第2話「偽りの仮面と本当の匂い」
教室の空気は、いつもよどんでいる。
三十数人の人間が吐き出す二酸化炭素と、思春期特有の自意識、そして見えないヒエラルキーが絡み合い、息苦しいほどの粘度を持って漂っていた。
俺、桐島蓮は教室の一番後ろ、窓際の席で頬杖をつき、黒板の前で熱弁を振るう教師の声をBGMにしてまどろんでいた。
教師の声は右から左へ。内容は頭に残らない。だが、教室の前方、教卓のすぐそばに座るある人物の背中だけが、妙に意識に引っかかっていた。
月代凪。
昨日の屋上での出来事が嘘のように、今日の彼は完璧な優等生を演じきっていた。
背筋をピンと伸ばし、教師の言葉を丁寧にノートに書き留めている。時折、指名されて立ち上がり、模範的な解答を述べるその声は涼やかで、微塵の迷いも感じさせない。
「さすが月代だな。次の模試も期待しているぞ」
教師が満足げに頷く。
「はい。努力します」
凪は控えめに一礼して着席する。周囲からは羨望と、そして微かな嫉妬を含んだ視線が注がれる。
くだらない、と俺は内心で吐き捨てた。
あいつらの目は節穴か。
俺の位置からだと、凪の首筋が強張り、耳の後ろに冷や汗が浮かんでいるのが見て取れる。握りしめたシャープペンシルの指先は白くなり、ノートに走らせる文字は、よく見れば震えているかもしれない。
昨日の今日だ。あの強力な抑制剤の副作用が抜けているはずがない。
オメガであることを隠し、ベータとして、それもトップクラスの成績を維持し続けることの重圧。それは俺のようなアルファには想像もつかないほどの負荷なのだろう。
あいつは、薄氷の上を素足で歩いているようなものだ。いつ氷が割れて冷たい水底へ落ちるか分からない恐怖と隣り合わせで。
授業が終わり、休み時間になった途端、凪の席にはクラスメイトが集まった。
「ねえ月代くん、この問題教えて!」
「生徒会の資料、まだ終わらないんだけど手伝ってくれない?」
無邪気な頼み事の数々。それは信頼の証しのように見えるが、実態はただの依存であり、優等生に対する甘えだ。
凪は嫌な顔ひとつせず、柔らかな微笑みを浮かべて対応している。
「うん、いいよ。ここはこの公式を使って……」
「資料なら、僕が放課後チェックしておくから、机に置いておいて」
断らない。いや、断れないのか。
「いい人」という仮面を貼り付けられ、それを剥がすことを許されない道化。
見ているだけで胸くそが悪くなる。
俺は席を立ち、教室を出ようとした。その時だ。
ふと、凪の身体がぐらりと揺れた。
周囲の生徒たちは、ノートやスマートフォンに夢中で気づいていない。
凪は咄嗟に机の端に手をついて耐えようとしたが、指先が滑った。
倒れる。
そう思った瞬間、俺の身体は思考より先に動いていた。
机の間を縫うようにして距離を詰め、崩れ落ちそうになる凪の腕を掴んで引き上げる。
ガタッ!
椅子が倒れる音が教室に響き、喧騒が一瞬で静まり返った。
「……桐島?」
誰かがつぶやく。
俺の腕の中には、驚くほど軽い凪の身体があった。間近で見ると、その顔色は蝋細工のように白く、唇からは血の気が引いている。
「っ、す、すみませ……」
凪が蚊の鳴くような声で謝ろうとするのを、俺は遮った。
「目ぇ開けて歩けよ。ぶつかってきやがって」
わざとドスの効いた声を出して、周囲を威嚇するように見回す。
「チッ、邪魔だ。どけ」
クラスメイトたちが蜘蛛の子を散らすように道を開ける。俺は凪の腕を掴んだまま、強引に教室の外へと連れ出した。
廊下に出ると、冷ややかな空気が熱った頭を冷やしてくれる。
誰もいない階段の踊り場まで来て、俺はようやく凪の手を離した。
凪は壁に背を預け、肩で息をしている。
「……ありがとう、ございます」
消え入りそうな声だった。
「礼には及ばねえよ。見てて危なっかしくてイライラしただけだ」
「ごめんなさい……」
「謝るな」
俺の語気が少し強くなったのか、凪が肩をすくめる。
違う、威圧したいわけじゃない。
俺はため息をつき、ポケットから缶コーヒーを取り出した。さっき購買で買ったものの、ぬるくなってしまったやつだ。
「飲めるか? ブラックだけど」
差し出すと、凪はためらいがちにそれを受け取った。
「……いただきます」
冷たいスチールの缶を両手で包み込むようにして持つあいつの手は、まだ震えている。
その時、ふわりと香った。
まただ。昨日の屋上で感じた、あの金木犀の香り。
抑制剤が切れかかっているのか、それとも体調不良でコントロールが利かなくなっているのか。
今はまだ、鼻を近づけなければ分からない程度の淡い香りだ。だが、このまま教室に戻れば、勘の鋭いアルファなら気づくかもしれない。
「保健室、行けよ」
俺は壁にもたれかかり、あえて視線を外して言った。
「顔色、死人みてえだぞ」
「でも、次の授業は移動教室で……」
「サボれ。どうせ優等生のお前なら、一回くらい休んだって文句言われねえよ」
「そういうわけには……」
頑固なやつだ。
「じゃあ、俺が連れてく。体調不良の生徒を親切なヤンキーが運んでやったって言えば、俺の株も上がるだろ?」
冗談めかして言うと、凪はぽかんと口を開け、それから僅かに、本当に僅かに口元を緩めた。
「……ふふ。それ、桐島くんの株が上がるどころか、僕が脅されてるように見えませんか?」
「あー、確かに。カツアゲの現場に見えるかもな」
俺が肩をすくめると、凪の瞳に少しだけ光が戻った気がした。
それは、あいつが学校で見せる完璧な笑顔ではなく、どこか等身大の、年相応の少年の表情だった。
俺の心臓が、トクンと変な音を立てる。
その音が聞こえないように、俺はわざとらしく乱暴に髪をかき混ぜた。
「いいから行くぞ。倒れられたら迷惑だ」
先に歩き出す俺の背中に、軽い足音がついてくる。
二人の影が、午後の日差しに伸びて重なった。
その時だけは、学内のヒエラルキーも、アルファとオメガの壁も、関係ないように思えた。




