第3話「保健室の秘密協定」
保健室特有の、アルコールと日向の混じった匂いが好きではなかった。それは弱さの匂いであり、逃避の匂いでもあるからだ。
だが、今の俺にとって、ここは思いがけない聖域となっていた。
カーテンで仕切られたベッドの中、凪は横になり、静かな寝息を立てている。
養護教諭は会議で不在。俺は「付き添い」という名目で、パイプ椅子に座ってあいつの寝顔を見守っていた。サボりの口実としては上等だが、妙に落ち着かない。
しばらくして、シーツが衣擦れの音を立てた。
「……桐島、くん?」
凪がゆっくりと目を開ける。潤んだ瞳が焦点を結ぶまで、数秒かかった。
「起きたか」
「僕、寝て……」
「一時間くらいな。今は五時間目の途中だ」
凪は慌てて起き上がろうとしたが、俺が手で制した。
「まだ寝てろ。顔色、戻ってねえぞ」
言われて、凪は力なく枕に沈み込む。天井を見つめるその横顔は、陶磁器のように美しく、そして今にも割れそうなほどもろい。
「……桐島くんは、どうしてそんなに優しいんですか」
不意に投げかけられた問いに、俺は言葉に詰まった。
「優しくなんかねえよ。気まぐれだ」
「気まぐれで、アルファがオメガを助けたりしません」
凪の声は静かだが、核心を突いていた。あいつはもう、俺に対して自分の正体を隠そうとしていない。
「僕、知ってるんです。アルファにとって、オメガは……ただの番候補でしかないって。本能が、そうさせるって」
凪は自分の身体を抱きしめるように腕を組んだ。
「だから、僕はベータになりたかった。普通に勉強して、普通に評価されて、誰かの所有物じゃなく、月代凪という個人として生きたかったんです」
その言葉には、血を吐くような切実さが滲んでいた。
優秀な成績も、生徒会の仕事も、全ては「オメガとしての価値」以外の部分で認められたいという叫びだったのか。
「うちの親、厳しいんです。もし僕がオメガとして問題を起こしたり、成績が落ちたりしたら……きっと見捨てられる」
独白のようにこぼれ落ちる言葉。
俺は黙って聞いていた。相槌も打たず、否定も肯定もせず。ただ、あいつの中に溜まった泥のような感情を吐き出させるために。
「薬、飲みすぎると体が鉛みたいに重くなるんです。思考も鈍くなって、自分が自分でなくなるような……でも、飲まないと怖い。自分がオメガだってバレたら、今までの努力が全部無駄になる気がして」
凪が唇を噛む。白かった唇に赤い血の色が滲む。
「馬鹿だな、お前」
俺がつぶやくと、凪はビクリと身体を強張らせた。
「無理して笑って、体ボロボロにして、それで手に入れた『完璧な優等生』の座が、お前にとっての幸せか?」
「……幸せじゃなくても、それしか生きる道がないなら」
「道なんか、いくらでもあるだろ」
俺は椅子から立ち上がり、ベッドの柵に手を置いた。
「俺を見てみろ。アルファのくせに勉強もしねえ、喧嘩っ早くて教師には目をつけられてる。底辺ヤンキーだ。でもな、俺は俺のやりたいように生きてる。誰かの期待に応えるために息をしてるわけじゃねえ」
凪が俺を見上げる。その瞳に、俺の顔が映っている。
「お前がオメガだろうがベータだろうが、俺には関係ねえ。お前は月代凪だろ。それ以外に何が必要なんだよ」
凪の瞳から、一筋の雫が零れ落ちた。
あいつは驚いたように頬に触れ、自分の涙に気づいたようだった。
「……桐島くんは、ずるいですね」
泣き笑いのような表情で、凪が言う。
「そんなふうに言われたら、頑張ってきた自分が惨めになるじゃないですか」
「惨めにはならねえよ。頑張ったのは事実だろ。ただ、方向修正が必要なだけだ」
俺はポケットから、小さな包み紙を取り出した。
「ほら、食え」
投げ渡したのは、チョコレートだ。さっき購買でコーヒーと一緒に買ったやつ。
「糖分補給。頭使いすぎてガス欠なんだよ、お前は」
凪は包み紙を開け、小さな茶色い欠片を口に含んだ。
「……甘い」
「だろ?」
「今まで食べた中で、一番美味しいかもしれません」
大げさな、と俺は笑った。
カーテンの隙間から差し込む西日が、凪の涙で濡れた頬をオレンジ色に染めている。
その時、俺たちは秘密の協定を結んだのかもしれない。
言葉にはしなかったけれど。
辛くなったらここに来る。俺がいる時は、仮面を外していい。
そんな、あいつだけの避難場所を守ること。それが、俺の新しい役割になった気がした。




