閑話『わが友 ティトゥス〈前編〉』
ルキウス・ユリウス・カエサルとプブリウス・ルティリウス・ルプス が執政官の年(紀元前90年)十二月下旬、ローマ市内 スッブラ、カエサル
夏だろうと冬だろうとローマは年中いつだって騒がしい。だがそのけんそうは、ぼくガイウス・カエサルにとって心地のよいものだ。だって物静かなローマなんてぼくの生まれたこの街、ローマじゃない。人びとの熱気あふれる空気こそローマのローマたるゆえんなのだ。
ここ最近のぼくは、この熱を求めて朝早くから公共広場に向かうのが習慣になっている。太陽がアヴェンティヌスとカエリヌスの丘の間から顔を出す頃には、既に人々の声が響き渡っている。荷車のゴロゴロと軋んで転がる轍の音、革靴が石畳を踏みしめる乾いた音、そして何より人々の熱い息づかいが混じりあって、ローマという巨大な街の鼓動を形作っているのだ。
公共広場には様々な人々が集まっている。
白いトガをまとった元老院議員たちは重々しい足取りで神殿の前を歩いている。彼らの後を追う被庇護者たちは必死についていこうとして小走りになったり、時には転びそうになったりしている。商人たちは大声で値段を叫び、買い物客との値段交渉で手を振り回している。
そんな喧騒の中、演説台の近くには小さな人だまりができていて誰かが今のローマの政治について熱弁を振るっていた。
「今のローマには新しい血が必要だ!」
「古い慣習に縛られていてはこの共和国は立ち行かなくなる!」
「同盟市の連中には目にものを見せてやれ!」
「来年の執政官にはより強い権限を与えるべきだっ!」
こんな声を聞くとぼくの胸も熱くなる。まさにぼくが考えていることと同じじゃないか。しかしよく聞いてみるとそういう演説をしている人たちは具体的に何をしたいのかよくわからないことが多い。批判しても実際にどうやって具体化するまでは考えていないから。それじゃダメだな。
そんな喧騒ただよう寒冷の最中のローマに、ティトゥス・クリスプスが帰ってきた。初めて会った盛夏の頃となんら変わず彼は一人、他者とはまるで異なる雰囲気をその身にまとわせていた。…いや、少し雰囲気は変わったかな。例のアスクルムに居たのだから当然かもしれない。
ただ相変わらず静かで慎重そして何よりも思慮深いところは同じだな。彼の話を聞いていると、ぼくはまだまだ浅はかな考えしか持てていないことに気づかされる。だがそれでも、ぼくはぼくなりに考えを深めているつもりだ。叔父のルキウスやセクトゥスを通じて多くの情報に触れているからね。
ティトゥスとまた会うようになってからぼくの日常はさらに賑やかになったよ。ティトゥスから彼の目から見た世界のことを聞くことで、よりローマの熱を感じることができるようになった。楽しい時間が増えたこと、それがとっても嬉しい。
彼と会うのはたいてい公共広場の軒下かあるいは公衆浴場だ。浴場のほうがより多いかな。誰もがはだかになり身分の違いが見た目ではよく分からなくなる場所だからか、皆の話し声も普段より率直で生々しく、ぼくらも気兼ねなくいろいろな話ができている。
「ティトゥス、今のローマは元老院のやり方ではもう限界だ。古臭い連中が実権を握っている限り、ローマはこれ以上大きくなれないよ」
ある日、薄暗い浴場の一室でぼくはティトゥスにこう持論を展開した。石造りの壁に囲まれたこの空間では小さな話し声がこだまのように反響して、まるで神殿で祈りを捧げているかのごとく、厳かさすら漂っている。浴槽から湯気が立ち上る中で、周りには商人や職人、時には騎士階級の人々もいてみんなが自分の商売や政治の話に夢中になっていて、ぼくたちの会話など誰も気にしていない。
「あの政務官らを見ているとイライラするんだ」
「…」
「ルキウス伯父は執政官なのに『目に見えることだけが政治ではない。何も知らぬに若造が口を挟むものではない』なんて言うけれど、何も知らぬからこそ見えることもあるじゃないか」
「…カエサルはブレないね」
「そう?」
「そう。それでいいと思う。カエサルはそれがいい」
ティトゥスはいつものように静かに聞きながら、言葉少なく軽く頷いている。だけど彼の反応が薄くてもぼくはあまり気にしない。ティトゥスは内に秘めた思考をそう簡単には表に出さないのだ。でもその静けさの奥に何かが宿っているのを感じることができる。彼の瞳が時折見せる深い光は、ぼくなんかよりもずっと先のことを考えていると思わせる。それがたまらなく嬉しい。
実を言うと時々不安になることがある。自分がこんなに政治に夢中になっていて、果たして本当に正しい道を歩んでいるのだろうか、と。父は病気がちで、家の中のことを考えるだけでも大変なのに、ぼくは外のことばかりに気を取られているのではないか。母は何も言わないが、きっと心配しているに違いない。
そんな時、ティトゥスがそばにいてくれることが大きな支えになっている。彼は決して「頑張れ」とか「君は正しい」とか、安易な励ましの言葉を口にしない。ただ黙って話を聞き、時折的確な質問を投げかけてくるだけだ。でもその質問があまりにも核心を突いているので、ぼくは自分の考えをもう一度見つめ直すことができる。
「ぼくの母方の叔父になるマリウスじいは、昔はすごかったんだ。ユグルタ戦役での彼の功績は並外れている。敵を次々に撃破し、兵士たちの尊敬を一身に集めていた。まるで英雄だよ」
「マリウス…マリウス殿か。」
「そう、ガイウス・マリウス。6回の執政官経験をもつ英雄だ」
「マルクス・ヴァレリウス・コルウスと同じ6回だね」
「そのとおり!」
「共和制初期の伝説的な英雄で、ガリア人との一騎打ちで鴉の加護を得たという逸話…興味深いな」
「ティトゥスは物知りだなぁ」
ティトゥスが興味深そうに聞いているので、ついつい熱くなって語ってしまう。マリウスじいの話をするときのぼくは、きっと目を輝かせているのだろう。小さい頃の記憶が蘇ってくるからだ。
あの頃のマリウスじいは、本当に大きくて温かい人だった。ぼくが小さかった時、よく膝の上に乗せてくれて、戦場での冒険談を聞かせてくれた。ガリアの森での戦い、ゲルマンの大軍との激戦、そして勝利の瞬間の歓声。すべてが生き生きとした物語だった。その時のマリウスじいの声は力強く、笑顔は太陽のように明るかった。
「しかし最近のマリウスじいは、どうにも歯がゆい」
「…」
「昔のような勢いがないんだ。ローマの敵に対してどうするつもりなのか、よくわからないままだ」
ティトゥスはじっとぼくを見ていた。
彼は自分の意見を簡単には口にしないが、その眼差しから何かを考えているのは明らかだった。もしかするとぼくが気づいていない何かを、彼は既に理解しているのかもしれない。
浴場の湯船の向こうでは、数人の商人が大声で東方貿易の話をしている。
「ミトリ……のやつが暴れ回っているおかげで、東からの絹の値段が倍になった」
「いや、むしろ迂回ルートができて、新しい商機が生まれているじゃないか」
彼らの会話を聞いていると、細かいところはよくわからないけれど、政治と商売がいかに結びついているかがよくわかる。戦いは悲劇だが同時にそれを糧としている人々も多いのだ。
「同盟市との戦争から帰ってきたマリウスじいは、昔のような大きく優しい雰囲気ではなくなってしまった。最近はどこか近寄りがたい感じがする。公衆浴場に一緒に行っても、いつも怖い目をして東方がどうのこうの、ミトリなんちゃらが……などと、いつもブツブツ言ってるよ。もう昔のような、大きなマリウスじいには戻らないのかなぁ」
その声音にかすかな悲しさが含まれているな、とぼく自身が感じている。それでもマリウスじいを完全に嫌いにはなれない。あの大きくて温かかったおじいのイメージが強く残っているからだ。叔父だけどね。
戦争は人を変える。それは分かっているつもりだった。でも、こんなにも人格を変えてしまうものなのだろうか。最近のマリウスじいと一緒にいると、まるで別の人間と話しているような気分になることがある。昔のあの優しい笑顔はどこに行ってしまったのだろう。
立ちどまって考えることがある。もしもいつか戦場に立つことになったら、ぼくもマリウスじいのように変わってしまうのだろうか。人を殺すという経験が、この心をどう変えるのだろうか。そんなことを考えると背筋が寒くなってくる。
でも、だからこそ、政治によって争いを避ける道があるのではないかと思うのだ。賢い政治、公平な政治、すべての人々が納得できる政治。そんなものが実現できれば無意味な血を流すことなく、ローマはもっと大きく、もっと豊かになれるはずだ。
あるとき、ティトゥスがふと問いかけてきた。
「カエサルは、スッラについてはどう思っている?」
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