第3話「春を告げる桜餅作り」
3月10日、真琴の町に春の訪れを告げる風が吹き始めていた。学校が終わり、真琴は友達と一緒に公民館へと向かっていた。
「ねえ、まこちゃん。桜餅作りの教室、楽しみだね」
千鶴が嬉しそうに話しかけてきた。
「うん! でも、ちょっと緊張するな……」
真琴は少し不安そうな表情を浮かべた。
「大丈夫だよ。みんなで一緒に作るんだから」
弦一郎が真琴の肩を軽く叩いた。
公民館に着くと、すでに多くの人が集まっていた。お年寄りから子供まで、町の人々が笑顔で話し合っている。
「みなさん、お集まりいただきありがとうございます」
町の文化協会の方が前に立ち、話し始めた。
「今年の春祭りでは、みなさんが作った桜餅を振る舞う予定です。特に、卒業を控えた6年生のみなさんには、思い出として精一杯頑張っていただきたいと思います」
真琴たちは、期待と緊張が入り混じった表情で聞いていた。
◇ ◇ ◇
「はい、まず桜の葉を塩水で洗いましょう」
指導してくれる地域のおばあちゃんの声に、真琴たちは慎重に作業を始めた。
「工藤さん、その調子! 葉っぱは優しく扱ってね」
真琴は必死に応えようとしたが、繊細な作業に戸惑っていた。
「あ、ごめんなさい! 葉っぱが破れちゃった……」
真琴は顔を真っ赤にして謝った。
「まあまあ、大丈夫よ。慣れるまでは誰でも失敗するものよ」
優しく声をかけてくれる地域の人たち。その温かさに、真琴は少し安心した。
休憩時間、真琴は千鶴と外に出た。
「まこちゃん、大丈夫?」
「うん……でも、なかなか難しいね」
「そうだね。でも、みんなで作るのって楽しいよ。この町の伝統を、私たちが受け継いでいくんだって思うとワクワクする」
千鶴の言葉に、真琴は少し元気づけられた。
「そうだね。もっと頑張ってみる!」
◇ ◇ ◇
作業が再開し、真琴は必死に桜餅作りに挑戦した。餡を包む作業で悪戦苦闘していると、後ろから声がかかった。
「工藤、ここはこうだよ」
振り返ると、弦一郎が立っていた。
「餡を包むときは、こうやってやさしく押さえるんだ」
弦一郎がゆっくりと手順を教えてくれる。
「あ、そうか! ありがとう、弦ちゃん」
真琴は何度も繰り返し練習した。少しずつだが、コツをつかんでいく。
教室が終わる頃には、真琴の作った桜餅もだいぶ形になってきた。
「よくがんばったね、まこちゃん」
千鶴が笑顔で声をかけてくれた。
「うん、みんなのおかげだよ」
真琴は照れくさそうに答えた。
◇ ◇ ◇
家に帰ると、母の美里が待っていた。
「おかえり、まこと。桜餅作りはどうだった?」
「うん、難しかったけど楽しかった! みんなで作るのって、なんだかすごく心が通じ合える気がしたよ」
美里は優しく微笑んだ。
「そうね。桜餅作りは、この町の春の風物詩なのよ。私も若い頃、おばあちゃんから教わったわ」
「へえ、ママも作ってたんだ」
「ええ。そうそう、まこと。ちょっと待ってね」
美里は台所に行き、しばらくして一つの箱を持って戻ってきた。
「これ、見てごらん」
箱を開けると、中には美しい桜餅が入っていた。
「わあ、きれい……」
「これは、私が今朝作ったのよ。明日の教室で、みんなで比べてみるといいわね」
真琴は感動して、その桜餅を大切そうに見つめた。
「ママ、ありがとう。明日、みんなに見せるね」
その夜、真琴は自分の部屋で、母の桜餅を思い出しながら考えていた。
「桜餅には、この町の人たちの思いがいっぱい詰まってるんだな。私も、みんなと一緒に素敵な思い出を作りたい」
真琴は決意を新たにした。明日からの教室も、もっと頑張ろうと思った。
◇ ◇ ◇
それから数日間、真琴たちは熱心に桜餅作りを学んだ。徐々に技術が上達し、みんなで協力して準備を進めていく。
ある日の教室後、高坂先生が真琴たちに声をかけた。
「みんな、とても上手になったわね。この調子で頑張れば、きっと素晴らしい春祭りになるわ」
先生の言葉に、クラスのみんなは喜びの声を上げた。
「先生、私たち、卒業式の日にも桜餅を振る舞いたいです!」
真琴が突然言い出した。周りの友達も「そうだね!」「いいアイデアだよ!」と賛同の声を上げる。
高坂先生は少し驚いた表情を見せたが、すぐに優しく微笑んだ。
「そうね、素敵なアイデアだわ。みんなで相談して、実現できるように頑張りましょう」
真琴たちは歓声を上げた。卒業式での桜餅振る舞いに向けて、さらに練習に熱が入る。
教室を終えて帰り道、真琴は千鶴と弦一郎と一緒に歩いていた。
「ねえ、私たち、こうやって一緒に何かを作り上げるのって、最後かもしれないね」
千鶴が少し寂しそうに言った。
「そうだな。でも、これからも何かあれば、また集まれるさ」
弦一郎が力強く言った。
「うん、そうだね。私たちの絆は、この桜餅みたいに、ずっと続いていくんだよ」
真琴の言葉に、三人は笑顔で頷いた。
夕暮れの空に、桜の蕾がほころび始めているのが見えた。春の訪れと共に、新しい季節への期待が胸に広がっていく。真琴は心の中で、仲間たちと過ごすこの時間を大切に刻み込んだ。
「みんなで作る桜餅。これが私たちの、最高の思い出になるんだ」
真琴はそう心に誓いながら、明日への希望を胸に家路についた。
◇ ◇ ◇
夕食後、工藤家では恒例の入浴タイムがやってきた。
「さあ、みんなでお風呂に入りましょう!」
美里が声をかけた。
「わーい、温泉だー!」
勇斗が嬉しそうに叫ぶ。
工藤家の自慢は、なんと自宅に引かれた温泉だった。地元の温泉を引き込んだこの贅沢な設備は、毎日の疲れを癒してくれる家族の最高の憩いの場所だ。
真琴は少し照れくさそうに「私、先に行ってるね」と言って、先に脱衣所に向かった。思春期に入り、家族と一緒にお風呂に入ることに少し恥ずかしさを感じ始めていたが、それでも大好きな家族と一緒に入りたいという気持ちの方がまだ強かった。
広々とした浴室に入ると、湯気が立ち込めていた。真琴が湯船に浸かっていると、すぐに勇斗が元気よく飛び込んできた。
「お姉ちゃん、背中流して!」
勇斗が元気よく声を上げた。
「はいはい」と真琴は笑いながら、真琴は弟の背中に手を伸ばした。
小さな背中に優しく石鹸を塗りつけ、円を描くように洗っていく。勇斗の肌は柔らかく、温かい。
「くすぐったいよ、お姉ちゃん」
勇斗がクスクスと笑う。
真琴は微笑みながら、丁寧に背中を洗い続けた。弟の成長を感じさせる、少し大きくなった背中。でも、まだまだ幼さの残る丸みを帯びた肩。そんな弟の姿に、真琴は愛おしさを感じる。
「はい、終わりだよ」
真琴が告げると、勇斗は振り返った。
「ありがとう! じゃあ、今度は僕がお姉ちゃんの背中を流すね」
勇斗の申し出に、真琴は少し驚いた。
でも、弟の真剣な表情に、思わず頬がゆるんだ。
「うん、お願いね」
真琴が背中を向けると、小さな手が背中に触れた。ぎこちない動きだが、一生懸命に洗おうとする勇斗。
「痛くない?」
心配そうに聞く弟の声に、真琴は優しく答えた。
「ううん、ちょうどいいよ。上手だね、勇斗」
その言葉に嬉しそうな勇斗。真琴は目を閉じ、弟の温もりを感じながら、この何気ない幸せな時間を噛みしめた。
家族の絆、姉弟愛。それらが湯気とともに立ち昇り、二人を包み込んでいるようだった。真琴は、こんな何気ない日常のひとコマが、いつか懐かしい思い出になることを、何となく感じていた。
そこへ両親も加わり、家族全員が湯船に浸かった。心地よい温かさが体を包み込む。
「ああ、今日も一日お疲れさま」
正治がふーっとため息をつく。
「まこと、今日の桜餅作り、楽しかった?」
美里が尋ねた。
「うん! 最初は難しかったけど、みんなで作るのって楽しいね」
家族で今日あったことを話し合いながら、ゆっくりと湯に浸かる。温泉の効能か、みんなの顔がほんのり赤くなっていく。
「ねえパパ、この温泉って昔からあったの?」
真琴が不思議そうに聞いた。
「ああ、この辺りは昔から温泉が湧き出る地域としても知られてたんだ。昔の人たちの知恵と、自然の恵みのおかげだよ」
正治の説明に、真琴は感心したように頷いた。
しばらくすると、勇斗が「お手てがしわしわになっちゃった!」と言って、真っ先に湯船から出た。
家族全員で笑いながら、のんびりとした時間を過ごす。真琴は、この何気ない日常のひとときが、どれほど幸せなことかを感じていた。
湯上がりの後、真琴は鏡の前で髪を乾かしながら、ほっこりとした気分になった。温泉に浸かって温まった体に、桜餅作りの達成感が重なり、充実した一日を過ごせたことを実感する。
「明日も頑張ろう」と自分に言い聞かせ、真琴はベッドに向かった。窓の外では、さくらんぼの木が静かに佇んでいた。その枝先の芽が、今日よりもまた少し大きくなったように見えた。