32. 騎士団長の苦境
ところで、エドガーが、侯爵夫人と前侯爵夫人からの手紙を読んだのは、届いてから丸一日経ってからだった。
急使ではなく、手紙だったので急ぎではないという判断をしたからだけれど、手紙に目を通したエドガーは、血の気が引くのを感じた。
侯爵夫人の手紙には、家族に丸投げのエドガーへの怒りがつづられていた。そして、前侯爵夫人の手紙は、母親への謝罪を忠告する内容だった。
エドガーは後回しにしたことを深く後悔した。
(まずい。母上が憤怒している。こんな怒りは、いつ以来だ? 俺が、子どもの頃、おなかが痛いと嘘をついて、剣術の練習をさぼって以来か?)
その時、騎士団長室が高らかにノックされ、返事を待たずに入室してきた者がいた。
国王のひとり息子で王太子であるアルジェントだった。侯爵夫人のいとこにあたる彼は、今年で三十五歳になる。偉大な現王と比較をされながら、厳しく育てられたので、少々屈折している。
エドガーは王太子の姿を認めると同時に、立ち上がって敬礼する。
「やあ、父上の護衛計画の練り直しは進んでいるかな?」
「はっ」
王太子は、鷹揚な態度で、エドガーに応接セットに座るよう促した。二人は向かい合って座った。
「上席画家の話を聞いたか?」
「ミハエル・アントワープ子爵のことですか?」
ヒールダー伯爵家でのミハエルとシシーの接近(少なくともエドガーにはそう見えた)以来、警戒している名前が出たため、エドガーは即、鋭く問いかけた。
「そうだ。君の母君が、昨日父上のもとへいらしてね。アントワープ子爵を貸してほしいと。知っているかい?」
「……申し訳ございません。存じません」
驚いたように声をあげたエドガーに、王太子は眉を上げた。そして、前侯爵夫人の肖像画の依頼だと付け加える。
「珍しいだろう? 君の母上が一人で王宮にあがるのも、父上に願い事をするのも。だから、王宮内ではちょっとした騒ぎになったけれど、誰も異議を唱えなかった」
「は。陛下のご配慮、わが侯爵家にとって、身に余る光栄でございます」
エドガーは深く頭を下げた。
「……噂になっているね、どっかの子爵家の令嬢と君のこと。縁談がまとまったの? 僕はてっきり、君の結婚が決まったから、一家の肖像画でも描かせるのかと思ったんだけど」
少々砕けた口調で、王太子はエドガーをからかった。
「……マインドスケープ子爵令嬢のことでしたら、残念ながら、違います。まだ決まっておりません」
エドガーは、外野から、シシーとのことを聞かれたのは初めてだった。身の縮む思いだったけれど、恥じることはないと正直に告げた。王太子は大きく目を日ひらく。
「へえ! 子爵令嬢のことは否定しないんだな」
「私がアプローチをしているだけと言った方が適切かと存じます」
エドガーの率直かつ真摯な物言いに、王太子はのけぞった。
(『冷血騎士団長』な上に超堅物。なのに自分よりも地位がずっと低い子爵令嬢に片思いだと!? しかもその子の名誉を優先させる!? 信じられん)
王太子はもっと話を聞きたい気がしたけれど、エドガーの顔を見てこれ以上は聞き出せないだろうと判断した。
「なるほど、わかった。しかし、噂は広まっている。侯爵夫人が噂自体を否定したという話もあるのだが、よくわからない。しかも、最近、父上のお耳にも入ったよ。それで、侯爵夫人にも事の次第を聞いていたが、はぐらかされたそうな」
「困ったことに、誰も私には聞いてきません。マインドスケープ子爵令嬢の名誉のために訂正したいのですが」
「そ、そうか。わかった。父上にはそう言っておこう」
「誠に恐縮でございます」
「父上は侯爵家には甘いだけでなく、興味津々だからな。侯爵夫人が久々に訪ねてきてくれたので、大変な喜びようだった」
王太子にはとてつもなく厳しく、侯爵夫人にはこのうえなく甘い国王に、思うところはあるだろうに、王太子はからからと笑った。
「何か進展があったならば、早急に知らせよ」
「は。必ず」
王太子が退室すると、エドガーは深くため息をつきながら、侯爵夫人からの手紙をもう一度広げた。読み直す暇もなく、ノックされる。次は、宰相室付きの文官たちの来訪だった。
(王室の画家をわざわざ招聘する? それより、今すぐ母上に謝罪しないといけないが、とても帰れる状況にない。速攻で仕事を片付ける。一刻も早く帰宅し、陳謝する)
そう決めると、侯爵夫人へ詫びの手紙を大至急書いて、使いに持たせた。
結局、四日間に及んだ騎士団への泊まり込みがようやく明けた夜。エドガーは、二十一時を回ってはいたけれど、侯爵邸の門を急いでくぐった。
そして速攻で侯爵夫人に土下座する覚悟で、階段を駆け上がったのだが……。
待ち構えていた侯爵夫人は手厳しかった。身体を直角に折り曲げながら、何度も詫びる息子に冷たく言い放った。
「あなたはあまりにも無責任なの。シシーさんのことは諦めて一切接触しないこと」
「母上、本当に申し訳ありませんでした、」
「駄目よ、謝っても。シシーさんのためにならないわ。あなたも、あなたとの噂も、彼女の足かせにしかならない」
「では、彼女をどうするつもりで?」
「今、追い出すことはできないのだから、いてもらいます。だから、あなたは、私から呼ばれない限り、この家の敷居をまたぐことは許しません」
侯爵夫人が声を張ったので、驚いた侯爵が、夫人の居間に駆け込んできた。
「落ち着きなさい。どうしたというんだ?」
「あなたは黙っていて下さいな! とにかく、この子ときたら……」
「わかった、わかったから。とりあえず、エドガーは自分の部屋に引っ込んでいなさい」
「わかりました」
エドガーが足早に侯爵夫人の居間を出ると、廊下には、騒ぎを聞きつけたダリアがいた。エドガーが立ち去ると、ダリアは慌てて居間に駆け込む。
「お母様、落ち着いて」
「別にエドガーは、シシー嬢に無体なことを強いたわけでも、嫌がられているわけでもないんだから、そこまで言わなくても」
「あなた! まっとうな男性なら、こんなわけのわからないことにならないのですわ」
泣き崩れてしまった侯爵夫人の肩をひたすらさすりながら、侯爵はオロオロしていた。
「いや、でも、エドガーはエドガーなりに頑張っていて……」
「あなたがそんな甘いこと言うから、あの子はやりたい放題やった上に、何の結果も出せず、迷惑ばかりかけているのです!」
「とにかく、エドガーは私の許可があるときしか屋敷内に入らせません! いいですね!」




