6月9日(水)
朝、秀人は昨日と同じ電車に乗っていると、三枝谷駅で春奈が乗ってきた。
「秀人君、おはようございます」
「ああ、おはよう」
春奈はそこで欠伸をする。
「寝不足か?」
「はい、昨夜は帰った後、秀人君から借りた小説を読んでいましたので……」
「昨日、帰り遅かっただろ?」
「あ、まだ少ししか読んでいませんよ。ただ、その後、怖くなってしまって、なかなか寝付けなかったんです……」
「お前……怖いの苦手なら無理して読まなければ良いだろ」
「せっかくお借りしたんですから、そういうわけにはいきません」
「それで寝不足になってるんじゃ、どう考えてもダメだろ」
秀人は苦笑する。
「1人でいるのが怖くなったら、俺が一晩中そばにいてやるよ」
「え?」
「まあ、男女で一晩を共に過ごしたら当然……」
秀人は軽い気持ちでそんな冗談を言った後、即座に後悔した。
「ひ、秀人君がお望みでしたら、私はいつでも……」
「ああ、ストップ!冗談だから真に受けるな!」
顔が真っ赤になっている春奈を秀人はすぐに止める。
「お前、こういう冗談言う度に暴走するなよ。ドサクサに紛れてすごい事言うのもやめろ」
「……ごめんなさい」
「まあ、そもそも俺が冗談言わなきゃ良いんだけどな……」
秀人は改めて二度とこんな冗談を言わないと心に誓った。
この日も和孝は遅刻をしてきた。
和孝は肩で息をしながら席に着くと、秀人の方を向く。
「秀人、今日も早いね……って、もしかして、今日も春奈ちゃんと来たわけじゃないよね?」
「そんな言い方するなよ」
「秀人、昨日あれだけ……」
「一緒に登校出来ねえって言おうと思ったけど言えなかったんだよ。何か悪い気がして……」
「秀人って誰かに気を使うタイプだったっけ?いつもなら面倒くさがって、すぐに断ってるでしょ?」
和孝の言葉を聞きながら、秀人は春奈に言われた事を思い返す。
「なあ、和孝?」
「ん?」
「俺って優しいか?」
「え?」
和孝の驚いたような反応を見て、秀人は笑う。
「まあ、それが普通の反応だよな」
秀人は困ったように、ため息をつく。
「付き合い始めて1週間しか経ってないけど、予定より早めて、別れを切り出した方が良いかもね」
「別れを切り出すって言っても、どうやってだよ?」
「一緒にいて楽しくないとか、そんな理由で別れを切り出せば?」
「俺、一緒にいて楽しいって言っちまったんだけど……まあ、理由は適当に考えるか」
秀人の曖昧な返事に対し、和孝はそれ以上何も言わなかった。
「そうだ、今日は予定ねえし、家に行っても良いか?」
「ごめん、今日は俺の方に予定があるんだよね」
「何があるんだよ?」
「ちょっと、伝説を作るだけだよ」
和孝は笑みを浮かべる。
「裸で町を走り回る気か?」
「何でそんな事すると思ったんですかね?」
「いや、本当にやったら俺は伝説にするから」
「そんな伝説作りたくないです」
和孝は呆れた様子で、ため息をついた。
午前中の授業が終わると、夢は秀人の席に近付いてきた。
「及川?」
「ん?」
「話があるんだが……」
「悪い、昼は予定があるんだ。あと、和孝が裸で町を回るつもりらしい。俺から説得しても聞かねえから、お前から説得して止めてくれ」
「いや、しませんから!」
そのまま教室を出ようとした秀人の腕を夢はつかむ。
「時間作ってもらえないか?」
「だったら放課後にしてもらえば?放課後なら秀人も暇でしょ?」
「そうなのか?」
「ああ、まあ、放課後の方が空いてるな」
秀人は春奈を待たせている事を考え、ここは和孝の提案を受ける形をとる。
「じゃあ、放課後って事で、俺は行くからな」
秀人は夢の手を振り解くと、屋上に行った。
そして、いつも通り、先に来ていた春奈に謝った後、2人は一緒に昼食を取った。
午後の授業が終わり、夢はまた秀人に声をかけた。
「少し待ってもらって良いか?みんなが帰ってから話がしたい」
「だったら、どっか別の場所で話せば良いだろ」
「とりあえず、俺は用事あるから行くね」
和孝はそう言うと、1人で教室を出て行く。
「屋上なら良いんじゃねえか?」
「あそこは立ち入り禁止だ」
「俺、よく行ってるんだけどな……」
結局、秀人は夢の提案を受け、教室で待つ事にする。
しかし、10分程経っても他の生徒が教室に残っていたため、秀人はため息をつく。
「やっぱり屋上に行かねえか?」
「……しょうがないな」
いつまで経っても話が出来ないため、2人は屋上に向かった。
「誰もいねえみたいだ」
秀人は周りを確認し、屋上に誰もいない事を確かめる。
「で、話って何だよ?」
「……及川、最近、昼はどうしてるんだ?」
「別にお前には関係ねえだろ」
「ああ、そうだな。あ、最近、私と和孝を一緒にしようとしているのはなぜだ?」
「別にちょっとした悪戯だよ」
それから、夢は本題に入る事なく、脈絡のない質問を繰り返す。
秀人はしばらくの間、付き合っていたが、早く帰りたいという気持ちもあるため、自分から切り出す事にした。
「話ってこんな話じゃねえだろ?何の話がしたいんだよ?」
「あ、その……及川の事で、気になる噂を聞いたんだ」
「お前も噂とか気にするんだな」
「それで……」
その時、物音がしたため、2人は階段の方へ目をやる。
「あ……」
そこには春奈が立っていた。
「秀人君、ここにいたんですね」
「お前、部活はどうしたんだよ?」
「あ、その……先程、気になる事がありまして……」
「気になる事って?」
「久保さんが、怖そうな方に連れられて空き教室に入って行ったんです」
春奈の言葉に、秀人は少しだけ表情を変える。
「春奈、案内してくれ。遠野、悪い。話はまた今度にしてくれ」
「だったら……教室で待ってる」
「いつまでかかるかわからねえし、先に帰れよ」
夢を屋上に残し、秀人は春奈と共に階段を下りて行った。
「ここか?」
春奈の案内で、2人は空き教室の前に立つと、中の様子をうかがった。
「はい、ここです」
「開かねえな……」
秀人はドアを開けようとしたが、鍵がかかっていて開かなかった。
そのため、秀人は勢い良くドアを叩き始める。
しばらくの間、誰も出て来なかったが、秀人がしつこく叩き続けると、ようやくドアが開き、1人の男子生徒が出て来た。
「何だよ?」
「ここに和孝いるよな?」
「いない」
「そっか……。和孝、聞こえるか!?」
その時、中から和孝の声が聞こえた。
「素直に中へ入れたらどうだ?」
「……わかった、入れ」
「春奈、お前は部活に……」
秀人は春奈を巻き込まないようにしようとしたが、春奈は既に中へ入ってしまっていた。
「バカ!」
慌てて、秀人も入った後、ドアはまた閉められた。
「お前は出てけよ」
「秀人!」
和孝は秀人の姿を確認し、泣きそうな表情を見せる。
そこには麻雀を行うためのマットを敷いたテーブルがあり、上には麻雀牌が転がっている。
先程、ドアを開けた生徒の他に2人の男子生徒がテーブルに着き、和孝を入れれば4人になる。
「賭け麻雀か?」
「秀人、どうしよう……?」
その様子から、秀人は和孝が負けているのだろうと判断する。
「伝説の雀士になるなんて言い触らしてるから、カモにされるんだよ。点差はどうなってる?」
「今、俺の1人和がりでそいつから24000点もらった」
向かいに座る生徒は笑みを浮かべている。
その様子から、この生徒がリーダーのようなものだろうと秀人は判断する。
「スタートは25000点だよな?てことは、お前は49000点で、和孝は残り1000点って事か」
秀人は軽く深呼吸をする。
「……ここから安全に出るためには、和孝が勝つのが手っ取り早そうだな」
秀人の言葉に他の者は笑う。
「次は丁度、そいつの親だ。連勝すれば逆転出来るかもな」
そこで秀人は頭を働かせる。
「俺が和孝の代わりに入るのは可能か?」
「え?」
秀人の質問を受け、少しだけ考えた後、向かいに座る生徒はまた笑みを浮かべる。
「条件を飲むならな」
「条件?」
「その女、立石だよな?そいつを賭けろ」
「は?」
秀人は春奈に目をやる。
「お前がこのまま負けたら、その女を好きにさせろ」
「お前、同い年だよな?ませた事言ってるんじゃねえよ」
「私はそれで構いません!」
春奈は真剣な表情だ。
「お前、意味わかってるのか?」
「秀人君が勝てば良いって事ですよね?」
「負けたら、何されるかわからねえだろ」
「おい、その女が了解してるなら良いだろ」
秀人は少しの間、また考え、決心するように大きく息を吐く。
「わかった。和孝、変われ」
「あ、うん」
秀人は席に着くと、麻雀牌を交ぜる。
「俺の親で良いんだよな?」
「ああ」
「じゃあ、始めよう」
そう言うと、秀人は慣れたように牌を積む。
「お前、慣れてるんだな。そいつ、牌を積んだ事がないと言って、時間がかかってたんだよ」
秀人はその言葉を特に気にする事なく、サイコロを振る。
そして、4人は手早く配牌を終える。
秀人は牌を倒したまま、大きく深呼吸をする。
「和孝、もう1度だけ、一生分の運を使え」
「え?」
「心から勝ちたいって願え」
「もう願ってるよ」
「だったら良い」
秀人は向かいに座る生徒に目を向ける。
「良いのか?」
「何がだ?」
「和孝が一生分の運を使って勝ちを望んだ。このまま始めれば俺が勝っちまう」
「良いから、さっさと牌を開けろ」
「承諾したって事で良いんだな?」
秀人は牌を立てると、手早く並び替え、そのまま倒した。
「天和・四暗刻・大四喜・字一色。4倍役満で64000点オールだ」
秀人は冷めた口調で続ける。
「俺の逆転勝ちだ」
「これは参ったな……」
向かいに座る生徒は険しい表情を浮かべる。
「お前、麻雀はどこで覚えた?」
「子供相手に本気を出す、大人気ねえ親父とやって覚えた」
「雀荘に行った事はあるか?」
「2年ぐらい前に親父に連れられて、よく行ってたけど、今は全然行ってねえよ」
「そうか……」
それだけ確認すると、向かいに座る生徒は笑った。
「俺達3人……味方とは言え他にも2人いるのに、こんな役を完成させたって事は、まともにやって勝てる相手じゃないようだな。お前ら、ここは素直に負けを認めるぞ」
「良いんですか?」
「たく、いくら払えば良いんだ?」
「とりあえず、金なんていらねえから、ここから出してくれ。あと今後、和孝や春奈に仕返しみたいな事するなよ」
秀人は席を立つ。
「俺達は負けたんだ。金は払う」
「だから、いらねえっての。納得いかねえなら、貸し1つって事にしてくれ」
秀人は和孝と春奈を連れて、そこを出た。
秀人達は軽く息をついた後、自分達の教室に向かった。
「俺、明日こそ死ぬかな……」
「何でだよ?」
「だって、一生分の運をまた使っちゃって……」
「お前、バカか?」
「え?」
和孝は意味がわからず、首を傾げる。
「久保さんの運は関係ないんですよ」
「ああ、春奈の言う通りだよ」
「正義は勝つという事です」
「お前もバカだな」
「え、なぜでしょうか?」
今更、イカサマをしたとも言えず、秀人は苦笑する。
「お前ら……今後、賭け麻雀とかするなよ。あと、春奈、俺が負けたらどうなってたか、本当にわかってたのか?」
「はい、わかっていたつもりです。でも、秀人君を信じていましたから」
「あのな……俺が勝つ保障なんてなかったんだ。そもそも、俺が麻雀出来るってことすら知らなかっただろ?」
「それでも信じてました」
そこで、春奈は大きく息を吸う。
「私、秀人君の彼女ですから」
その言葉に秀人と和孝は足を止める。
「だから、何があっても信じます」
その時、秀人は一瞬だけ和孝に目をやり、苦笑する。
「お前、とりあえず部活行けよ。みんな心配してるかもしれねえだろ」
「あ、そうでした。じゃあ、失礼します」
春奈は早足でその場を後にする。
「春奈ちゃんって、あんな感じだったんだね」
「前に言っただろ。お前らが持ってる印象は間違ってるって」
「でも、秀人の前でだけなんじゃないかな?」
その時、前に夢がいたため、2人は足を止める。
「お前、帰ってなかったのか?」
夢は顔を下に向けたまま、何も答えない。
「遠野?」
「お前と立石、付き合ってたんだな……」
夢は駆け足で行ってしまった。
「最悪かもね……」
「え?」
和孝の言葉の意味が、秀人にはわからなかった。