6月21日(月)
昨夜のうちに、秀人は家に戻ったが、今日は大事を取って学校を休みにした。
昔の事を次々思い出し、多少の混乱はあるが、自分を責める気持ちがなくなったためか、秀人は穏やかな気持ちでいる。
「秀人君、調子はどう?」
「ああ、大丈夫だ。お袋も色々とやる事あるだろ?俺に構わねえで良いよ」
「何かあったら言いなさいね」
部屋を出て行こうとした由香里は足を止めると、振り返る。
「春奈ちゃん、だったかしら?」
「ん?」
「秀人君の彼女って春奈ちゃん?」
「別にただの友達だよ!というか、一緒に遠野もいたのに、何で春奈なんだよ!?」
「私も弘さんも、てっきり彼女だと思ったんだけど、違うの?」
「……ただの友達だって言ってるだろ」
「そう……」
由香里は詮索をやめると、部屋を出て行った。
昨夜も長い時間眠ったため、秀人は寝る事も出来ず、結局、春奈から借りた小説を読む事にした。
しかし、それも読み終えると、他にやる事もなく、暇になってしまった。
時計を見ると、まだ3時頃だ。
秀人は少しだけ考えた後、簡単に支度をし、外へ出る事にした。
「お袋、ちょっと出掛けてくるからな」
「大丈夫なの?」
「別に風邪引いてるわけじゃねえし、大丈夫だよ」
秀人は家を出ると、大きく深呼吸をした。
最も、外へ出たからといって、特に目的があるわけではないため、秀人は何をしようか迷ってしまった。
そして結局、欲しいものがあるわけではないが、デパートで買い物でもしようと、駅に向かい、電車に乗った。
ここから近いデパートというと、春奈や夢と一緒に行ったデパートになる。
電車に乗っている間、特に読む小説もないため、秀人は景色をぼんやりと眺めていた。
その時、猫の鳴き声が聞こえ、秀人は視線を下に移す。
そこには秀人の方を向いた黒猫がいた。
秀人は目の色や、首に巻いた首輪を凝視した後、軽く笑う。
「お前、クロか?」
秀人の問いかけに、クロは鳴いて返事をした。
「猫のくせに電車なんて乗るんだな」
秀人は軽くクロの背中を撫でる。
その時、三枝谷駅が近づき、クロはドアに近づく。
それから、秀人の方を向くと、また鳴いた。
その様子は先日と同じように、ついて来いと言っているようだった。
秀人は少しだけ考えた後、特にする事もないため、クロについて行くことにした。
三枝谷駅で電車を降り、駅を出ると、クロがゆっくりと歩き始めたため、秀人も、その後ろについて行った。
「お前、このまま家に帰るわけじゃねえだろうな?」
向かっている先が春奈の家の方だったため、秀人は軽く困ってしまった。
しかし、クロは途中にあった公園に入ると、そこで足を止める。
そして、秀人に近づくと、何回か鳴いた。
少しの間、秀人はどうすれば良いのか、わからなかったが、何となく理解すると、近くにあった猫じゃらしを手に取り、クロと遊ぶ事にした。
「ただ単に遊び相手が欲しかっただけかよ?」
秀人が適当に猫じゃらしを振ると、クロは楽しそうに猫じゃらしを追いかけた。
最初のうちは立ち止まったまま、適当に猫じゃらしを振っているだけだったが、次第に秀人も公園内を走り回り、追いかけっこのようになり始める。
しかし、猫を相手に勝てるわけがなく、秀人はすぐクロに追いつかれては、また逃げるといった事を繰り返す。
次第に秀人は息が上がり、地面に座った。
「ちょっと休憩にしてくれよ」
急かすように鳴いているクロに秀人は呆れた様子で笑った。
休憩を終えた後、秀人はまたクロと遊ぶ事にした。
今度はクロが逃げるように移動を始めたため、秀人は反対に追いかける事にした。
しかし、当然追いつけるわけもなく、秀人はまた息が上がり、地面に座る。
するとクロは秀人に近づき、体を摺り寄せてきた。
「お前、春奈が相手でもこんな事するのか?」
秀人の言葉に、クロは軽く体を震わせる。
その様子を見て、秀人は首を傾げる。
「俺と遊べて楽しいか?」
その質問に、クロは嬉しそうに鳴いた。
一瞬、人の言葉がわかるのかと考えたが、すぐにバカな考えだと感じ、秀人は軽く笑う。
その時、公園の外を2人の少年が歩いていたため、秀人は何となく目で追った。
「お兄ちゃん、待ってよ!」
「お前は待ってろよ」
「やだ、お兄ちゃんと一緒に行く」
会話の内容から兄弟らしい2人を秀人はぼんやりと見ていた。
その時、クロが鳴いたため、秀人は視線を移す。
クロはまた秀人から離れ、辺りを軽く走り回る。
「また追いかけっこか?」
秀人の質問にクロは嬉しそうに鳴いて答えた。
「たく……」
秀人は立ち上がると、またクロを追いかけた。
しばらくの間、クロと追いかけっこをしては休憩するといった事を繰り返していたが、秀人はついにばててしまった。
秀人はクロが飽きるまで付き合ってやろうと考えていたが、一向にそんな様子を見せないクロに困ってしまっている。
「おい、もう終わりにして、俺は帰るからな」
何度かクロを置いて帰ろうとしたが、その度にクロがしつこく鳴き喚くと、秀人は帰る事を諦め、もう少しだけ付き合う事にした。
そうした事を繰り返し、気が付けば、辺りはすっかり暗くなってしまった。
クロを置いて無理やり帰ろうとも考えたが、どこまでもついて来たら困るため、秀人はその考えを保留にしている。
「いい加減飽きろよ……」
その時、クロは何かに反応すると、公園を出て行った。
「やっと解放されたのか?」
クロの唐突な行動に驚きつつも、秀人は今のうちに帰る事にした。
走り回ったため、軽くストレッチだけした後、秀人は公園を出る。
その時、猫の鳴き声が聞こえ、秀人はため息をついた後、下に目をやる。
そこには当然、クロがいた。
「たく、しつこい奴だな……」
「クロ!」
その声は春奈の声だ。
秀人が顔を向けると、駆け足で春奈が近づいてきた。
「え、秀人君?」
「そっか、もう部活が終わる時間だな」
「どうしてここにいるんですか?」
「風邪引いたわけじゃねえし、家にいてもつまらねえから、外に出たんだよ。そうしたら、こいつに会って、遊びに付き合わされたんだ」
「そうだったんですか?」
クロは嬉しそうに鳴いた後、秀人の周りを駆け回る。
「秀人君、ありがとうございます」
「まあ、俺も暇潰ししてただけだよ。こいつ、お前が帰って来たのに気付いて迎えに行ったんだな」
「そうなんでしょうか?私が抱いてあげようとしたら、逃げられましたよ」
「は?」
「それで、追いかけてきたら、秀人君がいて、ビックリしました」
秀人はクロの行動の意味を何となく考える。
その時、クロは塀の上に飛び乗り、どこかへ行ってしまった。
「行ってしまいました」
「自由気ままな奴だな」
秀人は軽く笑った後、真剣な目で春奈を見た。
「春奈、昨日はありがとな」
「え?」
「お前のおかげで、心が軽くなったよ」
「そんな……私、大した事してないです」
春奈は照れくさそうに笑う。
「でも、外に出て大丈夫ですか?風邪ではないと言っても……」
「まあ、色々と思い出して混乱してる部分はあるけど、大丈夫だよ」
秀人は少しだけ頭を整理させる。
「そういえば、将来の夢、俺も持ってたよ」
「え?」
それは、先程、兄弟が会話している様子を見て、思い出した事だ。
「俺、いつも兄ちゃんについて行ってたんだ。それで、兄ちゃんが教師になるって言ったから、俺もそうするって言って……」
そこで、秀人は少しだけ間を空ける。
「教師なんて、ありがちな夢だよな」
「そんな事ないですよ」
「でも、せっかくだから、本気で目指してみようかと思ってる」
「え?」
「教師になる夢」
秀人の言葉に春奈は笑顔を見せる。
「良いと思います!」
「まあ、とりあえず大学は出る必要があるよな」
今まで、進学にやる気を見せていなかったが、教師になるという夢を目指すなら、進学した方が良い事は明白だ。
「秀人君なら、きっと大丈夫ですよ」
「お前、自分の事でも、そんな感じでポジティブに考えろよ」
「私は秀人君みたいには出来ませんから……」
春奈が顔を下に向けると、秀人は笑った。
「そうだ、すぐ近くだけど、家まで送るよ」
「え?」
「もう暗いし、危ねえだろ?」
秀人は春奈の返事を聞く事なく、ゆっくりと歩き出す。
そんな秀人に合わせ、春奈も歩き出した。
秀人と春奈は、ゆっくりと歩きながら、いつも通り雑談を始める。
「今日も、和孝とか遠野と一緒に、昼、食ったのか?」
「あ、はい。でも、あまり話せませんでした」
「何でだよ?」
「秀人君がいないと緊張してしまって……」
「あのな……俺、いつもお前と一緒にいろって事か?」
「そんな事、頼まないです。秀人君に悪いですから」
春奈の様子を見て、秀人はため息をつく。
そして、話題を変える事にした。
「そういえば、クロって不思議な猫だな」
「え?」
「時々、人の言葉がわかるんじゃねえかって感じる事ねえか?」
「時々ではなくて、よくあります」
春奈は少しだけ笑う。
「そういえば、私、クロがいなかったら、この高校に入らなかったと思います」
「え?」
秀人は思わず笑ってしまう。
「クロから、二和木高校に入れって言われたのか?」
「いえ、直接言われたわけではないんですけど……」
からかわれ、春奈は少しだけ困った様子を見せる。
「私、第一志望では、私立の高校を受けようと思ってたんです」
「そうなのか?」
「はい。ただ、願書の記入を終えて、出しに行こうと思った当日に、クロが引っ掻いて願書を破ってしまいまして……」
「は?」
状況が理解出来ず、秀人は固まる。
「申し込みの締め切りまで、時間はあったのですが、クロが受けるなと言っているようで、結局、第一志望を二和木高校に変えたんです」
「お前も結構、いい加減な奴だな」
「でも、そのおかげで秀人君に会えました」
春奈の笑顔に、秀人は呆れつつも笑顔を返した。
その時、春奈の家に着いたため、2人は足を止める。
「送ってくれて、ありがとうございました」
「別に少しだけだったじゃねえか」
秀人は呆れたように笑う。
その時、猫の鳴き声が聞こえ、目をやるとクロがいた。
「お前、家に向かってたなら、一緒に行けば良かっただろ」
秀人の言葉に、クロは鳴いて返事をした。
「じゃあ、俺は帰るからな」
「秀人君、暗くなりましたので、駅まで送りましょうか?」
「俺を送った後、お前はどうやって帰るんだよ?」
「あ、えっと……」
春奈が、また困った様子を見せ、秀人は笑う。
「別に1人で大丈夫だよ」
「そうですか」
「じゃあ、またな」
「はい、明日、いつもの場所で待ってますね」
その時、クロの泣き声が聞こえ、2人は視線を落とす。
「クロ、またな」
秀人はしゃがむと、クロを撫でる。
嬉しそうにクロが鳴いたのを確認し、秀人は軽く笑った後、その場を後にした。