6月5日(土)
9時から5分程遅れ、秀人は小講堂の前にいた。
駅から走れば間に合いそうではあったが、補習で出欠を取るわけでもないため、秀人はのんびりと歩いて来た結果、こうして遅刻してしまった。
秀人はなるべく音を立てないようにドアを開け、中に入る。
3学年全員が入れる小講堂の、半分近くの席が埋まっていたため、秀人は予想以上に来ている生徒が多い事を知り、少しだけ驚く。
自由席のため、生徒は仲の良いもの同士、固まって座っている。
そのため、後ろの方の席に1人で座っている春奈を秀人はすぐに見つける。
そして、秀人は特に何も言う事なく、春奈の隣に座る。
「あ……」
「悪い、遅れた」
「でも、ちゃんと来てくれました」
既に補習が始まっているため、2人は声を落とす。
「いつもこの辺に座ってるのか?」
「はい、そうですけど?」
女子生徒のほとんどは前に座っている。
きっと、その中には春奈のクラスメイトもいるはずだ。
しかし、春奈はその中に入る事が出来ず、こうして後ろの方の席に座っている。
秀人は春奈の性格からそんな事を考える。
「今、古典やってます」
「え、ああ……」
秀人はカバンから教科書を取り出すと、春奈が教えてくれたページを開く。
進学を考えていないため、真剣に勉強をする事はほとんどないが、秀人は平均以上の成績を持っている。
そのため、補習の内容も十分に理解する事が出来る。
時々、秀人が春奈の方へ目をやると、自分の事を心配そうに見ていた春奈と目が合った。
そして、春奈は少しだけ顔を赤くした後、すぐにまた前を向いた。
そんな事を繰り返しながら、秀人と春奈は補習を受けていた。
9時50分になり1科目の補習が終わった。
このまま、10分の休憩となり、午前中はこうして12時前までに3科目を受ける事になっている。
生徒達は周りの友人と雑談をする等、普段の休み時間とほとんど変わらない時間を過ごしている。
「次は数学か?」
「はい。その後は神楽先生の英語です」
「数学は村雨なんだよな」
担任の村雨に見つかると、何か言われる可能性が高いため、秀人はため息をつく。
その時、秀人は周りにいる生徒の多くが自分と春奈を見ている事に気付く。
「何で秀人がいるの?」
「ああ、和孝もいたのか?」
和孝は驚いた表情を秀人に向けている。
「どこに座ってたんだ?」
「夢ちゃんに言われて、前の方に座らされたんだけど……」
そこで、和孝は春奈に目をやる。
「秀人が補習出るなんて珍しいよね」
「言いたい事はわかるから何も言うな」
「春奈ちゃん、俺、久保和孝!」
「はい」
「俺、今、麻雀にはまってて、伝説の雀士を目指してるんだよ!」
「そうですか」
「……今日、良い天気だね!」
「そうですね」
春奈は和孝と目を合わせる事なく、素っ気ない返事をするだけだ。
「俺、避けられてるのかな?」
「和孝ごときと話す時間がもったいねえんだろ」
「あなたはどうして人が傷付く事をバシバシ言うんですかね?」
和孝は春奈から相手にされなかったため、ため息をつく。
「というか、2人並んで座ってて良いの?」
「問題あるか?」
「いつも1人でいる女子が、今日だけは男子と一緒に座ってる。それを見て、秀人はどう思う?」
「何も思わねえけど?」
「秀人に聞いた俺がバカだったよ」
「ああ、お前はバカだよ。今頃気付いたのか?」
「あのね……」
和孝は呆れたような表情を浮かべる。
「及川も来たのか?」
声がした方に目をやると、そこには和孝同様、驚いた表情の夢がいた。
「えっと……何か俺に会いたくて来たみたい」
「和孝、わきまえろ」
「それ、どういう意味ですか?」
夢はそこで春奈に目をやる。
「確か、立石だったな?」
「知ってるのか?」
「去年、同じクラスだった。ただ、話した事はほとんどない」
春奈は夢と目を合わせようともせず、下を向いている。
「及川、何で立石の隣に座ってるんだ?」
「あれだよ……空いてる席に座っただけでしょ」
秀人と春奈の関係を隠すためか、和孝はそう言い訳した。
「席は他にも空いてるぞ?」
「ほら、1人だと寂しかったんだよ」
「私は及川に聞いてるんだが、何で久保が答えるんだ?」
夢の言葉に和孝はそれ以上何も言えなくなってしまう。
「立石もこんな奴が隣で嫌じゃないのか?」
「別に嫌じゃないです」
春奈は相変わらず、夢と目を合わせようとしない。
その様子は、まるで周りを拒絶しているようだ。
「そろそろ始めるぞ」
その時、村雨がそう言いながら入ってきたため、夢は自分がいた席に戻る。
「及川、久保、何でいるんだ?」
「別に参加するのは自由だろ?」
予想通り、村雨から声をかけられたため、秀人は不機嫌な態度を取る。
「俺は席に戻るからね」
和孝は前の方の席に戻った。
「……立石、どうかしたのか?」
秀人は春奈の方へ顔を向ける。
「あ、ごめんなさい」
「いや、別に謝る事はねえけど……」
和孝や夢に対する春奈の態度が、秀人にとっては疑問だった。
「私、初対面の人が相手だと緊張してしまって……」
「いや、2人共、初対面ではねえだろ。遠野なんて同じクラスだったんだろ?」
「あ、その、何を話せば良いのかわからなくて……」
「人見知りって事か?」
「あ、はい」
その様子から、秀人は春奈に友人が出来ない1番の理由が何なのか理解する。
「でも、俺とは普通……でもねえけど、話出来るだろ?」
「及川さんは特別なんです」
「特別って……?」
「よし、じゃあ始めるぞ」
その時、数学の補習が始まったため、2人は話を中断した。
数学の補習が終わった後の休憩時間、秀人は夢に何か言われる事を避けるため、トイレで時間を潰してから席に戻った。
「あ、及川さん?」
「ん?」
「今日のお昼……」
秀人はそこで春奈の荷物を確認する。
そして、春奈が今日も弁当を用意して来ている事に気付く。
「また屋上で食うか?」
「あ、はい」
秀人の言葉に春奈は嬉しそうな反応を見せる。
「でも、和孝とか遠野に捕まると面倒だな……」
前の方に座っている2人の背中を順番に確認し、秀人は頭を働かせる。
その時、神楽がやってきて、英語の補習が始まる。
神楽は若いためか、男子生徒だけでなく、女子生徒からも人気がある。
この補習に限り、受ける生徒の人数が少しだけ多くなっている事もその表れだ。
また、勉強を教えるのも上手で、秀人にとっても英語の授業は好きな授業の1つとなっている。
ただ、この日は春奈の隣に座っているためか、頻繁に神楽と目が合う気がした。
「なあ、立石?」
「はい?」
補習が終わる10分前になり、秀人は春奈に声をかける。
「補習が終わったら、すぐに出られるよう準備してくれ」
「え?」
「和孝や遠野に捕まる可能性があるんだ。出来れば……2人きりが良いだろ?」
少しだけ抵抗を覚えたが、和孝達に捕まるよりはマシと考え、秀人はそう提案した。
「あ、はい」
春奈は簡単に荷物をまとめる。
「じゃあ、今日はここまでです」
予定よりも3分程早く、英語の補習は終わった。
「じゃあ、行くか」
「はい」
秀人と春奈はすぐに席を立つと、誰よりも早く小講堂を出て、屋上に向かった。
屋上に出ると、秀人は大きく伸びをする。
「休みの日に勉強すると疲れるな」
「今日は来てくれて、ありがとうございました」
「立石は、この後、部活だろ?」
「はい」
「じゃあ、俺は昼食ったら帰るよ」
「え?」
春奈は少しだけ笑う。
「午後の補習は受けないんですか?」
「教科書もノートも持って来てねえんだよ」
「……私のために来てくれたんですね」
春奈は少しだけ顔を赤らめる。
2人はいつも通り、適当な場所に座り、春奈の弁当を食べ始める。
「立石、ホント料理上手だよな」
「ありがとうございます。でも、それはきっと、お母さんのおかげだと思います」
春奈は照れくさそうに笑う。
「あと、明日の事なんですけど、お昼に集合しませんか?」
「俺はいつでも構わねえよ」
「じゃあ、12時に集合して、一緒に昼食を食べませんか?」
「ああ、それで良いよ」
「それで、昼食を食べ終えた後、デパートに行きましょう」
春奈はスケジュール帳にメモを取りながら、明日の計画を立てた。
「そういえば、部活って何時からだ?」
「午後1時からです」
「そっか、頑張れよ」
「はい、頑張ります」
秀人は会話をしながら、春奈の様子を確認していた。
今の春奈は緊張している様子ではあるが、普通に会話の出来る女子と何ら変わりない。
先程、和孝や夢の前で見せた春奈の様子は、秀人にとって意外なものだった。
しかし、和孝の話を聞く限り、他の人にとっては、あれが春奈で、秀人と一緒にいるこの春奈の方が意外だと感じるのかもしれない。
そんな事を秀人は考えていた。
2人は昼食を終えた後、大講堂に向かった。
「今日は当日と同じステージでの練習なんです」
春奈の嬉しそうな様子を見て、秀人は春奈が本当に演劇が好きなのだと感じる。
「俺はこのまま帰るからな」
「はい、今日は本当にありがとうございました」
春奈は足を止めると礼儀正しく頭を下げる。
「あ、やっぱり2人一緒だったのね」
そんな声が聞こえ、2人は声がした方に目をやる。
そこには神楽がいた。
「立石さんと及川君、仲良かったのね」
神楽は少しだけ詮索するような目付きで2人を見る。
「もしかして付き合ってるのかしら?」
「そんなんじゃないです!」
春奈は顔を真っ赤にし、即座に否定した。
その様子を見て、神楽は笑う。
「お前、隠し事とか苦手だろ?」
「ごめんなさい……」
春奈は隠すように顔を下に向ける。
「じゃあ、俺は帰るから」
「及川君、午後の補習は出ないの?」
「はい、午後は用事があるんです」
「それじゃあ、しょうがないわね」
神楽は秀人の言葉が嘘だと気付いているのか、意味深な笑みを浮かべる。
「じゃあな」
「はい、明日、お願いします」
「あら、明日はデートかしら?」
「あ、今のはその……」
春奈と神楽のやり取りを見て、少しだけ笑った後、秀人は学校を後にした。
秀人は家に帰ると、読み途中だった小説の続きを読んでいた。
その時、携帯電話が鳴り、秀人はすぐに出る。
「もしもし?」
「秀人、何で途中からいなくなったんだよ?」
和孝の泣きそうな声に秀人は笑う。
「お前と夢、2人きりにするべきだと思って、気を使ったんだ。感謝しろ」
「あの後、俺がどれだけフォローしたか、わかってます?」
「その場にいなかったんだ。わかるわけねえだろ」
「そうですよね……」
「あ、和孝に言う事があったんだ」
「ん?」
「明日、俺、フットサルの大会出れなくなったから、お前が代わりに出ろ」
「え?」
「もう、他のメンバーには和孝が行くって伝えてある。行かなかったら信用問題になるから行けよ」
「あなたは本人の許可を取らずに何でそんな事、決めちゃんですかね?」
「あれだ。和孝、最近運動不足みたいだから、俺が気を使って、大会に参加出来るようにしたんだ。俺、えらいだろ?」
「一言ぐらい謝ってくれても良いんじゃないかな……」
「悪い」
「それだけですか!?」
「一言で良いって言っただろ」
和孝はそこで軽くため息をつく。
「もしかして、明日、春奈ちゃんとデート?」
「……まあ、そんなとこだ」
「秀人、春奈ちゃんと仲良くなり過ぎちゃダメって言ったの覚えてる?」
「しょうがねえだろ。断れなかったんだよ」
「用事あったんだから、それ言えば良かったんじゃないの?」
「まあ、そうなんだけどな……」
秀人は言葉を詰まらせる。
「……ところで、春奈ちゃん、秀人のどこを好きになったのか聞いた?」
「そんなの聞くわけねえだろ」
同じ質問を返される可能性が高いため、秀人はその事を聞かないようにしている。
「それで、明日はどこに行くの?」
「ウィンドウショッピングとか行ってた。2人で食事したり、買い物したりして、理解を深めたいらしい」
「秀人、繰り返すようだけど、あまり春奈ちゃんと……」
「わかってるよ」
「なら良いけどね」
和孝は軽く笑う。
「秀人君、そろそろ夕飯よー!」
由香里の声は電話先の和孝にも届いた。
「そろそろ夕飯みたいだから、切るよ。明日、大会の方、頼んだからな」
秀人は最後に集合場所や時間を和孝に伝えてから、電話を切った。
その後、秀人が食卓に行くと、妙に上機嫌な両親が待っていた。
「秀人君、明日はデートよね?」
「また盗み聞きかよ」
秀人は不機嫌な態度で椅子に座る。
「明日は昼も夜も飯いらねえから」
「どこで食べるつもりなんだ?」
「別にその場で決めるから、まだ決めてねえよ」
「デートは男がエスコートするものなんだぞ!」
弘は突然怒り出すと、食卓を後にし、少しした後、戻ってきた。
「これで調べろ」
弘は『デートマニュアル』というタイトルの本を差し出す。
「何だよこれ?」
「由香里とサプライズデートをする時のために買ったんだ」
「それ、お袋の前で言ったらサプライズにならねえだろ……」
「私、聞かなかった事にしますね」
「さすが由香里!」
両親のバカなやり取りを放置したまま、秀人は本を開く。
今まで、デート等した事がないため、本音を言えば何をすれば良いか、全くわかっていない。
そんな秀人にとってみれば、この本は必要なものと言える。
「少しの間、借りるよ」
「どこに行くのか、教えてくれれば、アドバイスしてやるぞ?」
「言ったら、ついて来る気だろ。1人で調べるよ」
秀人は後で本を読む事にし、そのまま閉じた。