6月23日(水)
「秀人君、おはようございます」
「ああ、おはよう」
秀人と合流し、春奈はカバンから小説を取り出す。
「秀人君、私の方はまだ読み終えていないんですけど、新しい小説を持ってきましたので、良かったら読んで下さい」
「ああ、ありがとな」
秀人は小説を受け取り、カバンにしまう。
秀人達はいつもと同じ時間に、二和木駅で電車を降りた。
「2人共、おはよう!朝から春奈ちゃんに会えると、何か今日1日頑張ろうって気になれるよね」
「及川、立石、おはよう」
駅を出るところで、和孝と夢の2人が合流し、いつもと同じ他愛のない話を始める。
「及川、久保、明日は準備があるから、逃げるんじゃないぞ」
「当日、俺達は接客するんだから、帰らせてよ」
「あ、もしも時間が同じでしたら、明日は一緒に帰りませんか?」
「春奈ちゃんと一緒に帰れるなら、残ろうかな」
「お前、調子の良い奴だな」
「そういえば、文化祭は他校の人も来るんだよね。可愛い子、来るかな?」
「久保、ナンパは禁止だぞ」
「ナンパじゃないよ。ただの友達作り。春奈ちゃんもやってみれば?」
「私は、そんな事出来ないです……」
その時、秀人は春奈の顔を注意深く見る。
「春奈?」
「はい?」
「今日、元気ねえけど、何かあったのか?」
秀人の質問に、春奈は首を傾げる。
「別に何もないですよ?」
「ホントか?」
「別に春奈ちゃん、いつも通りじゃないかな?」
「私もそう思うぞ?」
「お前ら、それ、本気で言ってるのか?」
和孝と夢の同意を得られず、秀人は納得がいかなかった。
「私、いつも通りですよ?」
春奈は秀人に笑顔を向ける。
「それなら良いけど……」
「……あ、私、今日は朝から用事がありました。なので、先に行きますね」
春奈は背を向けると、足を速める。
そんな春奈の腕を秀人はつかみ、無理やり振り向かせた。
「お前、無理するなよ」
「……ごめんなさい」
振り向いた春奈の目には、涙が浮かんでいた。
「春奈ちゃん?」
和孝達も春奈がいつもと違う様子だと気付いたのか、表情を険しくさせる。
「……クロが元気ないんです」
「クロって……一昨日、元気に走り回ってただろ?」
「それが昨日、急に具合が悪くなりまして、心配だったので、医者に見せたんです。でも、年齢も10歳以上で……猫にとっては寿命と言える年齢だそうですし……」
「そんなに悪いのか?」
「今日も家を出る時、少し迷ったんです。でも、学校を休むわけにはいきませんので……」
春奈の様子から、秀人はクロが深刻な状態なのだろうと感じた。
もしかしたら、学校を終え、春奈が家に帰るまでも持たないかもしれない。
そんな事を考え、秀人は深い息を吐いた。
「遠野、俺、今日休むって、村雨に伝えてくれ」
「え?」
「神楽先生にも、春奈が休むって伝えろ」
秀人は春奈に笑顔を向ける。
「春奈、今日は学校休めよ」
「え?」
「家に戻って、クロの側にいてやれよ。俺も付き合ってやるから」
春奈は少しだけ考えた後、うなずく。
「じゃあ、頼むな」
「秀人!?」
秀人と春奈は登校する生徒達の注目を集めながら、駅へ戻った。
秀人と春奈は三枝谷駅を出た後、駆け足に近い形で移動した。
家に到着すると、春奈は慌てた様子でドアを開ける。
「秀人君も上がって下さい」
春奈は靴を脱ぐと、駆け足で奥へ行ってしまった。
「……お邪魔します」
本当に上がって良いのか、少し迷いながら、秀人は春奈の後を追いかける。
「お母さん、クロの具合はどうですか!?」
「春奈、学校は?」
「あ、お邪魔します」
秀人は春奈の母親に頭を下げる。
「すいません、クロの側にいさせてやりたいと思って、俺が帰るように言ったんです」
「そう……秀人君、ありがとう」
「あ、はい」
春奈から話を聞いているとは言え、なぜ初対面の自分の事がわかったのか疑問だったが、今はそれよりもクロの事が秀人は気になった。
クロは横になったまま、弱々しく息をしている。
「クロ?」
春奈が呼びかけると、クロは少しだけ喜んでいるように見えた。
「お前が帰って来た事に気付いたみたいだな」
「でも、さっきよりクロの呼吸が弱いです」
「春奈……お医者さんが言ってたでしょ?ここまで持っているだけでもすごい事なのよ」
春奈の母親は、言葉を選んでいる様子だった。
「昨夜の時点で、もう持たないかもしれないと言われていたのに、こうして家に連れて帰る事が出来たじゃない」
「クロ、本当に治らないんですか?」
春奈は納得のいかない表情を見せる。
「クロ?」
春奈が呼びかけると、クロはその声に応えるように、必死に体を起こそうとする。
そんなクロの様子が、秀人には無理をしているように見えた。
その時、クロと目が合い、秀人は何となくクロの考えを感じられた気がした。
「なあ、春奈?」
「……はい?」
「クロはずっとお前の側にいて、お前の事を支えてくれてたんだよな?」
「はい……そうです」
「そろそろ、休ませてやらねえか?」
秀人はしゃがむと、クロを優しく撫でる。
「こいつが、こんなに苦しそうなのに頑張ってるのは、お前のためなんじゃねえか?」
「え?」
「これからも、お前の側にいねえとって、無理してるように見えねえか?」
春奈はクロをじっと見て、秀人の言葉を理解した様子を見せる。
「でも……私は、これからもクロと一緒にいたいです」
「それは、クロに苦しい思いをさせてもか?」
秀人の言葉に春奈はしばらくの間、思い悩んだように黙り込む。
そして、軽く唇を噛んだ後、春奈は決心するように息を吐いた。
「……秀人君の言う通りですね」
春奈は必死に笑顔を作ると、クロを優しく撫でる。
「クロ、今までありがとうございました。もう休んで下さい」
春奈の言葉を聞き、クロは穏やかな表情を浮かべた後、ゆっくりと呼吸が弱くなっていった。
その様子を秀人と春奈は、ずっと見ていた。
「秀人君、今日は本当にありがとう」
「いえ、何か、長居してしまって、すいません」
時計を見ると、学校の授業が終わる時間だ。
春奈は気持ちを整理しているのか、秀人達と離れた場所に1人座っている。
「そんな事言わないで。こんな時間まで春奈の側にいてもらって……」
「でも、何もしてやれてないですし……」
「そんな事ないわ」
「そうでしょうか?」
悲しみを自分の中に閉じ込めてしまったのか、春奈が泣く事はなかった。
秀人は、そんな春奈を心配しているが、何も出来ない自分に歯痒さを感じている。
その時、春奈は立ち上がると、秀人の方を向く。
「……秀人君?」
春奈が声を出したのは数時間振りだ。
「あ、何だ?」
春奈の様子を秀人は心配そうに見る。
「来てもらっても良いでしょうか?少し……話がしたいんです」
「ああ、俺は大丈夫だ。すいません、行って来ます」
「行ってらっしゃい」
秀人と春奈は外に出ると、何も話す事なく、近くの公園に行った。
そこは、先日、秀人がクロと遊んだ公園だ。
春奈が空いていたベンチに座ると、秀人は隣に座った。
「……ここ、クロと出会った場所なんです」
「そうなのか?」
「クロは捨て猫だったんです。それで、家で飼う事になったんです」
春奈は穏やかな表情だ。
「私、ずっと1人でしたので、何かあれば、いつもクロに話していました。私が話をすると、いつもクロは返事をするように鳴いてくれました」
その時の事を思い出すように春奈は笑う。
「クロが一緒にいてくれましたので、私は頑張ってこれました。でも、これからは……私、1人で頑張らないといけないです」
「お前、バカか?」
「え?」
秀人は少しだけ怒ったような目付きで春奈を見る。
「ここに俺がいて、学校に行けば、和孝や遠野もいる。お前、もう1人じゃねえのに、何で1人で頑張るんだよ?」
春奈は何も言う事なく、秀人の話を聞いている。
「お前、1人じゃねえんだから、無理して強がったりするな」
「……少しの間だけ、良いですか?」
春奈は秀人の胸に顔を付ける。
「別に気が済むまで良いよ」
「私、クロに無理をさせてしまいました」
「そんな事ねえよ。さっきはああ言ったけど、きっと、クロだって無理してでもお前の側にいたかったんだよ」
「クロ、最初から私に懐いてくれたんです」
「お前が良い奴に見えたんだろ」
「クロ、秀人君と一緒に遊べて、喜んでいました」
「俺は疲れたけどな」
「クロ……」
春奈はそのまま声をあげて泣いた。
秀人は特に何も話す事なく、しばらくの間、そのままでいた。