1. はじまりの朝
シシーの朝は早い。
「もうちょっとがんばらなくちゃ。がんばれる、私なら」
彼女はベッドからはい出ると、身なりを整えた。
「よし、起きた。大丈夫。がんばる」
今から早朝の配達の仕事だ。王宮にあがり、配送室で新聞や郵便を分類し、届けてまわる。
月末ではなく、イベントもないから、大した量ではないはず。1時間もあれば終わるだろう。帰宅したら、医学校の制服に着替えて登校だ。
朝イチで、前期の成績発表がある。そのことで頭がいっぱいだった。彼女は、胸のあたりで十字を切り、祈った。
(結果は出てるけど。神様、父上、母上、おじいさま、おばあさま、どうか私をお守りください!)
バイトで毎日通っている王宮は、学校や病院と、それらに通ったり勤務する者のための寮と下宿に囲まれている。
シシーはその中のひとつ、下級貴族の子女向けの下宿に入っている。
金銭的事情から、平民向けの下宿がよかったのだけど、シシーは貴族の令嬢なので、仕方なくここの一番小さな部屋に入っている。
準備ができると、シシーは階下におりた。薄い金髪、薄い身体に白い肌、小さな顔に収まった薄い紫の瞳が扉のガラスに映る。いかにも頼りなげだ。
「寒いっ」
扉を押し開くと、思わず声が出た。
それが聞こえたのか、オーナー兼管理人のマチルダが出てきた。マチルダは非常に耳が良く、ピアノの調律魔法が使える。手をかざすだけで、音程の狂ったピアノがよみがえるらしい。
「ナッツよ、疲れが取れるから食べなさい」
シシーに紙袋を手渡した。真っ赤に塗った爪が目をひく。年齢不詳できれいなマチルダは、今日も素敵だ。
「わお、ありがとうございます」
「適齢期に入ったご令嬢が、日が昇る前から出かけて、帰りも遅いなんて」
そう、シシーはものすごく忙しい。夜明け前に起き出して王宮の配送室で仕事、医学校では勉強と実習にはげむ。夕方からは、王宮の救急室で仕事。帰宅すると予習だ。
(卒業まであと一年半。大丈夫なのかな、私。だめだ、考えないようにしよう……)
シシーは、辺境に近く、好条件とは言えない領地をおさめる子爵家の長女だ。常に赤字ギリギリの経営で、彼女は子供の頃から、両親と領地のために働き、家事もこなしていた。
勉強がとても得意だったので、四年前、超難関の医学校に合格し、王都にやってきたけれど、三年前に両親が亡くなってからは苦学生だ。
子爵家の後継となる彼女の弟は、まだ五歳。気のいい叔父を領主代理に立てたけれど、少し前に領地が水害に見舞われてしまい、危機的状況だ。だからシシーは、一日六時間は働いて、仕送りをしながらも、奨学金を死守するべく猛勉強する毎日だ。
(最近なんだか、身体が重くて辛いわ。どうしたんだろう)
「疲れてない? 力がつくもの食べさせてあげるから、帰ったら絶対顔を出しなさいね」
マチルダが見送ってくれた。
シシーが口笛を吹くと、自転車が浮かび上がりながら現れた。ペダルに足を置きながら振り返ると、マチルダが心配そうな表情を浮かべていた。
「ありがとうございます、行ってきます!」
シシーがひらひら手を振っただけで、車輪が回る。
あっという間に、広大で荘厳な王宮に着いた。
自転車を着地させて、門兵たちに挨拶をする。そのうちの一人は昔から知っているおじさんで、騎士団の副団長をつとめたシシーの父の部下だった。
「シシーお嬢さん、珍しく疲れた顔ですよ、大丈夫ですか?」
シシーは自転車から下りながら、口笛を吹くと車輪が止まって、ひとりでに駐輪場の方に消えた。
「もちろんよ。そんなにひどい顔?」
「おじさんのお弁当を持って行って下さい」
「え。ほんと」
おじさんの奥さんは、このあたりで一番流行っている食堂のシェフだ。
(それはぜひ拝見したい! 食べてみたい!)
シシーは唾を飲み込んだ。
「でもおじさんがお昼に食べるものなくなるじゃないの」
「いいから。絶対に持っていっていただきます。後で詰所から持ってきておきますから」
「……どうもありがとう」
門からは、スクーターという魔道具で職場まで移動する。何代か前の国王が魔道具マニアで開発に力を入れたおかげで、この国では素晴らしいものが普及している。
陽が高くなってきたけれど、風は冷たいままだ。スクーター専用の通りを走る。流れていく風景の細かいところまで目に入ってくる。目がいいのはシシーの取りえの一つ。騎士団が隣の大通りを行進しているのが見えた。他にはだれもいない。
レンガ造りの建物が並ぶ、大通りに入った。スピードを上げて気分が良くなったせいで、シシーは見逃しそうになった。
(え、今のなに!? 人だわ!)
ひときわ立派な建物の玄関に続く階段で、男の人がうずくまっていた。慌てて引き返す。 彼女がスクーターから転がるように降りると、うめき声が聞こえた。
駆け寄ると、彼は震えながら両手をついて立ち上がろうとするところだった。
「ストップ! 動かないで」
もし頭部に損傷があったら、大変なことになる。
彼は言うことを聞いてくれて、というより、動けなかったようでシシーのほうに半身を向けて静かに横たわった。
シシーが顔を近づけると、うっすら目を開いた。 深い群青の眼。上品なのに精悍で男らしい顔立ちとたくましい身体。
(麗しいのに、かっこいい人だわ…… )
男性の外見をほとんど気にしないシシーであっても、彼の魅力には気が付いた。
しかし、見惚れる暇もなく、彼は血のようなものを苦しそうに吐いた。彼が着ていた白いシャツは赤く染まっていったけれど、彼女は冷静だった。
「まだ学生ですけど、私、医者の卵ですし、治癒魔法も使えます」
「大丈夫だ。胃の調子が悪いだけだ」
シシーは、頭を打っていないか一応確認した。
「誰かいませんか!」
彼女は声を張り上げた。一緒に医務室へ運んでくれる人が必要だ。
けれど何度叫んでも誰も来ない。彼が出てきたばかりの建物のドアを叩く。
「ここは今私のほかに誰もいない」
立派な宿舎なので、シシーは驚いた。
仕方なく、絶対無理だろうと思いながらも、彼の両手を引っ張っておんぶしようとしたらできてしまった。
(え、うっそ。やだ、私ってどんな怪力女よ!)
どうやら彼が自身の魔法で身を少し浮かせているらしい。
それでも男の人をおんぶしたのは初めてで、こんなの叔父に見られたら泣かれてしまう。遠い目になりながらスクーターに乗った。
「行きますよ」と声をかける。
そこで気を失った彼は、急に重くなった。つぶされないよう猛スピードで夕方からバイト勤務する医務室へ向かった。