5. 侯爵夫人の暗躍
侯爵夫人は、行動力がある上に、せっかちだった。
その日の昼下がり、早くも侯爵夫人は医学校を訪問した。そして、シシーへのお礼の金貨や手紙を託した。
さらに、一流の洋菓子店で土産を買い求めると、シシーの下宿に押しかけた。 学生のシシーが帰宅していないのは承知していて、管理人に預けようと思ったのだ。
オーナー兼管理人のマチルダは、ポーチを掃除しているところだった。
「どちら様でいらっしゃいますか?」
家紋入りの上品な馬車から降り立った侯爵夫人に、マチルダはうやうやしく挨拶をした。
「実は、こちらにお住まいのマインドスケープ子爵令嬢に、うちの息子が今朝助けていただきまして、お礼に伺いました」
マチルダはシシーの留守を告げ、差し出された箱を預かった。
「うちの息子が倒れたところを背負って、病院まで運んでくれて、本当に助かりました」
「お坊ちゃま、大変でしたね」
背負ったと聞いて、幼児だと思ったマチルダはいたわしそうに言った。
「それが、もう三十近い息子なんですの」
侯爵夫人が苦笑しながら言うと、マチルダは目を見ひらいた。
「ま、まあ、失礼いたしました。でも、シシーは人並み以上に魔法を使えますし。困っている人を放っておけないのです。彼女は、由緒正しい子爵家のご令嬢なんですよ」
マチルダは、必死になって言った。
「まあ、そうなのですね」
侯爵夫人は初めて知ったように、驚いてみせる。
「あ、そうなんです。とてもいいお嬢さんですよ。ご令嬢相手には褒め言葉ではないのでしょうが、働き者で、勉強家です」
「素晴らしいですね」
「でも、何事も限度がありますよね。若い女の子、しかもご令嬢が、お洒落も楽しみもなく、勉強とバイトばかり。さすがに不憫だと今朝も思っていたところで」
「ご心配なさっているんですね」
「一日たまたま見なかっただけでも部屋でひとり倒れてるんじゃないかと」
「わかります、まだ成人前のお嬢さんをお預かりしていらっしゃるわけで。大変なお仕事ですね」
マチルダと侯爵夫人は、長々と立ち話を楽しんだ。
◆◆◆
「ねえ、君」
晩餐のあいだ、頭の中で作戦を練っていた夫人に侯爵は話しかけた。
「わかっていると思うけど、君が出張るべきじゃないよ」
「でもあなた。あのエドガーがうまくやれると思うの?」
「まぁ不器用なところはあっても、君譲りの美貌と私譲りの体躯、地位も名誉も才能もある。甘い言葉ひとつで、すぐ落とせるんじゃないか? 何といっても、君に求婚したときの私より奴は顔がいい」
「甘いのはあなたよ! その甘い言葉ひとつが、あの唐変木から出てくると思うの?」
「そうは言っても、親にできることはないよ」
侯爵夫人がじんわり涙を浮かべたので、侯爵は慌てた。
「いや、もちろん、応援すればいい」
「あなたは母親じゃないから……。母親っていうのは、子がいくつになっても赤ん坊のころのまま、心配でたまらないのよ。後継も必要だけど、あの子の今後一生の幸せに関わってくるのよ。あなたのように、わかりにくくてまだるっこしい求婚をしたらと思うと……」
「そ、それほどまだるっこしい求婚はしていないと思うぞ」
侯爵は消え入りそうな声で、妻に反論した。
「いいえ、あなたがはっきり求婚するまで、私は何度呼び出されたと思っているのです?! 叔父様は『もう放っとけ』とさじを投げたほどでしたえわ」
「え。陛下が? そうなの?」
ぎょっとして聞き返した侯爵は、冷ややかな妻の顔にがっくりと肩を落とした。
「シシー嬢は、しかも鈍……いいえ、とても純粋なの。だから、私と違って、気づかないままスルーしてしまうかもしれないわ。そうね、エドガーに言っておかないと」
侯爵夫人は、神からのお告げともいえるすばらしいアドバイスを思いついたのに、残念ながら、伝えるのを忘れてしまうのだ。
「しかし、そもそもエドガーがシシー嬢に惚れたのは間違いないのか?」
「あなたも驚いていたじゃないの! いいわ、明日も面会に行くし、シシー嬢の職場にも行って情勢を確かめてくるから」
侯爵はあきらめた。そして、最愛の妻が生き生きしいてるなら何よりだと自分に言い聞かせた。
「君も知ってる通り、オルレアン侯爵家の男は代々、思い込みが激……いや、情熱的だ。エドガーに関しては違うかと思っていたが、こうなってくると、何が何でも何とかするかもしれないぞ」
そう、かつて『宮廷の薔薇』と称えられた侯爵夫人と結婚し、今でも宮廷きっての愛妻家で知られる彼は、自信を取り戻して言い切った。
「それはそうね」
侯爵夫人は昔を思い起こしながら、重々しく言った。
「素晴らしいお嬢さんのようだから、私にも異論はないわ。もはやエドガーの気持ちはどうでもいいとすら思える。ぜひお嫁さんにきてほしいわ。会って話すのが待ちきれない」
唖然とした侯爵は、もう聞こえないふりを決め込み、給仕係を呼ぶとコーヒーのおかわりを頼んだ。
◆◆◆
一方、侯爵夫人にロックオンされているとは夢にも思わず、シシーはお土産の焼き菓子をつまみながら、ため息をついた。
「はああああー。信じられないくらい美味しかった」
マチルダが入れてくれた紅茶を飲みながら、一緒に深夜のおやつパーティ中だ。まもなく十一時。
たっぷりのアーモンドクリームに宝石のように綺麗にカットされたドライフルーツが飾られているタルト、ふんわりとしているのにどっしりと重めのケーキを食べた。
大満足だ。この国では砂糖は高価で、ここのお菓子は高嶺の花だ。久しぶりに食べた。まだまだたくさん残っている。シシーは大きな箱を横目で見て、にんまりした。
「本当においしかった」
シシーはなおも繰り返した。
「助けた相手は、名門侯爵家の嫡男で、騎士団長なんだって?」
マチルダが目を輝かせて聞いてきた。
「そうらしいです」
シシーは三つ目を食べようかどうか真剣に考えていて、オルレアン騎士団長どころではなかった。
「やっぱり三つめは入らない。マチルダさんは?」
「私も無理そうだわ」
「遠慮なくですよ、それからこちらお土産にどうぞ」
シシーは、箱から長細いパウンドケーキを差し出した。
「ううん、全部日持ちするのだし、学校や職場でおやつにしなさい」
マチルダは首を振りながら言った。
「こんなにたくさんあるんですよ」
「あなたへのお礼よ。あなたは自分をもっと甘やかすべきだし、楽しみが必要。そんなことより、オルレアン騎士団長のことよ。独身で婚約者もいないって。しかもめちゃくちゃ男前じゃない」
「よく知ってますね」
シシーはつまらなさそうに、ぽりぽり首をかいた。
「侯爵夫人とお話しした後、新聞読んでたら写真が載っていたのよ。あの侯爵夫人はなかなかいい方だわ。シシーに会ってもいないのに、すごく気にしていて、すごく話したそうにしていたわよ。ぜひ親しくさせていただきなさい」
マチルダの熱量がいつになくすごい。
「え。何で?」
シシーはあくびを噛み殺す。
「ロマンスの香りがするからよ……。薄幸の美少女が冷血騎士団長の危機を助けた、ときたら、そこで始まるのは純愛じゃないの?」
「何で?」
シシーにはわけがわからなかった。何だかいろいろとおかしい。薄幸の美少女などどこにもいないし、何より男女の役割を逆にしないとロマンスははじまらないのではないだろうか。しかし、面倒臭いので口には出さない。
「何で、じゃないでしょう。ロマンスが生まれないにしても、あなただってご令嬢なんだし、社交界の名士と知り合ったら、つながろうとするものじゃないの? それに、仕事するにしても、婚活するにしても人脈って、とっても大事よ」
「相手が高位貴族な上に陛下の姪御さんでは、つながろうというのも畏れ多いかと」
「だって、向こうがシシーと会いたい、話したいと熱望してるのよ。あなたは子爵家を代表して王都に来ているんじゃないの」
マチルダは身を乗り出して熱弁した。
「……はい、可愛い弟のため、好印象を残せるようがんばります」
熱量のない声で、シシーは答えるも、マチルダの目はごまかせなかった。
「何か違うけど……」
「そんなことよりも、マチルダさんの彼はお元気ですか?」
マチルダが付き合うのはいつも歳下が多く、今彼は王宮で働く文官で、毎日のように会いにきては尽くすらしい。
「そうね、相変わらずよ」
マチルダの恋の話はいつもながら楽しい。シシーは、時間のこともエドガーのこともすっかり忘れ、楽しむ。
後から思い返すと、それは運命の一日だったけれど、呑気なシシーは何ひとつ気づくことなく、他愛ない話で夜は更けていくのだった。それは、シシーにとって、ほんのたまにある束の間のささやかな楽しみだった。
「賞味期限はあとひと月あるから、そうね、一日ひとつか一切れ食べることにしよう。あと一ヶ月も食べれるなんて、超うれしいな」
マチルダが帰ると、手早く明日の準備をする。休み時間にお礼の手紙を書こうと、お菓子と一緒に、シンプルだけど上質なびんせんと封筒もバッグに入れる。
明日も忙しい。でも最近憂鬱な早起きが今は苦ではなかった。自然と笑みがこぼれ、見知らぬ侯爵夫人に心の中で手を合わせた。