようだった。
「我慢して収まるなら、警察はいらねえよ」
俺は苛立ちを隠さずに吐き捨てた。
「あいつら、お前が反撃しないのをいいことに調子に乗ってやがる。俺がシメてやろうか?」
「だめです!」
凪が珍しく強い口調で止めた。
「桐島くんが手を出したら、桐島くんが悪者になってしまいます。退学になるかもしれない。それだけは絶対に嫌です」
自分のことより俺の心配かよ。
このお人好しが。
胸の奥が熱くなるのと同時に、無力感に襲われる。
俺が動けば、余計に凪の立場が悪くなるかもしれない。ヤンキーに守ってもらっている弱い優等生、というレッテルは、プライドの高い凪を傷つけることになるだろう。
だが、事態は俺たちが躊躇している間に悪化していった。
ある日の放課後。
掃除当番だった俺がゴミ捨て場へ向かう途中、校舎裏の人気のない場所から、くぐもった声が聞こえた。
「お前さ、ちょっと調子乗ってんじゃねーの?」
「生徒会副会長だか知らねーけど、いい子ぶってんじゃねーよ」
下品な嘲笑と、何かを蹴るような音。
俺の足が止まる。
全身の血が逆流するような感覚。
間違いない。凪の声だ。
「やめ……て、ください」
「あ? 聞こえねーよ。もっと大きい声で言えよ、優等生サマ」
俺はゴミ袋をその場に放り投げ、音のする方へと走り出した。
理屈なんてどうでもいい。
俺の凪に、汚い手で触れるな。
本能が吠えていた。
校舎の角を曲がると、そこには三人の男子生徒に囲まれ、壁際に追い詰められた凪の姿があった。
その制服は泥で汚れ、髪は乱れている。
一人が凪の胸倉を掴み上げているのが見えた瞬間、俺の視界は真っ赤に染まった。
「てめえら、何してやがる」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、地を這うような唸り声になっていた。
捕食者の声だ。
三人が驚いて振り返る。
「き、桐島……!?」
「あ、アルファの……」
彼らの顔に恐怖が走る。
俺はゆっくりと歩み寄った。一歩踏み出すごとに、俺の体から威圧的なフェロモンが溢れ出し、空気を重く押しつぶしていく。
「その汚ねえ手を、今すぐ離せ」
命令だった。絶対的な上位者としての。
凪の胸倉を掴んでいた男が、悲鳴を上げて手を離し、尻餅をついた。
「ち、ちげーよ! 俺たちはただ……」
「消えろ」
言い訳など聞く耳持たない。
「二度とそいつに近づくな。次やったら、学校にいられなくしてやる」
具体的な暴力の行使など必要なかった。
本気で怒ったアルファの殺気は、それだけでベータの精神を粉砕するのに十分だった。
連中は情けない声を上げて逃げ去っていった。
静寂が戻る。
俺は大きく息を吐き、殺気を鎮めてから、へたり込んでいる凪の方へ向き直った。
「……怪我は」
尋ねようとした俺の言葉は、途中で止まった。
凪が震えながら、俺を見上げていた。その瞳には、恐怖の色が残っていた。
俺に向けられた恐怖ではないと分かっていても、胸が痛んだ。
「……ごめん。遅くなった」
俺は膝をつき、汚れた凪の頬を指先で拭った。
その手が、温かかった。
凪の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。




