22. 君は薔薇
どちらからともなく手を離すと、エドガーもシシーも寒いと感じた。エドガーは、自分が彼女にもっと触れたいと焦がれているのだとわかった。けれど、シシーの方は、自分がどうしてそう感じたのか全くわからない。
(閣下の手は大きくて力強いから、心地よかった。きっと、父上を思い出したのね。こんなお兄様がいたらいいのに……。ダリア様がうらやましいわ)
エドガーが聞いたら号泣しそうなことを、シシーは大まじめに考える。そして、エドガーについて庭園に出た。
「閣下! これくらいの速さで歩けばいいですか?」
「……シシー嬢……歩くの早いね、もっとゆっくりでいいよ」
レディの散歩なのだし、せっかく二人きりになれた。だから、エドガーは、ゆっくりと緑や花を楽しみながら歩いて回りたいと思っていた。
しかし、並んで歩くシシーは、信じられないほどの脚力の持ち主だった。過酷な訓練はもちろん、実践でも長い行軍を指揮してきたエドガーでも驚くほどだ。
今日のシシーは、制服ではなく、紺のデイドレス姿なのだが、ほとんど走っている速さだ。エドガーは、明日からの前侯爵夫人と侯爵夫人が心配になった。
(シシー嬢、豪脚すぎる……こんなに早く歩かれては、いい雰囲気になるものもならない!)
「申し訳ありませんっ。これくらいの速さが一番健康にいいと、医学校で習いましてっ!」
「そ、そうか」
「大奥様も奥様も、慣れるうちは、もう少しゆっくりの方がよろしいですか!?」
「た、たのむ」
シシーは半分ほどの速度を下げたので、今度は少しゆっくりすぎる。でも、エドガーは納得して肯いた。
(この人、息切れ全くしていない……。恐るべし。すごい体力だな……。何てすばらしい)
シシーに参っているエドガーは、全てに感心し賛美するのみだ。
「シシー嬢は、運動もできるのだな」
「え、何もしたことはないです」
「でも、騎士団にスカウトしたいくらいの体力だ」
エドガーは本心から言うも、レディに言うべきことではないと気が付いて慌てて否定した。
「いいんですよ、閣下。私の実家は田舎ですから、外で一日中遊んでいたせいかもしれません」
「さっき、デュラス伯爵夫人が見送りに来ていたけど、騎士団にいる息子のギャラントくんは、幼馴染だと聞いたよ」
「はい。ギャラントとは、よく飛んだり跳ねたり登ったり走ったりしたものです」
「そうか、君の領地はとてもいいところなんだろうな」
シシーは嬉しそうに笑う。そして、弾む声で故郷についてエドガーに生き生きと語った。
「何にもないですよ。農業にしても放牧にしても、代々苦労してきました。でも、星がきれいで、山脈が広がっていて、どこまでも歩いていけるんです」
「マインドスケープの領地は……いつか是非行ってみたいものだ」
エドガーは、つい三日前に転移魔法で行ったことは永遠に秘密だと思いながら、真摯に言った。それが、本心からの言葉だとわかったので、シシーは誇らしそうに肯いた。
侯爵邸は広かった。散歩道には、様々な趣向が凝らされている。小さな池を眺めていると、秋だと言うのに薔薇のアーチが現れた。しかもトンネル状になっていて、ピンク色の薔薇が所々に咲いている。シシーは歓声をあげて、くぐろうとした。
「きれいですね!」
(君の方がきれいだ)
「気を付けて」
そのときエドガーは、とっさに前に出て、シシーの前の枝を払った。少し飛び出していたのが気になったからだ。
「あ、ありがとうございます」
「大丈夫かい? とげはなかった?」
エドガーがシシーの顔を心配そうにのぞきこむと、シシーは上ずった声で、大丈夫だと答えた。
「私の後ろからついてきてほしい。ほんのかすり傷でも、あなたにつけたくないから」
さすがのシシーもどぎまぎして、目を見ひらく。高貴なお姫様のように扱われているように思えたからだ。
「閣下。私は丈夫ですから大丈夫ですよ! 木登りだってできます!」
「……そうか。いつか見てみたいものだ」
またにしても飛び出したシシーのレディ失格発言にも関わらず、エドガーは優しく答えた。
(……閣下! なんて人たらしなの! さすがは騎士団を束ねるお方。部下として絶対の忠誠を誓いたくなるわよね!)
シシーは、そんな騎士団に守られている国の治安と平和を確信した。やはり見当はずれな解釈をしてしまうシシーだった。
「祖母と母が好きでね、一年中、何かの薔薇が見れるように工夫されているらしいんだ。私でさえ、最近知ったのだ。庭師は大変らしいけど」
興味深そうに薔薇を眺めるシシーを見て、エドガーは言った。
「ちょうど、不思議に思っていたところなんです。秋に見た記憶がないような気がして。でも、本当にきれいな薔薇です」
「とても君に似合うから、後で同じものを部屋に届けさせよう」
(……え? ……ううん、騎士道を極めていらっしゃるだけ。私が部下だったら、永遠の忠誠を誓ってしまう!)
もはやシシーの顔は真っ赤だった。気を良くしたエドガーは、さらに迫った。
「前からお願いしようと思っていたんだけど……、『閣下』じゃなくて、名前で呼んでもらえるかい?」
「え、そんな滅相もないです」
恐る恐るお願いしたエドガーだったけれど、シシーに食い気味に否定されてしまう。しかしエドガーは、それでも食い下がった。どんどん打たれ強くなっているのだ。
「あなたに『閣下』とよばれるたびに、年寄りになった気分になる。他に人がいないときには名前で呼んでほしい」
「でも……閣下は閣下であられます……本来であれば私なぞが言葉を交わすこともないお方で、」
「そこを何とか頼む」
英雄にここまで請われて、拒否するわけにもいかず、シシーは小さな声で『エドガー様?』と呼んだ。エドガーは心を震わせた。
「……シシー嬢」
「……エドガー様。私は使用人ですので、みんなの前でも、たとえ他に人がいないときでも、『シシー』と呼んで下さいませ」
「……わかった、善処しよう、シシー」
何となく照れてしまった二人は、待ちくたびれた前侯爵夫人の使いが呼びに来るまで、そのままぎこちなく散策を続けた。




