6. 血の誓い
一方、入院中のエドガーの朝は早い。
今朝は、『検査ですよ』と看護師に叩き起こされた。薬がきれたのか、胃がじくじくと痛み、エドガーは顔をしかめる。
キーラという名の体格のいい看護師は、検査技師を従えていた。にごった液体を飲むように言われる。液体は信じられないくらい苦く、まずかったけれど、何とか平然と飲み切った。
「今日は鼻と口から管を入れて、胃の中を魔法でみていきますよ」
管と聞いて、エドガーは恐怖を覚えるけれど、やはり顔には出ていない。キーラは言った。
「さすがでいらっしゃいます。さっきの液体は、どんな男性でも必ず涙を流しますし、管に至っては失神します。魔法は使えませんので」
ニヤリと笑ったキーラの発言によって、エドガーの中で恐怖は増していくけれど、彼は肯くだけだ。
「それで異常なければ、ペースト状にしたおかゆを夜から召し上がれますから、がんばってくださいね」
エドガーは失神しなかったけれど、自力で病室に戻れなかった。不覚にも、両脇を支えられながらベッドに入るとすぐ眠りについた。
彼が目覚めると、侯爵夫人がベッドの横に腰かけて読書していた。後ろで荷を解いていた侍女が、振り向きざまにエドガーが目覚めたことに気づく。
「まあ、エドガー様!」
目を上げた侯爵夫人がおどいたのは一瞬で、すぐに笑顔になった。
「気分はどうなの? 検査が大変だったようね」
「は、いえ。大丈夫ですよ。検査の結果はどうでしたか?」
「やはり胃壁に穴が空いていると。腫瘍とか深刻なものではないと。念のため、明日はおしりから管を……」
宮廷で一、二を争う貴婦人である侯爵夫人は、顔を赤らめて咳払いした。
「あとで、先生が詳しく説明してくださるそうよ。……そうそう、さっき、医務室に行ってきたの」
エドガーは、慌てて理由を聞いた。
「一昨日、医学校とシシー嬢の下宿にお礼を持って行ってきたの。どちらもシシー嬢に会えなくて。学校にはお礼金を託したのだけど、辞退の連絡が今朝あってね」
侯爵夫人は感激した面持ちで続ける。
「『当たり前のことをしただけです。それに閣下は国を救って下さった方。光栄に思っています』と言われてね」
エドガーがうつむく。彼の耳が赤く染まっているのに気づいた侯爵夫人は、さらに煽る。
「でも彼女、働きづめでかわいそうなの。朝もだけど、学校終わって夕方から夜まで休みなく働いているのよね」
侯爵夫人は、とても心配そうに言った。
「大変よね。勤勉さは素晴らしいけれど、若いお嬢さんなのにかわいそう、」
「なぜ彼女は、そんなに働かないといけないんですか?」
侯爵夫人の話をさえぎるようにエドガーが聞く。彼の予想以上の食いつきに満足した侯爵夫人は、ゆったりと言った。
「マインドスケープの領主が今は代行なのは知っているわよね」
エドガーは記憶をたどりながら肯く。眉間にしわを寄せながら考えるとすぐ、シシーの激務の理由を自ら導き出す。
侯爵夫人は、こんなとき、彼がいかに真剣に物事を考えているかを知っていた。幼い頃からこの顔をするときは、すごいことを成し遂げてきたものだ。
(それにしても……、これは、想像以上に本気でシシー嬢のことを……)
「朝も彼女はものすごく早い様子だった」
「そうなのよ、朝は五時に下宿を出て、陽が出ている間は学校、夜帰ってくるのはだいたい九時前らしいわ」
エドガーの良すぎる反応に内心にんまりしながら、侯爵夫人は、エドガーの騎士道精神を煽るだけ煽ることにした。
「あんな人目をひくお嬢さんが夜道を歩いていたら、おかしなこと考える男が出てくるわよね」
エドガーの眉間のしわがだんだん深くなり、イライラと足をゆすっているのがシーツ越しでもわかった。
「下宿の管理人さんも真剣に心配していたわ。いつ過労で倒れてもおかしくないって」
「仕事は魔法自転車で行くらしいけど、古いからしょっちゅう壊れて、この前は足にけがをしたとか」
エドガーは、一部脚色をふくむ侯爵夫人の話を黙って聞いていたけれど、声をしぼりだすように言った。
「……誰も手助けしないんですか?」
エドガーの地の底を這うような低い声に、侯爵夫人は慄きながら答えた。
「マインドスコープの意地があるでしょうよ。彼らはとても勤勉で……誇り高い」
「それでも領主代行の叔父以外は何をやっているんだ。それに亡き子爵夫人の実家は伯爵家だったはず」
「伯爵家は、亡き子爵夫人の異母弟が当主よ。子爵夫人とは歳が離れていて、産まれたときには侯爵夫人は嫁いでいたから縁は薄いらしいのよ」
「それにしたって……」
そう言いかけてエドガーは黙り込む。落ちぶれた親戚を見て見ぬふりする、そんな話はありふれた話だからだ。
「領主代理の叔父夫妻ががんばっているとはいえ、何の楽しみもなく、医師として一人前になることと、弟を成人させることにしか考えていないシシー嬢が不憫で……。誰かいい人いないかしら? 騎士団にはいないの?」
エドガーはすっかり落ち着きがなくなり、ギリギリと歯を食いしばっていた。ちょっとやりすぎたか、と侯爵夫人が思った時、彼はしゃがれた声で言った。
「彼女は恩人だ。考えさせてください」
エドガーは、侯爵夫人が帰った後、大変なことに気がついた。侯爵夫人は、『シシー嬢の職場に会いに行っていた』と言っていたのに、その話を聞くのを忘れていたのである。
しかし、侯爵夫人が一人で見舞いにやってきたのはその日だけで、次の日からは家族か親戚が同行した。しかも、十分ほどでさっさと帰っていくので、シシー嬢のことが何も聞けない。 アレクシスに聞こうと待つけれど、これまたタイミングが悪い。
(はあ……何もしたいようにできないな。それに何もすることがないな)
エドガーはシシーのことばかりを考えるようになった。すると、シシーは身近になると同時に、美化されていく。
(きれいだったなあ)
いきいきとしていて、強い意志の感じられる紫色の大きな瞳にのぞきこまれた瞬間、エドガーは、今までにない衝撃を受けた。なめらかなのに低めの声も、いつまでも聞いていたかった。そして、少しかさついた手に触れられると、胃の焼けつくような痛みすら忘れた。華奢なのに背負おうとしたギャップもたまらなかった。かつて味わったことのない高揚感を思い出す。
(彼女に会いたい。ずっとそばにいて見つめていたい。苦労させるなんてとんでもない)
そんな気持ちを人は何と呼ぶか、いくら堅物でもエドガーは知っていた。
シシーは芯の強い女性のようだけれど、一人がんばるばかりで、彼女を支えたり、いたわる人はいないのだ。そう思うと、手段を選ばず、今すぐ我が物にしたくなった。
(まだ会話らしい会話もしたことがない相手に何を考えているんだ。身体が弱っている上に病院に閉じ込められているせいで、思い詰めているだけかもしれない。退院して、日常に戻れば、もしくは、もう一度会ったら、夢から醒めるのかもしれない)
いちおう分別は残っていたが、シシーのことを思うと胸がうずく。
(一刻も早く退院して、シシー嬢に会って確認したい。というより、彼女の顔が見たい)
そんな焦りはあっても、不安はほとんどなかった。エドガーは傲慢ではなかったけれど、自信もプライドもたっぷりあって、それが傷つけられた経験はなく、侯爵夫人やアレクシスのような危惧をまだ持っていなかったからだ。
だから、シシーとどうやって関係を深めるか、という現実的なことではなく、侯爵夫人が知ったら、『思春期の男子じゃあるまいし!』と、ののしりそうなことばかり想像していた。
(彼女をエスコートして出かけ、彼女からまばゆい笑顔を向けられたらばたまらない。抱きしめたい)
しかし、夜中目を覚ましたときや、見舞いの家族が帰ったときには、シシーにとって自分は見知らぬ存在にすぎないことに、ふと思い至って、孤独を感じた。
(まだ何もわからないんだから。シシー嬢に対する気持ちもこれから確認すればいいんだ)
そしてあるとき、彼は自分の気持ちを自覚し、覚悟を決めた。
やっと侯爵夫人とアレクシス二人だけが偶然病室に居合わせたときに、自らシシーのことを聞いたときのことだ。
「マインドスケープ子爵令嬢はお元気か?」
エドガーはアレクシスに聞いた。
「……ああ、ちょっと前、珍しく体調が悪そうだったけど、」
「あら、風邪か何かかしら?」
侯爵夫人がすぐに聞いてくる。
「過労じゃないですかね、医学生の宿命だから」
アレクシスは肩をすくめた。国立医学校は、最高峰の教育機関なので、勉強は非常に厳しい。その中で、働きながら主席をとったシシーは、アレクシスが言う通り、間違いなく過労気味なのだ。
エドガーは、言いようのない歯がゆさを感じた。
「まあ、なんてことかしら。そうはいっても若いお嬢さんよ」
侯爵夫人がつぶやく。
「裕福な家の者から、家庭環境に恵まれない者までが、様々いますよ。珍しい話ではないですよ」
「奨学金で、学べるんでしょう?」
「その奨学金を受け続けるのが大変なんです。シシーは、とびぬけて頭脳が優秀なわけではなくて、体力と気力と努力の仕方が……」
アレクシスの説明はもはや耳に入らず、エドガーはぶるぶる震えていた。そしてそんなエドガーの様子を、アレクシスは驚き、侯爵夫人はあきれながら見ていた。
(何が何でも俺が幸せにしたい)
絶対に諦めないと、エドガーはオルレアン侯爵家の血に誓った。