第10話「巣作りとシチュー」
文化祭が終わり、季節は晩秋へと移ろっていた。
肌寒さを感じるようになったある週末。俺は蓮のアパートに招かれていた。
「親父もお袋も旅行でいねえから、飯でも食いに来いよ」
そう誘われたのだ。
蓮の部屋は、意外なほど片付いていた。もっと雑然としているかと思ったが、物は少なく、シンプルで機能的だ。ただ、部屋の隅には山積みになった漫画やゲームがあり、そこだけ年相応の少年の部屋らしさを醸し出している。
しかし、何より特徴的だったのは、部屋の至る所に置かれたクッションやブランケットの多さだった。
ソファの上にはふわふわの毛布。床には厚手のラグ。ベッドの上には幾つもの枕。
まるで、小動物が冬眠するために整えた巣のようだ。
「適当に座っててくれ。今、仕上げるから」
蓮はキッチンに立ち、エプロンをつけて鍋をかき混ぜていた。
その背中が、学校での「狂犬」という異名とはあまりに不釣り合いで、俺は微笑ましさに頬が緩むのを止められなかった。
漂ってくるのは、甘く優しいクリームシチューの匂い。
俺は言われた通り、ソファに座った。置かれていたブランケットを膝にかける。
すると、ふわりと香った。
シダーウッドの香り。蓮の匂いだ。
この部屋にある全ての布製品に、蓮の匂いが染み込んでいる。
本来、自分の安息地を作るための「巣作り」という行為は、オメガの本能的行動と言われている。発情期や妊娠中に、パートナーの匂いのついたものを集めて、安心できる空間を作るのだ。
でも、この部屋は逆だ。
アルファである蓮が、無意識なのか意識的なのか、部屋中を自分の匂いと柔らかいもので満たしている。
まるで、俺を迎え入れるために。
俺がここで安心して息ができるように。
「できたぞ」
蓮が湯気の立つ皿を運んできた。
具だくさんのクリームシチューに、バゲット、サラダ。家庭的で温かみのある食卓。
「いただきます」
一口食べると、濃厚なミルクの味と野菜の甘みが口いっぱいに広がった。
「……美味しい」
心からの言葉が出た。
「そりゃどうも。店の手伝いで嫌ってほど作らされたからな」
蓮は照れくさそうに頬杖をつきながら、俺が食べるのを見ている。自分は食べないのかと思ったら、「俺は味見で腹いっぱいだ」と言った。
嘘だ。俺が美味しそうに食べるのを見て、満足しているだけだ。この人は、どこまで与えるのが好きなんだろう。
食事を終え、二人でソファに並んで座り、テレビで映画を観ることになった。
少し古いアクション映画だ。
蓮が、自然な動作で俺の肩にブランケットを掛け直してくれる。
「寒くないか?」
「うん、大丈夫。……暖かいよ」
部屋の暖房のせいだけじゃない。この空間そのものが、陽だまりのように暖かいのだ。
映画の途中、俺は不意に睡魔に襲われた。
お腹がいっぱいで、温かくて、安心できる匂いに包まれて。
ここ数ヶ月の緊張の糸が、完全に解けてしまったようだった。
俺の頭が、こくりと揺れて、隣の蓮の肩にもたれかかった。
「……お、おい」
蓮の戸惑う声が聞こえたが、俺はもう目を開けられなかった。
蓮は一瞬身を固くしたが、やがてそっと、俺の頭を自分の肩に乗せ直してくれた。そして、大きな手が俺の髪を優しく撫でる。
そのリズムが心地よくて、俺はさらに深い微睡みへと落ちていく。
意識が溶ける寸前、蓮が何かをつぶやいたのが聞こえた。
『……俺が、お前の居場所になってやる』
それは誓いのようだった。
オメガが作る巣は、自分を守るためのもの。
でも、アルファである蓮が作ったこの巣は、俺を守るための要塞であり、ゆりかごだった。
俺は夢うつつの中で、蓮の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
自分の金木犀の香りが、蓮のシダーウッドの香りに溶けて、新しい香りになっていく。
それは、「二人」という関係性が確立された証しのように思えた。
外の世界にはまだ冷たい風が吹いているかもしれない。親との問題も、進路のことも、何も解決していない。
でも今、この部屋にあるシチューの湯気と、毛布の温もりと、隣にいる人の鼓動だけが、俺にとっての真実だった。




