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ユキツリサカ

作者: あみれん

薄暗いオレンジ色の街灯に照らされた、人通りの少ない夜の商店街の通りを歩いていた。

商店街と言っても、通りの両側には数えるほどの店があるだけで、そのほとんがシャッターを下ろしている。

まだ夜の8時過ぎだったが、商店街全体が薄暗いせいか、まるで深夜に商店街を歩いているような、時間の感覚が少し狂ってしまったかの様な錯覚に陥る。

今はクリスマスシーズンの真っ最中だが、この商店街はそんな雰囲気を全く感じさせなかった。

私は顔に冷気が触れるのを避けるかの様に、下を向いて歩いていた。

吐き出される私の息は、真っ白な水蒸気となって冷たい夜の空気の中に溶けていく。

私は早くアパートに帰って熱いシャワーを浴びたかったので、自然と速足になっていた。

突然だった。

前から歩いて来た見知らぬ女性が、すれ違いざまに声をかけてきた。


「すみません、ユキツリサカをご存知ですか?」


その瞬間、私の足の歩みと呼吸が一瞬凍りついたかのように停止した。

女性は私を見て立ち止まっていたが、私は足元に短く映った自分の影を見ていた。

女性のすぐ後ろを歩いていた男性が、私と彼女の様子を見て怪訝そうな表情を浮かべながら、私の横を通り過ぎて行った。


「知りません」


私はぶっきらぼうにそう答えると、その場から逃げ去る様に速足で歩きだした。

見知らぬ人から「ユキツリサカ」を訊ねられたのはこれで3回目だ。

最初は2日前で、昨日、そしてたった今、いずれも私がこの商店街を歩いて帰宅している最中に、見知らぬ人から「ユキツリサカ」を3回も聞かれたのだ。

ユキツリサカ…いったい何のことだ、坂道の名前だろうか…だがこの町に住んで5年になるが、「ユキツリサカ」という地名は聞いたことがない。

インターネットで検索して調べてようかと思ったが、それでわかる様な事であればわざわざ人には尋ねないだろうと思い、放っておいていた。

私は、バッグからマフラーを取り出して首に巻き、家路を急いだ。


次の日、私は帰宅途中に駅前のラーメン屋で夕食を済ませて、いつものようにあの薄暗い商店街を歩いて自宅に向かっていた。

人通りの全くない商店街の通りを数分歩いたあたりで、ぼんやりと前方からこちらに向かって歩いてくる人影が現れた。

私は立ち止まってしまった。

そして小走りで逃げるように、5メートルほど先にあるコンビニに駆け込んでいた。

ほとんど反射的な行動だった。

あの人影が私に「ユキツリサカ」を訊ねてくる場面を想像してしまったのだ。

通りに面した雑誌コーナーで雑誌を立ち読みをしながら、ガラス越しにあの人影がコンビニの前を通り過ぎる瞬間を待った。

「ユキツリサカ」などという、まったく覚えのない地名を聞かれる事にうんざりしていた。

あの距離であれば、どんなにゆっくり歩いても、10分もあればこの店の前を通り過ぎる筈だ。

15分が経過した。

その間、駅方向から流れて来てこの店に立ち寄ったり、店の前を通り過ぎる数人の人々を目にしていたが、逆方向から来るはずのあの人影を目にすることはなかった。

私はタバコを1箱買ってからコンビニを出た。

コンビニの出入口付近で周囲を見渡し、あの人影がいないことを確認すると、耳を刺すような冷気に満ちた夜の商店街通りを再び歩き出した。


「ユキツリサカはどの辺りにありますか?」


背後から突然聞こえて来たその声は、私の心臓の鼓動を一気に跳ね上がらせた。

私は大きくため息をつき、後ろを振り向いた。

そこには、小柄な中年の女性が私を見て立っていた。


「いや、知りません」

私は、いきなり驚かされたせいで、少し語気が強くなっていた。


「知らないのですか?…」

その女性は眉を顰め、首を傾げた。


私は、女性のその反応に苛ついてしまい、さらに語気を強めて言った。


「駅前に交番があるので、そこで聞いてみてください!」

「交番?おかしいわね...ゆ・き・つ・り・さ・か、ですよ…」

「おかしいって、何がですか?」

「あなたなら、知っているはずだと…川上さん…」

「はぁ?あなた一体…誰なのですか!?」


女性は少し微笑むような表情を見せたかと思うと、上を見上げて、ふぅーっと小さな息をゆっくりと吐いた。

その吐いた息は寒さのせいか、白い綿菓子のような球体を描き、女性の口元辺りでくるくると回転しながら、ゆっくり消えていった。

するとその女性は何も答えずに無表情で、私が帰る方向へ向かって歩き出して行った。

私は去っていく女性の後姿をしばらく呆然と眺めていたが、急に薄気味が悪くなり駅に引き返すと、駅の構内を抜けて反対口に出た。

私の視界にあの奇妙な女性の姿を映しながら、彼女と同じ方向に歩くのは嫌だった。

スマホで時刻を確認すると、8時40分になっていた。

駅の反対側である北口は、普段私が降りる南口とは異なりビルや店の数が多く、クリスマス用にデコレーションされた色とりどりの光を放った繁華街が広がっている。

金曜日だったせいか、この時間でも人通りが多かった。

私は気分を落ち着かせるために、駅前のテナントビルの地下にあるバーに向かった。

テナントビルの地下に続く階段を降り、「Bar Schmid」と書かれたプレートが貼られたドアを開けた。

バーの店内には、10人ほどが座れるカウンターテーブルがあり、1組の若い男女が奥の席に座っていた。

私は、出入り口に近いカウンターの端の席に座り、バーボンのロックをオーダーしてタバコに火をつけた。

カウンターの奥の壁際にある背の高い格子状の棚には、様々な色と形をしたボトルが所狭しと並んでいる。

それらのボトルの表面は、床からライトアップされたオレンジ色の光を淡く映していて、まるで灯がともったランプの様に見える。

バーボンを飲みながら、その棚の光景を暫く眺めていると、次第に気分が落ち着いてきた。


雪つり坂…


「ユキツリサカ」と聞かされるたびに、私は勝手に「雪つり坂」という表記の地名をイメージしていたが、実際にはどう表記するのか、そして果たしてそれが地名なのかさえも全く分からなかった。

2杯目のバーボンをオーダーする時にバーテンダーに聞いてみたが、「ユキツリサカ」という地名や店の名前は聞いたことがないと言った。

やはり、そんな名のついた場所や店はこの近辺には存在しないのだ。

私に「ユキツリサカ」を訊ねてきた四人は、私が「知らない」と言うと、皆一様に微笑む様な表情を浮かべていた。

しかもさっきの女性は、「私なら知っているはずだ」と言いい、私の苗字まで知っていたのだ。

全てが不可解で不気味で、腹立たしかった。

彼女達の正体や目的は知る由もなかったが、少なくともターゲットは私であることは間違いない。

何故なら、私以外の人間が周囲にいたにもかかわらず、その中の誰一人として彼女達から呼び止められた人間がいなかったからだ。

そして、あの四人には何らかの関連があるはずだ。

偶然の一致とは思えない

新手の新興宗教の勧誘か、あるいは何かの悪徳商法の手口かも知れない。


いつの間にか、棚のボトルを照らすライトアップの光は濃いブルーに変わっていて、ボトルの表面は人工的で冷たく青いグラデーションの光で彩られていた。


私は、これ以上考えても仕方がない、と割り切り、今度また同じことを聞く人間が現れたら、正体を突き止めるために何らかの行動をとらなければならない、と考えていた。

場合によっては、その人間を交番に連れて行き、迷惑防止条例違反で訴える、と大袈裟に脅してもいいかも知れない。

少し酒が回っていたせいか、ついさっきまで私を覆っていた不安定で不愉快な精神状態を、なんとかコントロールすることができそうな気がしていた。

私は、氷が溶けた水で薄まった残りのバーボンを飲み干した。

会計を済ませ、店を出ようとした私をバーテンダーが呼び止めた。


「川上さん、実はこの店、明日からオーナーが変わるんですよ。それで、店の名前も変わってしまうんですけどね。でも、引き続き私はここで働かせてもらうことになっていますし、店の内装もこのままで、サービスの内容も大きくは変わりません。ですので、今後ともごひいきにお願います。新しい店の名前は、今度いらした時のサプライズ、ということで」


「そうなんですか、分かりました。新しい店の名前、楽しみしています」


私はそう言うと、店を後にした。


今週末は久しぶりに休日出勤から解放されて、休みを取ることができた。

夕方まで部屋でゆっくりと過ごし、午後7時頃に部屋を出て、午後11時頃まで駅周辺を当てもなくうろつきながら、私に「ユキツリサカ」を訊ねる人間が現れるのを待っていた。

だが、そんな人間は結局現れなかった。

私は部屋に戻り、なんだ、新興宗教や悪徳商法も土日は休みなのか、と冗談まじりに考えていたら、なんだか笑えてきた。

そうだ、こんなことで笑えているのだ、「ユキツリサカ」と訊ねてくる何者かの出現に対する自分の心構えはできているのだ。

明日からまた忙しい日々が待っている。

こんなことで私の精神状態をかき乱されてはならない。

けたたましいサイレンを響かせながら、アパートの前を救急車が通り過ぎていった。

2年前に近所に救急病院ができて以来、夜中にこのアパートの前を通る救急車のサイレン音によって、睡眠が妨げられることがしばしばあった。

私はショットグラスにバーボンを注ぎ、それを一気に呷ってから布団に潜り込んだ。


次の日、私は定時で会社を退社すると、駅前のビルの地下にある「Bar Schmid」に向かっていた。

今月中に片づけなければならない仕事が溜まっているので、定時で退社できるほど時間的な余裕はなかったのだが、とても残業をする気分にはなれなかった。

かと言って、真っすぐにアパートに戻る気にもなれなかった。

バーのある地下に通じる階段を降りると、バーのドアの両側に置かれているスタンド花が目に留まり、一瞬たじろいでしまった。

私は、金曜日に来た時にバーテンダーが言っていたことを思い出し、それが開店祝いの花であることを知った。

ドアを開けると、カウンターテーブルの半分ほどが客で埋まっていた。

出入口に近い端の席に座り、忙しそうな様子のバーテンダーにバーボンのロックをオーダーした。

スマホを取り出し、今日の昼休み時に送られてきたメールを見返した。

それは、5年前に別れた元妻が亡くなったことを知らせるメールだった。

送り主は、元妻の友人である女性からで、私も何度か会っている。

離婚してからしばらくの間、その友人の女性は元妻の様子を何度かメールで知らせてくれていた。


 差出人 michiko ishii

 件名 ご無沙汰しております、石井です。

 宛先 川上さん


川上さん、ご無沙汰しております。石井です。

このメールをあなたに送るべきか随分と迷いました。

由梨が、先週の金曜日、夜の8時31分に他界しました。

由梨が回復する見込みのない重い病のために、3ヶ月ほど前から入院生活を送っていたのをご存じだったでしょうか?

彼女は亡くなる3日前に私に電話をかけてきて、突然あなたの事を話し始めたのです。

お二人が別れて以来、由梨の口からあなたの話を聞いたことがありませんでしたので、それは私にとって意外なことでした。

私は由梨が心配になり、彼女が亡くなるまでの3日間、毎日仕事帰りに彼女を見舞いに病院へ行きました。

病院の面会時間は夜の8時まででしたので、いつも1時間ほどしか彼女と話をすることができませんでしたが、彼女はその間、あなたの事ばかり話していました。

お二人が出会った頃の事や、楽しかった結婚生活の思い出を、ずっと私に話していたのです。

特に、川上さんのお誕生日の為に由梨が考えた「宝探しゲーム」のことを、とても楽しそうに話してくれました。

由梨が誕生日プレゼントを隠した場所を示す暗号カードを作り、それを川上さんが結局解くことが出来なくて、最後には川上さんが怒り出す様子を自慢げに話していました。

その時の彼女の微笑む様な表情が、まだ鮮明に私の脳裏に焼き付いています。

由梨は私の帰り際に必ず、

「川上さんにとって、私が良い思い出の一つであり続けられたらいいな」

と微笑みながら言っていました。

そして、こんなことも言っていました。

「今ね、私、川上さんに暗号を送っているのよ」

私には、それが何のことかわかりませんでした。

彼女に聞いてみても、彼女はただ微笑むだけで、私には何も教えてくれませんでした。

川上さんは、何のことかお分かりになりますでしょうか?


彼女が亡くなった日、私は彼女の横に付き添っておりました。

彼女は亡くなる直前に、何かを話しているかの様に小さく唇を動かしていました。

私には、彼女があなたの名前を呼んでいる様に見えました。

そして彼女が息を引き取る瞬間、彼女の吐いた息が小さな雲のような白い塊になって、くるくると回りながら消えてゆきました。

それが彼女の最後でした。

    

お二人が別れてからもう5年になりますので、川上さんにこのことをお知らせしてよいものか、随分と悩みました。

でも、やはりどうしても知っていただきたかったのです。

私には、お二人が離婚された後も、由梨はずっと川上さんの事を思い続けていた様な気がしてなりません。

川上さんにとって、どうか由梨を大切な思い出の1つにしてあげて下さい。

勝手なお願いで本当に申し訳ございません。

これは由梨に頼まれたわけではなく、すべて私の一存でお願いさせていただいていることです。


寒い日が続きますが、どうかお体にお気をつけてお過ごしください。

長文メール失礼いたしました。


石井 道子


ここ2年間、由梨のことを思い出すことはほとんどなかったので、彼女が亡くなったことはもちろん、入院生活を送っていたことも知らなかった。

彼女との離婚の原因は私にあった。

それは今でもそう思っている。

由梨と別れてからの3年間は、彼女を思い出す度にいたたまれない気持ちになっていた。

私のメンタリティは、結婚生活を維持するにはあまりにも未熟だった。

由梨と離婚した後で気が付いた数々の私の未熟な行いを思うと、後悔の念で胸が押し潰されるようで、生きていくのが嫌になるほど、自分を恥じるようになっていた。

彼女との楽しかった思い出は今でも覚えているが、苦しさから逃れるために、あえてそれを封印するように自分をコントロールしてきたのだ。


彼女が私の誕生日のイベントとして考えた「宝さがしゲーム」はよく覚えている。

それは、私にとっては毎回難解なものだった。

彼女が私に与えるヒントというのは、時には数字の羅列だけだったり、時には幾何学模様だけだったりで、私には手の負えない暗号のような代物だった。

遂に解読を諦めた私は、ふてくされる振りをして宝さがしゲームを途中で放り出していた。

そんな私を、由梨は嬉しそうに微笑みながら見ていた。

私は、由梨の微笑む表情が好きだった。


そうだ、思い出した。

私がまだ高校生のころに経験した、少し不思議な話を彼女にした時のことだった。

私はある土曜日の夜に、近所に住む仲の良かったクラスメートの家に泊まりに行っていた。

夜中の2時か3時頃だっただろうか、音楽や映画の話で盛り上がっている最中に、私は何故か突然家に帰らなくてはならないと思ったのだ。

帰らなくてはならない理由など何もなかったが、ただそうしなければならない、と思ってしまったのだ。

私は、すっかり気分を害してしまったクラスメートに詫びをして帰宅した。

そして、布団に入ってから20分ほど経った時、入院していた祖父の死を知らせる電話が鳴ったのだ。

由梨は、私の祖父が亡くなる前に私に知らせに来たのだ、と言った。

私は単なる偶然だと言ったが、彼女はある本を持ち出してきて、その本のあるページを指し示した。

そこには確か、『離れた位置にある神経細胞間のコミュニケーションは、量子学的に成立する可能性がある』といったような事が書いてあったと思う。

何のことかわからない、と私が言うと、簡単に言うとテレパシーの事だ、と彼女は言い、その本の説明を始めた。

その本のタイトルや彼女が説明してくれた内容は全く覚えていないが、一生懸命に私にその本の内容を説明してくれた由梨の姿はよく覚えている。


「川上さん、お待たせして申し訳ありません。店のオーナーが変わって以来、なんだか忙しくて」


バーテンダーが、私の前にバーボンロックの入ったグラスを置いた。


「忙しいのは、いいことじゃないですか」


私はそう言ってタバコを取り出し、ライターを探したが、カバンにもコートのポケットにも入っていなかった。

会社のデスクにでも置き忘れてしまったのだろう。

私は、バーテンダーにライターを貸してほしい、と頼んだ。


私は由梨の結婚前の旧姓を思い出していたが、それは直ぐには浮かんでこなかった。

確か...つきさか…ゆり...そうだ、月坂由梨だ。

私の中の彼女の記憶は、やはり少し遠のいたものになってしまっていたのかもしれない。


バーテンダーがライターを私に渡しながら言った。


「このライター、新しい店の名前のロゴが入っているんですよ。差し上げますので、どうぞお使いください」


「ありがとうございます」


バーテンダーに礼を言い、タバコに火をつけ、そしてその黒いライターに刷られているロゴを見た。

白い文字で“Anagram”と書いてあった。

前の店の名前も変わっていたが、今度の店も変わった名前なんだな、と思いながらそのロゴを暫く眺めていた。


手に持っていた火のついたタバコの先端から、ひと塊の灰がテーブルの上にこぼれ落ちた。

不意にふっと、私の口から小さな笑いが漏れていた。

ユキツリサカ...

私の推測が正しければ、今回由梨が私に与えたヒントは、相変わらず私にとっては難解なものだった。

私は灰皿でタバコの火を消し、バーボングラスの中の美しい球体をした氷を見つめていた。

その氷の上に私の頬を伝わって生暖かい小さな水滴がこぼれ落ち、氷の表面を伝わって琥珀色の液体の中に溶けていった。

私はバーボンのグラスを口元に運ぶと、小さく呟いていた。


「ユキツリサカ…相変わらず難解なんだね、由梨、君が仕掛けてくる暗号は」

ーー 直ぐに気づけなくて…すまない


それから静かに、そしてゆっくりとバーボンを飲み干した。

苦味と共に、心の奥にわだかまっていたものが、少しずつ溶けていくのを感じていた。

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