浴槽から目を離すな
玄関の鍵を閉めて、チェーンをかける。
汚れた服のまま、浴室の扉を開ける。
アパートのこの部屋に脱衣所は無い。すぐ横を見れば、無機質な玄関がそこにある。
電気をつけて、栓をする。
「…よし」
深く息を吐いて、蛇口を捻った。
浴槽の底を叩く音。始まりの合図だ。
浴室の扉の沓摺に腰を下ろして、それを見つめる。
このお風呂は水を貯めている間、絶対に浴槽から目を離しては行けない。
目を離すと、あいつが出てくる。
いつからこうだっただろうか。多分あの時だ。
少なくとも、ここに住み始めたときはそうじゃなかった。
自分の過ちを思い返し、俯きたくなる気持ちを抑えて、浴槽をじっと見つめる。
水面は見なくていい。ただ蛇口から落ちる水を眺めていればいい。
天井、浴室の換気扇がカタリと音がする。
そういえば換気扇を回していないが、今日はいいだろう。
今は浴槽だけ見てればいい。
浴槽の底を叩く水の音は、次第に水を叩く音に変わる。
水が落ちる音が、時折くぐもる。
そんな些細な所にまで気が向いてしまうのを、目だけは離さない。
スマホに着信が入る。ズボンのポケットから伝わる振動にビクリとする。
スマホをポケット越しに手で抑えながら、相手が電話をあきらめるのを待つ。
確か、好奇心だったと思う。そういう、危険な遊びが好きだった。
入っちゃいけない所に入って、見てはいけないものを見た。
楽しかった。でもその結果、こんなことになった。
携帯が鳴り止んだ。小さく息を吐く。
時計を持ってこれば良かったと後悔する。あとどれ位かかるだろうか。
すこし顔を上げて、浴槽の中を覗く。まだ4分の1程しか溜まってない。
換気扇から、声が聞こえた。
あいつの声だ。何か言っている。
気を紛らわすために、鼻歌を歌う。
咄嗟に浮かんだのは、シューベルトのアヴェ・マリアだった。
神に祈ろうだとか、そんな気持ちは無い。
本当に神様が居るのなら、はなからこんな事にはなっていない。
換気扇から聞こえる声はもうしないけど、静寂がキツくて鼻歌を歌い続ける。
蛇口から流れる水が、止まって見える。
あれ?と思いまた顔をあげて覗くが、水はちゃんと出ている。
鼻歌を止める。
鼻がかゆい。
くしゃみをしそうになる。マズイ。
思い切り鼻を摘む。身体の中で小さな爆発を起こし、眼球の裏に衝撃が来る。
涙が出てくるのを、片目ずつ手で拭く。何とか耐えたが、何度もくしゃみが来るのは勘弁だ。
ポケットをまさぐり、タバコとライターを取りだした。
浴槽から目を離さずに、火をつけてタバコに近づける。
なかなか難しく、少し苦戦したが、火をつけた。
ゆっくりと吸い、煙を吐く。
浴室のタイルに灰を落とす。まぁ、こんな時だし仕方ない。
煙が目に入り、閉じようとする目を必死に開ける。
馬鹿なことをしたが、それでも煙を吸うのを辞めない。
リビングの方で、ガタンと音が鳴る。
びっくりしたが、それでも目は離さない。
ギギ…と廊下が鳴る音がする。
気を紛らわす為に、また鼻歌を歌い続ける。
その時一緒に居た奴らは、もう誰も居ない。
みんな、捕まった。
次は自分だ。きっと、もうすぐ。
コンコンコン…
玄関からノックの音がする。少しの沈黙の後、低い声が聞こえた。
「すみません。警察ですが」
思わず玄関の方を見てしまい、慌てて浴槽に視線を戻す。
浴槽の縁を、白く細い指が掴んでいる。少し爪が長い。
長い髪が、同じように縁から少しだけ覗かせている。
もう、顔を上げて見る事は出来ない。
コンコンコン…ギギ…
再び音がする。もう鼻歌も歌わない。
黙ってタバコの火を消して、浴槽をじっと見つめる。
浴槽を掴んだ手も、覗かせる髪も、ピクリとも動かない。次目を離したら、どこまで出てくるだろう。
換気扇がカタリと音を立てる。水が落ちる音は、もうすぐ溢れる事を教えてくれる。
早く、早くしてくれ。もう限界だ。
そう願いながら、両手を合わせてじっと待つ。
チョロチョロ…と浴槽から水が溢れ出した。
次の瞬きの瞬間、その手と髪はどこにも無かった。
深く息を吐く。立ち上がって、蛇口を閉める。
水が止まり、静寂が落ちる。
コンコンコン…
「…さん。居ませんか?少しお話を…」
玄関の外で、まだ声がする。
水面を覗き込む。
水面に揺れて映る痩せこけた自分の肩に、白く細い手が掴まれている。
そのすぐ上から、自分のものでは無い頭の形が少し出ている。その髪はベッタリしていて、まるで生気を感じない。
「罰は、そっちで償うよ」
血塗れのナイフで、手首を切りつける。
ぽたぽたと浴槽に落ちて、赤が水に溶けていく。
「…間に合うかな」
浴槽に浮かぶ死体を見つめながら、そっと冷水に手を入れる。